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「こ、こんな…」
その少し前、手術台に一番近かった一人の医師が狼狽した声を上げた。
「た、大変です!? 一〇五号が、眼を開いています!」
「な、何だと!?」
眼鏡の男が薄明の下、手術台に駆け寄って、少年の顔を覗き込んだ。
その男の言う通りだった。
少年が眼を開いていた。まだぼんやりとしているが、それでも瞳の奥に輝くのは知性の光だ。その瞳を見た瞬間、眼鏡の男は「手術」の失敗を悟った。
「…ここは、何処だ?」
少年が呟くように言う。そして起き上がろうと四肢に力を入れる。
起き上がれない。
少年が眼だけを動かして、自分の右手首を見た。
そこに、己れの身体を手術台に縛りつける鋼鉄製の枷があった。
「何だ…これは?」
少年は、自分の頭の左右に立つ白衣の男たちに向かって言った。眼が、彼等の顔を睨みつけていた。そこには、はっきりとした意志があった。
「貴様等、何者だ…?」
「ヒィ…」
眼鏡の男は、思わず退いてしまった、完全に若者の眼光に気圧されてしまっていた。恐怖さえ感じた。彼は眼鏡のガラス越しに見た。少年の四肢が小刻みに震えていた。腕や足の太さが倍近くにまでふくれ上がっていた。血管が浮いていた。凄まじい力が少年の体内から湧出しているのだ。
何をするつもりだ。まさか、あの鋼鉄製の枷を引きちぎるつもりか。馬鹿な。いくら何でもそれは無茶だ。ナンセンスだ。ほら見ろ、鋼が腕や脚、それに首に食い込んで、ああ、裂けて、血が出ているじゃないか。やめろ、それ以上やったら首がちぎれるぞ、死ぬんだぞ!?
オオオオオ!
少年が獣の叫びを放った。そのとき、眼鏡の男は見た。少年が咆哮を上げながら、赤黒い気体を口から吐いているのを。
「まさか――」
男の背中を氷のように冷たいものが滑り落ちていく。あれは、魔装鎧を鎧おうとする者が吐く悪魔の
「た、大変です!? 魔装鎧召喚プログラムが、作動しています!?」
「な、何だと!?」
今まで少年の顔に気を取られていたので、誰もプログラムの作動に気づかなかったのだ。
見れば、確かに胸から腹にかけて赤黒く刻印された魔文字に朱色の紗がかかっている。
再び、少年の咆哮が医師たちの耳をつんざく。
このときほど、広間に通じるスピーカーが壊れてしまっているのを恨んだことはなかった。助けが呼べないのだ。この炎と煙では中の様子など知れよう筈もない。
それに、広間の方でも混乱が生じていよう。つまり、ここは、我々だけで何とかしなければならないのだ。
「銃をとれ! 魔装鎧を装着するまでに何としても撃ち殺すんだ!」
少年の装着する『騎士』型の鎧は、汎用型を目指してプログラムされた、いわば
男の命令一下、医師たちは白衣の胸もとを広げ、その内側から黒光りする凶器――ベレッタを取り出して構えた。余程、戦闘訓練を積んでいるのか、見事な構えであった。すでに初弾は
そして、そのとき、異様な破壊音が医師たちの心に氷の槍の如く突き刺さり、眼に映った光景が、彼等に拳銃の
大気を震わせ焦がす銃声が、その
しかし、それは現実に起こったものではなかった。弾丸は全て、少年の身体に穴を穿つ寸前にその螺旋運動を止め、エネルギーを失って、床にバラバラと転がり落ちたのである。
「…ああ…」
もはや彼等に生き残る道はなかった。何故なら、赤い呼気を口から吐く少年が、首や手足首に鋼鉄製の枷をまとわりつかせたまま、手術台から降りようとしていたのだった。
ハアアアア…
少年の口から洩れる赤黒い気体が、身体を取り巻くように漂って離れない。
少年の精悍な顔が動いた。その表情を見ると、手足に枷がぶら下がっているのに初めて気づいたようである。
わずらわしそうに右手を動かして、左手首の枷を無造作にむしり取る。いとも簡単にちぎれたそれを、ひょいと放り投げる。
鉄の塊はコンピュータのデータバンクをぶち抜き、火を噴かせた。それを見た医師たちが、半狂乱に陥る。そんなことにお構いなく、少年は残りの枷を取り払い、その枷で次々にコンピュータを破壊し、また、狼狽し困惑している医師たちの頭をざくろのように弾けさせた。
「がっ!」
少年が短く吠えたとき、その双眸が、らんと輝いた。
その瞬間、少年の背後に暗黒の穴――そう、まさに穴である!――が出現し、同時に炎が手術室を埋め尽くした。
何が原因で突如猛烈な炎が室内を埋め尽くしたのかわからない。もしかしたら、少年の背後に口を開けた暗黒の穴の所為かも知れぬ。
その凄まじい炎の中で、しかし、少年は炭と化して崩れ落ちることも、瞬時にして燃え尽きることもなかった。
少年は、いつの間にか暗黒の鎧に全身を包み込まれていた。
炎の舌にあぶられても、反射一つしない真の闇の鎧。それこそ、少年に与えられた悪魔の鎧――魔装鎧であった。
頭部を覆った悪鬼の如き兜、激しく燃えさかる炎を
ゆっくりと魔装鎧を身につけた少年が、ぶ厚い耐圧ガラスに向かって、炎の中を歩き出す。一歩踏み出すごとに、床が鎧の重量に耐えきれずに陥没していく。
少年が右拳を握りしめて引いた。
それに呼応するように地獄の業火が少年の周りで音を立てて渦巻いた。
再び咆哮。
拳が炎を巻いて、耐圧ガラスに
まぎれもなく、少年は炎を操っていた。だが、そのことに少年はおそらく気づいてはいまい。
それはともかく、厚さ数センチもあるガラスは、いとも簡単に砕け散り、室外の新鮮な空気を吸って、炎は新たな息吹を上げたのである。
少年はゆっくりと炎の中から歩み出、眼下に広がる大広間を見下ろしていた。
兜から覗く少年の口は、今や邪悪な笑みに歪み、大きくめくれ上がっている。
そして、依然として赤黒い呼気が歯の隙間から洩れて漂っていた。
「――ふむ。あれが『騎士』型の鎧か」
司祭を送っていった大竹を除いた三体の巨大な鎧武者は、ぶち抜いたガラスをくぐり、こちらにやってくる魔装鎧を見つめていた。
「しかし、佐原隊長。どうやら不完全な鎧のようです」
「本当か? ――高瀬」
「ええ。召喚プログラムの転送が不完全だったのか、武器はおろか、盾すらも持っていませんから、恐らく山岡の言う通りでしょう」
「ふむ――」
「隊長、奴を倒しましょう」
右手の鎧武者、高瀬がはやるように叫ぶ。
「無論だ。――高瀬、行け!」
「は!」
『巨人』が走った。もの凄い地響きを立てて超重量級の影が動く。高瀬は走りながら、鎧武者の巨腕を動かして、腰間の大剣を引き抜かせた。
ぎらり、と邪悪な剣光を帯びて、二メートル強の剣が疾る。
眼前の鎧が立ち止まった。立ち止まって、構えていた。高瀬の攻撃を受けようと言うのか。
そう悟った高瀬は咆哮を上げていた。
「そんな小柄な鎧で、この『巨人』型の剣が受けられるとでも思っているのかぁ!」
ゴオッと風を巻いて振り下ろされる剛剣。
そのとき高瀬は兜を通して見た。銀光の一閃によって縦に分断される鎧が、実は残像であったということを。
「――何!?」
そのとき、本体は超高速で横に動き、剣の一撃を躱していたのだ!
高瀬の振り下ろした剣は、床を叩き壊し、刀身の半ばまで埋まっていた。
「ぬうっ!?」
高瀬が剣を引き抜こうと腕に力を込めたとき、闇色の鎧が文字通り眼のすぐ前に滑り込んで来ていた。
「グオオオ!」
少年の叫び。
高瀬が鎧の奥で最後に見たもの、それは悪魔の如き邪悪な鎧と、そこから突き出される手刀の一撃であった。
手刀は魔界の鎧をいとも容易に貫き、その奥にある人間の脳髄をもかき回して止まった。
『巨人』の手から剣が離れ、ずんっと床を振動させた。そして鎧は、手刀をくらった勢いで後ろへもんどり打って倒れた。また床が揺らぐ。その光景は、狂乱の極致にあった白頭巾たちの動きを止め、山岡、佐原たちを含め、そこにいる人々の心を凍りつかせた。
終わりだ――。
その言葉の意味するものに、人々は戦慄する。そして、また騒ぎ始めた。生き延びたい、その一心で。
「――馬鹿な!?」
その騒ぎの中、山岡が愕然と叫ぶ。
「い、一撃だと!? 一撃で、魔装鎧『巨人』型がやられたというのか!?」
「――データより性能がいいな」
「感心している場合ですか、隊長!? 高瀬がやられたんですよ!」
冷静さを失い、半狂乱になって、山岡が佐原に食ってかかる。
それも仕方のないことであった。
彼等は、今まで闇の実行部隊として、様々な秘密結社を潰し、闇から闇へ葬り去ってきた。全て、『ノウド』の支配する世を創るためだ。その数々の戦いの中、彼等は常に勝ち続けてきた。
この組織が日本で結成されたときからの戦士である彼等の、それは誇りであった。その誇りが、今、誕生したばかりの、それも出来損ないの戦士に叩き潰されてしまったのだ。
冷静でいられる筈もなかった。
「落ち着け、山岡。奴の性能が把握できんとなれば、迂闊に動くべきではない」
「そんなこと――は!?」
山岡の鎧が、急に視線を『騎士』型に疾らせた。
つられて佐原もその視線を追う。
そこ――倒れた高瀬の鎧の向こうで、小さな影がその身長に見合わぬ大剣を引き抜こうとしていた。
その屈辱の光景。
「ぬぅぅ…。させるかぁ!」
「ま、待て、山岡!」
しかし、山岡は佐原の制止を振り切って、『騎士』型の鎧に突っ込んでいった。
「高瀬の
うおおおおと叫んで、長剣を振りかざす。
その直下、佐原は『騎士』がついに巨大な剣を引き抜くのに成功するのを見た。
だが、もう遅い。
佐原はそう思った。
スピードが速いのは小柄だからだと認められる。
だが、パワーはどうだ?
高瀬の魔装鎧を貫いたのは、スピードとタイミングのおかげだ。だが、その小柄さで、おのれの身長以上の長剣を振れるものか。
その筈だった。いや、そうとし考えられなかった。
しかし、佐原は鎧の奥で信じられない光景を見る。
「な、何ぃ!?」
先ず咆哮が聞こえた。そして風が唸った。
鉄火が散り、金属製の悲鳴が空気を揺るがした。怒濤の如く振り下ろされる剛剣に、十文字に交差する剣があった。
あの『騎士』が、剣を振るったのだ。そしてあろう事か…。
「馬鹿な!?」
依然暴走を続ける少年の振るった剣が、山岡の『巨人』の剣を叩き折り、なおかつ、そのままの勢いとパワーを保持して、山岡の胴体を分断せしめたのである!
まさか――
そのとき、山岡の悲鳴が耳をつんざいた。
佐原は、眼の前で二つに分かれて倒れる山岡の姿を、茫然と見つめていた。
何が、起こったのだ?
一瞬理解できない。
そして今、眼前に立つ『騎士』の鎧が、ぬらぬらと濡れていた。
高瀬と山岡の血だ。
そして佐原は見た。
少年の手にしていた長大な剣が、彼の身長にちょうど見合う長さになったいるのを。
「…剣を吸収し、己れのものにしたというのか…」
どういうことなのだ。
そのとき佐原は、ある可能性に気づき、慄然となった。
奴の魔装鎧は、プログラムの転送途中の事故で未完成のまま世に出ることになった。そして、そのことが、同じ魔装鎧に反応して、その全てを吸収し己れのものにする事が可能になったのだとすれば…。
「…最大の敵の誕生か…」
刹那、佐原はハッと我に返った。
すぐ眼の前まで、嵐の如き猛烈なスピードで、少年が迫って来ていたのである。
「ひ、ひぃ!?」
佐原は、兜の隙間から覗く少年の鬼のような形相と、咆哮に思わず身を小さくし、悲鳴を上げていた。
少年が意識を失い、悪魔の鎧の『破壊の意志』に支配されて動いていることを確信する。つまり、今、少年は自分以外の全てを滅ぼそうとしているのである。
少年は、仔犬のように身体を小さくし怯える佐原の脇を烈風のように疾り去っていった。
何ら攻撃を彼に加えることなく。
しかし、佐原が冷や汗を流しつつ安堵の溜め息をついたとき、彼は、自分の首がずれるのを感じた。
それが、少年が疾り去った後に生じた『かまいたち』――次元断層によるものだと、誰が知ろう。
そして、佐原は、地上に落ちていく間に、恐るべき光景を見た。少年はすでに、石の扉をぶち破り、地上へと姿を消していたのだが、その、少年が疾り去った通り道には、佐原と同じように身体を分断された白頭巾たちの死体が、無数に転がっていたのである。
佐原は消えゆく意識の中で、今後繰り広げられるであろう凄絶な戦いのことを思い、ああ、ここで死ねて良かったなと思うのだった。
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