3
雨が降っていた。
深夜である。
街はすでに眠りについており、時折りタクシーが客を乗せてやって来て、走り去って行くが、その音もほとんど雨音にかき消されていた。
いつしか雷は鳴り止んでいたが、雨足は依然として強く大地を叩きつけていた。
その豪雨の中、一つの影が疾り抜ける。
何かから逃げるような足どりだ。時々それが乱れてこけてしまいそうになるが、それでもその影は闇の中を走り続けた。
何処を目指しているのか。
恐らく自分が何処に向かって走っているのかさえ、その影はわかっていまい。
ただ、逃げていたのだ。
立ち止まれば、一瞬でおのれ自身を呑み尽くすあの恐るべき運命から。
「――ありがとう、ここから歩くわ」
深夜。
雨の通り。
赤色のロードスターがS市中央公園の正面入り口で停車した。
ドアを開けて、一人の女が傘を差して車を降り立つ。
背が高く、髪の長い美しい女であった。年齢は二二、三歳といったところだろうか。抜群のプロポーションの持ち主である。
「本当にいいの、京子ちゃん? 女の一人歩きは危ないわよ、雨も降ってるし」
眼鏡をかけた美女が、運転席から京子の顔を覗くようにしながら声をかける。
「大丈夫よ。こんな日に外を出歩く痴漢なんて、いやしないわよ」
「そりゃ、そうだけど…」
「じゃ、そーゆーことで。次の撮影は明後日よね、由紀」
「え、ええ」
「じゃ、おやすみなさい」
京子は明るく笑って、ロードスターのドアを閉めた。
それからしばらくの間、由紀が心配そうな
飛沫を上げて車が走り去り、その姿が見えなくなると、京子は不意にその美貌を曇らせ、溜め息を一つついた。
「――たまには、ひとりで帰りたくなるときもあるわよ」
そうごちると、京子は公園の闇の中へ歩き出した。
街灯が寂しそうに淡い光を放ち、闇を退けようとがんばっている。
早坂京子は、小さなプロダクションに所属し、モデルをやっていた。
すでに何度か有名雑誌の表紙を飾り、近々、写真集を出すという話も出ているほどのモデルである。
「そりゃあね、売れるってのはいいことだけどさ」
京子が、足許の水たまりの雨水をブーツの爪先で跳ね上げる。
「そのために、身体を売るってのは嫌よね」
この日、彼女は撮影終了後に、所属するプロダクションの社長に呼ばれ、次のような話を聞かされたのである。
「より良い写真集を作るには、今以上に金と人が必要なんだ。――でね、スポンサーの社長さんが、君が言うことを聞いてくれれば、もっと金と人を出さんでもない、と。――わかるね、この意味が」
わかりたくもなかった。
いわゆる、枕営業というやつだ。
京子はすでに処女ではない。
しかし、いや、だからこそ余計に迷った。迷って、返事は今度の撮影のときまで待ってくれと言ってきた。
とはいえ、それまでに結論は出せそうになかった。
いや、もしかしたら答えはもう出ているのかも知れない。
だからこその迷いである。
「あんな脂爺いに、どうして抱かれなくちゃいけないのさ」
考えただけでも総毛立つ。
モデルに人権はないのかと泣きたくもなる。
「あーあ…」
京子は、この状況から逃げ出したくなる衝動を必死にこらえ、とぼとぼと公園を歩き出した。
ほどなく、公園の出口が見えてきた。
ライトに照らされて、ぼんやりと浮き上がっている。
そして、道路をはさんで建つ三〇階建てのマンションの二〇階に、京子の部屋があった。
こんな高級マンションに住めるのも、モデルをやっているおかげだ。
だから、今辞めてしまえば、自分はきっと路頭に迷うだろう。
うまくいけば、他のプロダクションが拾ってくれるかも知れない。
しかし、そのスポンサーの社長が圧力をかけたら…。
それが出来る立場に、彼はあるのだ。
売れて欲しい。そのために、自分は青森の田舎から出て来たのだ。
だから、売れるために身体を売るのは仕方のないことなのかも知れない。
この世界で生き残るためには…。
そのとき、京子の背後の茂みが、がさっと音を立てた。
その音を聞いて、京子が、ビクッと身体を震わせる。
一瞬で顔が蒼白になり、冷や汗が出た。
「…ち、痴漢さん、かな? それとも…」
立ち尽くす京子の背後で再び茂みが鳴り、続いて水たまりに何かが倒れる音がした。
「――!?」
反射的に振り向いていた。
その京子の眼の前に、一人の少年が俯せになって倒れている。
しかも裸だ。
少年を抱き起こそうと駆け寄る。
わりと筋肉質の身体に、いくつもの切り傷が走っている。血が流れているものもあった。
その少年を見た瞬間、京子は、自分が異世界に足を踏み入れたことを実感した。
この少年の存在は尋常ではない。
自分は、今、この場にいてはいけなかったのだ。
しかし、頭ではそう叫んでいるのに、身体は言うことを聞かなかった。
「き、君、大丈夫!?」
少年を抱き起こし、その身体を見た瞬間、京子は、きゃっとかわいらしい悲鳴を上げていた。
少年の逞しい胸から腹部にかけて刻まれた不可解な記号。
赤黒い肉を覗かせる傷口を見たとき、京子はこみ上げてくる酸っぱいものを必死で呑み下していた。
頬を叩き、意識を取り戻させようと、少年の身体を揺り動かす。
しかし、呻き声を上げるだけで、少年が起きる気配はない。
そのうちに京子は、少年の身体が熱っぽいことに気づいた。しかも震えている。
京子は焦って額に手を当てた。
「…すごい熱だわ」
どういう事情があるのかわからないが、傷だらけで、裸で雨の中にいたのなら、熱を出すのも当然だろう。
このときすでに、京子はこの少年を自分の部屋に連れていくことに決めていた。
このまま見捨てていくほど、落ちぶれてはいなかった。
京子は着ていたコートを脱いで少年の身体をくるむと、苦心しながら雨の中少年を背に負った。
「まったく、これからどうなるんだろう…」
また溜め息をついた。
「――困ったことになったな」
スーツ姿の男が、少し楽しそうな口調でそう言った。三五歳前後の、総髪で、斬れそうな程冷たく鋭い眼をした男であった。
彼は足を組んで椅子に座り、マホガニーのデスクをはさんで立ち尽くす三人の男を見つめていた。
中央の男は、すでに漆黒のローブを脱いでスーツ姿になっているが、その顔は紛れもなく、あの闇の密儀を取り仕切っていた司祭のものであった。司祭は、惨めにもガタガタと身体を震わせて、今にも泣きそうな顔をしている。
向かって左側の、岩のような屈強な男が、司祭をあの混乱の中から脱出させた『巨人』の大竹という男であろう。
そして、総髪の男の視線は、向かって右側の白髪の老人に向けられていた。
「どういうことが原因で、あのようになってしまったのか、説明していただけるかな」
男の声を聞いた途端、白髪の老人が、やせ細った小さな身体をビクンと震わせた。
彼もまた泣きそうな顔をして、流れ落ちる汗をハンカチでしきりに拭っている。
「黙っていてはわからんだろう、ドクター池田?」
男の声はあくまでも優しげだ。しかし、その裏に秘められた圧力に、池田と呼ばれた老人は身体を恐怖に震わせるばかりである。
「あなたは自室で、部下の手術風景をご覧になっていた筈だ。それを見て、あなたがどう思われたのか言って欲しいだけなのですよ」
「…は、はい」
老人は、ごくりと喉を鳴らし、覚悟を決めたように話し始めた。
「魔装鎧
「ふむ――」
男がチェアーを少し揺らした。
きぃという音が沈黙の部屋に響く。
「――では、何が原因なのかね」
「…これは、手術を担当した彼らのうち、重傷ではありますが何とか一命をとりとめた者たちも言っておったことなのですが――」
「――聞こう」
「我々は、『騎士』型の
「なるほど。それはつまり、全ての設計を行ったあなたの責任ということになりますかな、ドクター」
男の声が、凛と響く。
「は、はい。どのような罰もお受けいたします、寺垣様」
今にも泣き出しそうな顔であった。
寺垣という、自分より遥かに年少の男に、もの凄い恐怖を感じているのだ。
「確かに、この度の失敗は大きい。だが、だからといって、すぐにあなたの首をはねることはしない。何故なら、あなたを失うことは我々『ノウド』にとってより以上の重大な損失だからだ」
「で、では…?」
安堵に満ちた顔を上げる。
殺されると思っていたからだ。
「今すぐに、『騎士』型を上回る兵士の開発に取りかかって頂きたい。奴は、他の魔装鎧の能力を吸収するという能力を偶然ながらも得た。こちらも早急に奴を発見し、殺すことに努力する。が、もし生き延びれば、奴の存在は我々にとって非常に邪魔なものとなる。――それ故に、全力をもってこれを排除するのだ」
「わ、わかりました。研究室に戻り次第、新たなチームを編成し、『騎士』型の欠陥の発見及び、それを上回る魔装鎧の開発にかかります!」
「頼りにしていますよ、ドクター」
寺垣が微笑んだ。
悪魔のような魅力のある笑みだ。
恐らく、ここにいる誰も彼もが、この笑みに魅入られてしまっているのだろう。
池田は、死の恐怖から逃れられた安堵に包まれたまま、寺垣の部屋を出ていった。
「さて、君の処分だが――」
寺垣が、中央の司祭に眼を向ける。
「私がここに戻って来た意味はわかるね」
「――!?」
「君では、この事態を収拾するのは無理だと本部が判断したのだよ」
「そ、そんな――」
司祭は、すがりつくような眼を寺垣に向ける。
「君には、アメリカ総本部に更迭ののち、しかるべき処罰が下されるだろう。――下がりたまえ」
寺垣の言葉には、逆らいがたいものがあり、男は肩を落として部屋を出ていった。
「――しかし」
それからしばらくして後、寺垣が溜め息まじりに、呟くように言った。
その呟きに、大竹は巨体を緊張させて、寺垣の方を向き直る。
「厄介なことだな、大竹」
「は――」
「我等『ノウド』が、世界制覇という野望の実現に踏み出して、もう一〇年余り――。これほどの失態は初めてだと、総本部の連中にさんざん言われたよ」
寺垣が苦笑する。
「――」
大竹は無言である。
「――ま、こんな所で腐っていても詮無きこと。大竹、伊沢さんに連絡を取って、こちらに来てもらってくれないか? 久しぶりに会いたいのでね」
「牙狼連合の、ですか?」
大竹が、太い声で言う。
少々不満そうである。
「うむ。関西を中心にして日本全国に組員を配する彼の組織なら、一〇五号の発見もたやすいからな」
「し、しかし――」
「どうした? 不満そうだな、大竹。――心配するな。無論、我々も動くさ。魔装鎧
「そうですが…。自分は――」
「わかっている。敵を討ちたいのだろう。だが、今は待て、いいな、大竹」
寺垣には逆らえなかった。
魔装鎧をまとう魔戦士へと改造されたとき、彼らはその脳裡に寺垣をはじめとする『ノウド』幹部への絶対忠誠を刻み込まれてしまっているのだ。
だから、不満があっても従うしかないのだ。
もし逆らえば、待つのは刹那の『死』である。
「わかりました、寺垣様」
大竹は拳を握りしめて、言葉を吐き出した。
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