ダークナイト
神月裕二
1
その日は、夜明け前から降り始めた雨のため、一日中暗くどんよりと沈んでいた。
天を見上げれば鉛色の雨雲が重く、そして低く垂れ込め、見るものの心さえも憂鬱にしてしまう。そして雨は、鈍色のカーテンとなって、道行く人人の視界を暗く閉ざしてしまっていた。
雷鳴をはらむ雨雲から時折り光の龍が疾り、大地をその啼き声のもとに震撼させている。
その、雨が蕭々と降りそぼる街で、今、恐るべき事実が進行しつつあることを人々は知らない。
それは、ある教会の地下に集まった数百人の人間の眼の前で行われていたのである。
その教会の祭壇の脇に、地下へ続く階段がある。そこはいつも、陽光の下で行われるミサでは誰の目にも留まらぬよう、ぴったりとした木の板をはめられていた。
しかし、
階段に一歩足を踏み入れると、その不気味に冷たい空気に愕然となる。
両側の壁には一〇メートルほどの間隔を置いて灯明が炎を揺らしているが、それ以上にこの階段を占める闇が濃いために、炎は自分の周りをぼんやりと照らすだけで、大して役にも立っていなかった。
壁はどうやらレンガを積み上げて造ったものらしい。表面がしっとりと濡れているのがわかる。
階段は、終わりがないかのようにえんえんと闇の奥深くにまで伸びていた。
そのうちに、先刻から聞こえていた異様な声がますます大きくなってきているのに気づく。やはり、何かを唱えているのだ。しかし、大きくなってきたとはいえ、依然として地下室の壁に反響しているのか、鮮明さを欠いているため、何を言っているのか理解できない。
やがて、眼の前に異様な
扉は巨大な一枚岩を縦に二つに断ったという感じで、ちょうど真ん中に二つの鉄の輪で出来た取っ手が取り付けられていた。どうやら、それを引いてあけるタイプの扉であるらしい。しかし、その取っ手の周囲に彫られたこの
それは、巨大な山羊の顔に見えた。だが、すぐにそれが
高度な知性の光を感じさせる眼つき、二本の角の間に描かれた五芒星。あれは、『メンデスのバフォメット』――レヴィの描いた悪魔の肖像だ。
そのデヴィルの頭部だけが岩の扉にリアルに、そしてグロテスクに彫られている。その顎髭の下あたりに、二つの鉄製の取っ手が取り付けられている、と言うわけである。
さあ、その扉を開けよう。そして、その向こうに
教会の地下には、巨大な石の広間が造られていた。その規模は、恐らく地上の教会の敷地に匹敵するのではないか、と思われるほどのものである。二〇〇坪は下らないであろう。
ギリシャ時代に見られたイオニア式の石柱に支えられたその地下の大広間には、そこを埋め尽くすほどの人間がいた。
誰もが、KKK団の三角頭巾にも似た黒頭巾を被って跪き、何か呪文めいたものを唱え続けている。
数百名にものぼる怪しげな集団が整然と居並ぶその前に、ひとつの祭壇がこしらえられていた。
そして祭壇には一人の男がいて、これも不可思議な言葉を叫びながら、すぐ傍らで煌々と燃え輝く炎に何かをくべていた。
くべるたびに炎が異様な煙を吐き出す。恐らくケシか何かであろう。
そういった様々な要因が重なり合い、地下大広間は異妖な雰囲気に包み込まれていたのである。
部屋を支える石柱の根本には、デーモンの姿が彫られていた。それは、サテュロスの下半身と割れた蹄を持つデーモンの姿であったし、それぞれの石柱の間の石壁には、聖アントニウスが悪魔の誘惑に悩む絵、万魔殿に居並ぶ無数のデーモンとそれを睥睨するサタンの姿、666の獣の絵、邪悪な神話や伝説に属する名もない無数の怪物ども、罪悪と恐怖、冒涜で満ちる魔界など、どれも非の打ち所のない、眼を剥きそうになるほどの美しくも悪夢めいた筆致で描かれていた。そして、それだけにそのおぞましさ恐ろしさが、見る者の意識に直接訴えかけてくるのだ。しかも、部屋全体が暗く妖しい雰囲気に包まれているので、今にもその巨大な壁画からデーモンたちが這い出てきそうな、そんな幻惑に囚われたりもするのだった。
やがて、人々の妖しげな呪文の詠唱が、はたと止んだ。何かを待つように、しわぶきひとつ起きない静寂が地下大広間に舞い降りる。
程なくして、祭壇の向こうの石壁が真ん中辺りから左右に割れ始めた。その壁にだけ絵が描かれていなかったのは、つまりこういう訳だったのである。そしてその向こうから現れたのは、いかにもぶ厚そうな強化ガラスであった。
その向こうは、この広間とは対照的に近代的な設備に埋め尽くされていた。狭い部屋にいくつものコンピュータが設置され、白衣を着た数人の男たちが忙しそうに動いていた。その部屋の真ん中に手術台があった。そして、その上には手足を大きく広げ、手首足首、そして首までも鋼鉄製の枷で手術台に縫いつけられた全裸の少年がいた。若者と呼ぶほどの年齢でもない、声変わりしたての線の細い少年であった。眠らされているのか、少年はピクリとも動かない。
今、その少年を囲むように三人の白衣姿が立ち、ガラス越しに広間の方を見ている。どうやらこれはビデオ映像などではなく、実際にガラスの向こうで行われているものらしい。
「
「魔装鎧『騎士』型召喚プログラム、異常なし」
「魔装鎧『騎士』型被着装者、脳波、脈拍、血圧ともに正常」
「
パソコンのモニターの前に座る男たちが、モニターに表示されるデータを次々に読み上げていく。
手術台の側に立つ三人のうち眼鏡をかけた男が、その報告に満足したように頷き、
「司祭、全て準備が整いました」
ガラス越しに祭壇の黒頭巾に呼びかける。どうやら、この眼鏡の男が、この手術の責任者らしい。
しかし、いったい何の手術なのだろう。
「うむ。では始めてくれ。時が移らぬうちに」
「は。それでは、ただいまより、一〇五号の身体に、魔文字による刻印を行う!」
そのとき、天空で雷光が疾った。
光と闇とが交錯し、一瞬逆転した。
外は、嵐になろうとしていた。
「――唱えよ、新たなる戦士の誕生を祈り、讃え、祝すのだ! この世を我等『ノウド』のものとするために!」
「オオ――!」
「オオ――!」
地下大広間をどよもすほどの歓声が上がった。
「唱えよ、者ども!」
司祭が叫んだ。
再び、広間を埋め尽くす人の波が、あの不可解な、それでいて何かしら隠された意味を持つ言葉を呟き始めた。
白い頭巾に隠されていてわからないが、その眼は祭壇で揺れる炎を通り越し、その向こうで繰り広げられる魔術的な秘儀に見入っていた。
コンピュータのモニターに次々と文字が打ち出されていく。すると、手術室の天井に設置されたスピーカーから、その文字を読み上げているのであろうと思われる男の声が流れ出す。機械によって合成された声なのだろうが、そうだとはほとんどわからないほど滑らかな、そして人間的な声であった。
その声は、ラテン語を話していた。しかし、何を話しているのかわからない。そしてその機械音声と、頭巾たちが一心に唱える言葉は、イントネーションに違いはあれ、同じものであることがやがてわかってきた。
その頃、手術台の周りにも動きが生じていた。最初から全裸の少年の周り立っていた三人の医師のうちの一人が、手にメスを取ったのである。
眼鏡の責任者が頷くのを見届けると、彼は例のラテン語を小さく呟きながら、メスの刃を若者の逞しい胸板に押しつけていった。
びくん、と瞬間、少年の身体がけいれんする。
麻酔を打たれて眠らされているとはいえ、反射的に身体が反応したのだろうか。しかし、そんなことはまるで気にもせず、その医師は恍惚とした表情を眼に浮かべながら、ゆっくりとメスを動かしていった。
メスが動くと、少年の白い身体に鮮やかな朱線が疾る。血の珠がぽつ、ぽつと盛り上がってくる。それが、何とも美しい光景に思えて、医師たちの眼にますます狂気の光が増していった。
そしてメスは、精確にある幾何学的な紋様を肉体に描き出していく。紋様がひとつ完成した。それが何であるのか皆目見当もつかなかったが――もちろん、彼等にはそれの意味するところはわかっていたのであろうが――その形は、中抜き文字に似ていた。
そして、その紋様に対して、次の瞬間、彼等は戦慄する行動に出たのである。
なんと、その紋様の枠線から内側の皮を、身体から剥ぎ取ったのだ!
何とおぞましい、吐き気のする行為だろうか。少年の身体は真っ赤に染まり、そして、胸の一部が赤黒い筋肉を剥き出しにしている。しかも、少年は、まだ生きているのだ!
そうして、ようやくひとつの紋様が完成するわけだが、それを描き上げる頃には、メスを取っていた男も汗だくになっていた。
そのため、その男が汗を拭ってもらおうと他の白衣の男に顔を向けたとき、眼鏡の男が冷たい声で告げた。
「何をしている。休むな、続けろ。時が移っては全てが無駄になる」
「は、はい…」
再び男はメスを取って、少年の身体を切り裂き始めた。すると、やはり精神状態が高揚し、一種のトランス状態になるのか、眼は恍惚となり、口許が笑みに歪みだした。
少年の身体に刻み込まれた紋様から流れ出す血で、すでに手術台もぬるぬるになり、真紅に染まっていた。
左鎖骨の辺りから始まった奇怪な紋様は脇腹の辺りまで行くと、すぐに二行目に入った。
紋様は五センチ四方の正方形に入る大きさで、全ての紋様を刻み終えるまで、約三時間が経過していた。紋様は全部で五列――合計三〇個あった。
今や、少年の身体は出血多量で、死に至ろうとしていた。脈拍、血圧ともに危険なまでに低下し、心電図の描く波も小さなものとなっていた。
しかしなお、手術台の下にまで血溜まりが出来ていようとも、手術は続行された。輸血すらなしに。
「魔装鎧作成プログラム、及び召喚プログラムの転送準備」
眼鏡の男の声が冷ややかに流れる。
彼らの言う魔装鎧とは、異次元の生物が寄り集まって形成された、この世界のあらゆる法則に当てはまることのない鎧のことである。つまり、簡単に言えば、この世界の武器――剣、銃、ミサイル、核などといったあらゆる攻撃手段が、まるで役に立たないものとなってしまうのである。
そして、魔装鎧作成プログラムは、その名の通り、魔装鎧を作成するためのプログラムである。このプログラムには、異次元空間に侵入し、そこに住む生物の身体を、事前にプログラムされた鎧の構成――用途、強度、形、色などといった様々な要素通りに集める作業がインプットされている。そして召喚プログラムが、そうやって形を為した鎧をこの地上に召喚し、被装着者の身体と融合させるのである。これによって、無敵の戦士が誕生するのである。この間に要する時間は、コンマ〇五秒以内だとされている。
そして、この場合の異次元とは、「魔界」と一般に理解される世界に他ならなかった。
今、その恐るべき戦士を誕生させるべく、身体に刻まれた紋様の一つひとつに、符が貼り付けられていく。そして、その符に赤と黒の電極が取り付けられた。その電極は、部屋の隅に設置された大きめのコンピュータに、いくつかの機械を通して最終的につながっていた。
「転送作業、始め」
その声に、端末の前に座っていた男が反応する。手が、マウスを動かして、あるプログラムを作動させたのである。
その途端、少年の身体が跳ねた。けいれんで収まる跳ね方ではなかった。異常である。恐らく、手術台に身体をつなぎ止めていなかったら、彼の身体は空中にまで跳ね上がっていただろう。
「――!?」
冷静な眼鏡の男も、これには驚いた。慌てて、手の空いている何名かに向かって、
「何をしている、早く押さえつけろ!」
と怒鳴ったほどである。
これを見ていた頭巾たちにも動揺が走っていた。もはや呪文の詠唱などやっている余裕はなかった。広間が、一瞬にして騒然とした喧噪に包み込まれる。こんなことは初めてであった。何かが起こる。いや、もう起こってしまったのかも知れない。破滅だ。終わりだ。
司祭は彼等に向かって「静まれ」と連呼しているが、いっこうに静まる気配はなく、それどころか騒ぎは拡大する一方であった。
「ぐわああああ!」
少年の口から咆哮が上がっていた。医師たちが懸命に少年の身体を押さえつけ、多量の鎮静剤を打ち込むが、まるで効き目はない。
「な、何が起こっているんだ…?」
「わかりません!? 麻酔は計算通り投与していますし、魔物の精神支配を回避するための抗魔剤の使用もそうです!」
「では、何だ!? 何が原因なんだ」
眼鏡が叫ぶように言う。
「何か別の要素を見落としていたのか、それとも『騎士』型のパワーを見誤っていたのか…」
「プログラムの転送作業を中止しろ!」
眼鏡の男が、少年の絶叫の中で叫んだ。
少年の身体をよってたかって押さえつけていた医師の一人が、自分の端末に飛びついた。プログラム転送作業開始の際、マウスをクリックした男だ。その男がモニターを見たとき、プログラムの転送が八割近く終了していることがわかった。モニターの下辺に横の棒グラフで示されているのがそれだ。もう少しなのに。もう少しで、全てが終わるというのに。
「早くしろ!」
ためらう男に、恐慌に陥りかけた眼鏡の絶叫が降りかかる。男の手がマウスに伸びた。そして転送作業を中断させようとマウスを動かした瞬間――まさにその刹那、天より一条の烈光が教会めがけて疾り抜けた!
その稲妻は教会の屋根に取り付けられた金属製の十字架に吸い込まれるように落ち、建物全てをその衝撃波で振動させた。
ガラスが次々に弾け飛んでいく。
そして、十字架はグラリと揺れて地面に真っ逆さまに突き刺さった。加えて、稲妻の凄まじい電気エネルギーが教会の電気コードに流れ込み、それを燃え上がらせながら教会中を一瞬にして駆けめぐった。
火の手が、教会のあちこちから上がり始める。
「わあっ!?」
地下手術室にあるコンピュータが一斉に火を噴き、照明も弾けて消えた。コンピュータのすぐ側にいた男が、まともにモニターの破片と火の舌を顔面に受けて床に倒れた。
床でのたうちまわる男を二名の医師に外へ運び出させ、眼鏡のを男は残りの医師たちに消火作業に移らせた。とはいえ、非常灯の薄暗い光の下である。作業がはかどる筈がない、しかも、他の医師たちもパニックに陥りつつあった。
そして、二つの恐慌の波はやがて激しくぶつかり合い、より大きなものへと拡大していく。
「おしまいだ!」
そんな叫びが、渦を巻く人の波の中から聞こえてくる。
「――警備隊! 何をしている、早く混乱を静めろ! 場合によっては傷つけても構わん!」
司祭が叫んだ。
人々が、石の扉を開けようと群がっている。が、ビクともしない。閉鎖されたのだ。そう悟った人々は、今来た方向に踵を返し、司祭に向かって殺到した。
死にたくない! 司祭を殺してでも扉を開けさせてやる!
その波動が凄まじい濁流と化して地下大広間に渦巻いた。しかし、人々の耳にある耳障りな音が届いたとき、彼等はピタリと足を止めた。
しん、と静まる。
炎が妖しく揺れる祭壇の脇に口を開けた、さらに地下へ続く階段から、がしゃがしゃと嫌な音を響かせて、その黒い影が現れた。
悪鬼の如き顔を持った青銅色の鎧武者である。身の丈は四メートル近くあった。
魔装鎧
それが四体、階段からのっそりと現れて司祭を守るように立ちはだかったのである。
腰には各々、巨大な剣を
「静まれい! 死にたくなければ――」
武者の口から、怒号が上がる。
そのとき、司祭の背後で爆発が起こった。
「何ぃ!?」
愕然と振り向く司祭の正面で、分厚い耐圧ガラスが粉々に弾け飛んだ。そして、彼の顔に向けて、真っ赤に燃える炎の舌が伸びたのである。
だが、炎が司祭の顔を焼くことはなかった。『巨人』が見かけによらぬ素速さで動き、司祭の周囲に壁を造ったのである。
「な、何があった…」
司祭が茫然と呟く。
「手術室の中に、何かいます」
『巨人』の一人が司祭に告げる。
司祭が「何!?」と巨人たちの造る壁の隙間から顔を覗かせて炎を見たとき、確かにその中にひとつの影を見出した。
何者だ? 何が起こっているんだ?
「――出てきます。司祭様はお部屋にお戻り下さい。ここは我々が収拾します。――大竹、護衛につけ」
「は」
『巨人』のうちの一体が、司祭の脇に立ち、残りの三体は腰の剣の柄に手をかけた。
「わ、わかった」
今や手術室は炎の渦中にあった。あらゆるものが焼けこげ、形を失っていく。その中にあって、その影だけは違っていた。そいつは、激しい炎に包まれながらも平然と立ち、そして今、ゆっくりと炎の中から力強い一歩を踏み出したのである。
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