免許合宿紀行 13日目 「ちはやふる」
1時限目(8時20分~9時10分)
【13時限目】
技能教習第2段階項目12 自主経路設定
免許合宿の山場は越えた。
だからと言って技能教習前の緊張が、どうにかなるわけではない。
特に、この日の朝は、不安だった。
「自主経路設計」が、始まるからだ。
「自主経路設計」とは、その言葉が意味する通り、 運転者自身が自主的に経路、つまり、走る道を選びながら、運転することを趣旨とした教習である。
昨日までは、ただ教官が指示するままに、教習車を右折、左折、直進させていればよかったが、 今日からは、自身の判断で道を選び、指定された地点に辿りつかなければならない。
自主経路で走るコースは、事前に知らされていたので、 昨夜、"GoogleMap"のストリートビューと、教習手帳に載っている地図とを参照し、 右折左折する地点の風景を瞼の裏に焼き付けはしたが、それでも、不安は拭えない。
ストリートビューの画像が古かったらどうしよう?
目印を見逃してしまったらどうしよう?
選んだ道が進入禁止だったらどうしよう?
めくるめく不安を抑えるために、野菜ジュースを飲み、スマートフォンの小さなディスプレイに映し出される熱い戦闘映像を凝視した。
そして、教習は始まった。
憶えのある眼鏡の教官で、少しほっとする。
運転は上手くなかったが、経路設計は上手くいった。
一度も、道を違えることなく、チェックポイントを回り、指定された地点に辿りつき、そして、自動車学校へと戻ることができた。
いざ走ってみると、それなりに道には憶えがあり、自身のことながら驚かされた。
繰り返し走っていれば、自然と刷り込まれているものらしい。
ただ、意識が観ること、探すことに、持って行かれたためか、運転は安定していなかった。
ブレーキペダル、クラッチペダル、シフトレバー、それらの操作に柔らかさがなく、ぎこちなかったという自覚がある。
人間の能力には限界がある。
意識できることは限られている。
1つから2つ、2つから3つ、3つから4つ、意識すべきことが増えれば、増えるほど言葉通り散漫になる。
新しく何かが加わると、全体のバランスが崩れる。
何にでも言えることだが、運転もそうである。
いや、その最たる例なのかもしれない。
自身で経路を選ぶことを運転の日常にする。
それがこの教習の最終的な目標なのだろう。
2時限目(9時20分~10時10分)
【14時限目】【複数人】
技能教習第2段階項目12 自主経路設定
昨日の「危険を予測した運転」では、安定した運転をすることができなかった。
その反省を踏まえ、複数人教習だからという気持ちを捨てて、教習に望んだ。
例によって、最初に運転することとなった。
「自主経路設計」では、最初に運転することが、さらに有利になる。
自動車学校から幹線道路へと抜ける道など、否が応にも、憶えのある道を走ることになるからだ。
その上、この教習でも、走る機会が多かった南に向かうように指示されたため、迷うことも、違えることもなく、 指定された地点へと辿り着くことができた。
憶えのある道を走ったからか、自身で道を選んで走るということを頭が覚えたからか、 冷静に運転をすることができた。
ほっと一息ついて、運転席から、後部座席へと移動する。
昨日、同乗したカップルは、此処にはいない。
だが、この運転ならどうだという気持ちで、密かに掌を握り込んだ。
3時限目(10時20分~11時10分)
【13時限目】南
学科教習第2段階2 応急救護処置I
4時限目(11時20分~12時10分)
【13時限目】南
学科教習第2段階3 応急救護処置II
5時限目(12時20分~13時10分)
【13時限目】南
学科教習第2段階4 応急救護処置III
「応急救護処置」では、AEDの使い方、人工呼吸、心臓マッサージ、事故時の応急救護処置についての教習が行われた。
学科教習ではあるが、座学的ではなく、主に行われたのは、専用のマネキンを使った実技教習であった。
教習は、保育園、或いは、体操教室を彷彿とさせる、マットが敷かれた部屋で、3時限連続で行われた。
3人1組で班がつくられ、1班に1人マネキンが与えられた。
同じ班となった2人は、共に気の良い人物で、終始楽しく教習ができた。
振り返ってみれば、「応急救護処置」は、他の教習生と仲良くなる切欠を与えてくれた唯一と言ってもいいイベントであった。
「応急救護処置」が、第2段階に入ってから、早くにあるか、遅くにあるか、誰と同じ班になるかで、 合宿免許が大きく変わった人も少なくないのかもしれない。
とはいえ、誰かと仲良くなるには、頑張らなければならない。
ただ同じ班になっただけでは、どうにもなりはしない。
教習が終わった後、自ら声をかけ、相手に興味があると示さなければ、その先はない。
解っていた。
だが、それでも、私は、頑張ることはしなかった。
言い訳がましくはあるが、既に観光のために時間を費やすと、心を決めていたからだ。
そういう意味では、同じ班になった2人には、少し申し訳ないことをしたなという気持ちもある。
「早く行きたいなら、一人で行きなさい。遠くへ行きたいなら、みんなで行きなさい」
以前、とある講演で聞いた言葉を思い出し、自身のあり方を省みる。
だが、それでも、現在は、決めたことをやり抜く道を選んだ。
背を向けた。
時間がない。
そう、自身に言い聞かせ、自動車学校を出た。
ロードバイクに跨り、ペダルを軽やかに踏み込む。
青空の下を気ままに流していく。
目的地までは、片道7km。
昨夜、"GoogleMap"の地形機能で確認したとおり、高低差は小さく、気持ちよく走ることができた。
小さな丘を越えると、視界が一気に開けた。
一面に広がる緑、遠く連なる山々、快い風が頬を撫ぜる。
やたらと大きな案内看板に従って、小路へと入り、少し行くと広い駐車場が見えた。
自転車を停め、背を伸ばすようにして、その丘を仰いだ。
視線の先には、「吉田くんと巡る怪談の地ラリー」チェックポイントの1つである"八雲立つ風土記の丘"があった。
丘と言っても、丘しかないわけではない。
丘の上には、"風土記の丘展示学習館"という名称の歴史資料館あり、
その周りには、古墳時代中期の竪穴式住居跡など復元された史跡が佇んでいる。
奇妙な形の建物。
それが展示学習館を前にして抱いた印象であった。
前方後方墳をモチーフにしているかは解らないが、そのような形状をしていた。
展示学習館の中に入り、"吉田くん"と、そこに飾られていた巨大な絵画を撮影した。
絵画は、"国引き神話"を題材にしたもので、古代の神々が、遠方の島に綱をかけ土地を引き合わせようとしている様子が描かれていた。
入館料を払い展示室へと入る。
まずは、松江歴史館の企画展「小泉八雲"KWAIDAN"の世界」と連携し、催されていた企画展「あの世をのぞく」を覗いた。
展示学習館では、6世紀から7世紀、奈良時代古代出雲の歴史資料を中心とした常設展示が行われており、 企画展示である「あの世をのぞく」もまた、その時代を扱ったものであった。
古代出雲の死生観を主題として、墓跡、骨、仏具、埋葬の風習についての資料などが展示されていた。
石棺の中で蹲る古代人の遺体を前に、何を考えて、どのように、生きていたのだろうかなどと、思いを馳せた。
少なくとも、千年後、歴史資料館に自身の亡骸が展示されていようなどとは、想像だにしていなかったことは確かだろう。
企画展示を覗いた後は、順路に沿って、展示室中央へと向かった。
展示室中央には、"八雲立つ風土記の丘"一帯の古代出雲を復元した立体模型地図が展示されており、 手元にあったボタンを押すと、立体模型の正面にあったディスプレイに灯が入り、映像展示がはじまった。
映像展示は、"八雲立つ風土記の丘"一帯に散財する史跡を立体模型と連動して紹介しつつ、 古代出雲について解説していくといったものだった。
既に、映像展示を観ることが、観光施設を巡る上で、一つの楽しみとなっていたが、 "風土記の丘展示学習館"の映像展示もまた、他の施設の映像展示と同様に、魅力あるものだった。
映像展示が終わると、どこからともなく現れた、老年の女性に声をかけられた。
やや心拍が上がったが、表には出さない。
老年の女性は、"風土記の丘展示学習館"に務める研究者のようで、 映像展示で紹介された、史跡や資料について、より詳細な説明をしてくれた。
人の話を聞くというのは大切なことだ。
例によって、時間に余裕があって仕方がないというわけではなかったが、ありがたく拝聴させてもらった。
まず、眼の前にある立体模型が現存する風土記の中で、最も完本に近い"出雲国風土記"に基いて、 精巧につくられたものであるという話から始まり、 風土記の丘周辺に散在する史跡、古代出雲の物語、出雲大社と熊野大社、 現代にも続く、島根県内に点在する神社同士の繋がりについてと、話は広がっていった。
全てを理解する事はできなかったが、中々に興味深い話を聞くことができた。
特に、話の中に"神魂神社"の名が出てきた時には、はっとした。
"黄泉平坂"で出会った特徴的な眼鏡の老人が話していた神社である。
老年の研究者とどうやら縁があるらしい。
最後に、一つの示唆を与えられ、展示学習館を出た。
迷い込んだ探偵小説の中で、核心へと近づいているような錯覚に、わくわくした。
風土記の丘を背に走り出し、"出雲国庁跡"へと向かう。
予定にはなかったが、近くにあるという話だったので、立ち寄ってみることにした。
だが、辿りついたものの、立ち尽くすしかなかった。
出雲国庁跡は、その名の通り、出雲国の国庁の跡であった。
何もないわけではないが、何もない。
跡があった。
腰かけるのにちょうどいいくらいの高さに切断された杭が無数に突き立てられていた。
無数の杭が国庁の何なのか、何故、そうなっているかさっぱり解らなかったが、 とにかく、ここに国庁があったんだと得心し、背を向けた。
田の方に視線をやると、緑の海の中で、白い何かが動いていた。
国庁で白鳥と言いたいところだが、足が長かったので鶴であろう。
稀な鳥の姿を観ることができたことで、晴れやかな気持ちになった。
それから、国庁跡に隣接する"六所神社"へと足を運んだ。
神社というのは、往々にして齢を重ねた高い木々に囲まれている。
つまり、影がある。
日中であっても薄く暗い、静謐な領域。
そんな神社という世界を私は好ましく想っていた。
特に、夏の陽射しが強い日は、陰陽のコントラストが強く現れ、空気がより透明に感じられる気がする。
そして、今日は、正に、そんな神社日和とも言うべき日であった。
鳥居をくぐり、日向から、日陰へと入る。
誰もいない境内で、息を深く吸って、深く吐き、そして、背を伸ばす。
清涼な空気が全身に透っていくようで、最高に気持ちが良い。
神社を参拝した時には、必ず、境内を見回し、樹々を探す。
そして、大樹があれば、歩み寄り、そっと触れ、仰ぎみていく。
何故か問われても、うまく答えられない。
そうしたいからそうする。
これが樹を信仰しているということであるのならば、そうなのだろう。
"六所神社"を参拝し、そして、"神魂神社"へと向かった。
神魂神社は、空気を感じられる神社であった。
霊感だとか、そういうことではない。
そんなものは私にはない。
ただ、付近へと近づいたただけで、ここが神社なのだという、らしさを感じられた。
境内へと続いていく石畳、石段。
石の道を覆う緑に繁る木々。
日中であっても暗い、静謐な領域。
木と石と空気のコントラスト。
その理想を体現するような在り様は、ただ美しく、魅せられる。
鳥居の正面へと回る。
色のない鳥居の傍には、神魂神社と刻まれた巨大な石碑が鎮座していた。
長い石段を登ると、視界が開け、拝殿が姿を現す。
拝殿と本殿、社殿の全景が視界に入る場所まで歩き、そして、 出雲大社の原型ともなった日本最古の大社造りをゆっくりと仰いだ。
黄泉比良坂で出会った老年の男性。
八雲立つ風土記の丘で出会った老年の女性。
奇縁に導かれて、訪れた場所であったが、特に何が起こるわけでもなかった。
依頼を受けていなければ、事件も起きていない。
そもそも、私は探偵ではないので、何もないのが自然ではあるのだが、それでも、少しだけ、がっかりした。
小説のようなことは起きないものである。
だが、出会い、言葉を交わさなければ、此処に来ることはできなかった。
だから、ただ感謝した。
「神魂神社を出た後は、今日、最後の目的地である"八重垣神社"へと向かうつもりであった。
八重垣神社までは、少し距離があったので、ゆっくりしていては、日が暮れてしまう。
だが、耳の中に残っていた老年の女性の言葉が、ペダルを踏む足に絡んだ。
迷った。
時間がない。
暗くなってしまう。
予定が狂う。
入っていいのか。
否決するための材料が頭の中に列挙されていく。
だが、誰かさんから聞いた言葉がそれらを蹴散らした。
「迷っているということは、やりたいということ」
ため息をつき、そして、そこに行くことに決めた。
走りはじめて数分で敷地の前へと辿りついた。
そこへと至る看板を前にして、やや躊躇うが、視なかったことにした。
怒られたら時のことは、怒られた時に考える。
通報されたら、諦めよう。
そんなふうに考えながら、門を抜け、坂を登った。
坂は、学校の敷地というより、完全に山道であった。
そう、抜けた門とは、学校の門であり、そこは学校の敷地の中にある。
看板は暗くてよく視えなかったので知らない。
坂が終わり、学校の校舎が視えてしまった。
こうなると話は変わってくる。
学校の奥深くまで入り込んでしまえば、うっかり、迷い込んでしまったなどとは、言えなくなってしまう。
そこの場所を詳細に聞いておくべきだったと、反省する。
同時に、この学校で間違いないのだろうかという、不安が鎌首をもたげた。
もしそうであれば、悲惨である。
声をかけられた時、どうしようもない。
人の気配はない。
考えてみれば、夏休みである。
もうどうにでもなれと、校舎の横を抜けていくと、ふと、鳥居が視えた。
ほっとした。
自転車を停めて、鳥居を仰いだ。
鳥居には"出雲大神"と刻まれていた。
神魂神社には、少ないながら、それでも人がいたが、この社には、人の姿は全くなかった。
知っている人は少なく、知っていても、学校の中に入り込んでまで、参拝しようという人も少ないのだろう。
境内は大きくはない。
だが、小さくもなかった。
確かな存在として、神域があった。
岩石信仰の神社と老年の女性が話していたとおり、石段を登った先には、社などがあるわけではなく、 ただ垣があり、その中に、苔むした岩が幾つも鎮座していた。
この場所こそ、"日本書紀"に登場する古代の力士"野見宿禰(ノミノスクネ)"が修行をしていた場所であり、 鎮座している岩は、修行ために持ち上げていたとされる"宿祢岩"と言われるものだそうだ。
縮小岩は、大小幾つもあったが、人間には絶対に持ち上げられないと解るような巨大なものはなく、 それが言い伝えは事実であるかもしれないと、にわかに信じさせてくれた。
参拝を終え、学校の門を抜けて一息。
八重垣神社へと向かった。
人人人。
暮れ始める時間であったが、八重垣神社は、参拝客でいっぱいだった。
縁結びの神社として、有名であるからか、女性の姿が目立っていた。
静かな神社もいいが、賑やかな神社も嫌いではない。
この二面性もまた、神社の魅力である。
まずは"吉田くん"を撮影し、それから境内を回った。
八重垣神社が、縁結びの神社として伝えられるのは、 "八岐大蛇(ヤマタノオロチ)"を退治した"素盞嗚尊(スサノオノミコト)"が"稲田姫命(イナタヒメノミコト)"と暮らすための宮をこの地に構えたことに由来するそうだ。
また八重垣神社の名は、素盞嗚尊が八岐大蛇を倒した後に詠った、 日本最古の和歌とされる「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」から、取られているとのことである。
宝物殿には、素盞嗚尊と稲田姫命の姿を描いた、これもまた日本最古のもとされる神社の壁画が安置されている。
参拝した時間が遅かったため、宝物殿に入ることは叶わなかったが、飾られていた絵馬に描かれる壁画の肖像から、それがどのようなものか窺うことができた。
頬を染める稲田姫命の肖像は、中々に艶があった。
台地から伸びた2本の幹が地上で1本に交わっていることから愛の象徴とされる"夫婦椿"を仰ぎ視た後、本殿の裏手、境内の奥にある森へと向かった。
八岐の大蛇を退治した時、素盞嗚尊が稲田姫命を隠すために八重の結界を敷いたとされる森である。
明るく賑やかで開放感のあった境内を抜け、薄く暗い森へと足を踏み入れると、静かで厳かなものへと空気が入れ換わったように感じられた。
森の中には"鏡の池"と呼ばれる池があり、その奥には稲田姫命が祀られた"天鏡神社"が社を構えている。
鏡の池の前では、参拝客がしゃがみ込み、水面を熱心に覗いていた。
どうやら縁占いをしているようだ。
占い用紙を浮かべ、その上に硬化を載せて、沈むまで待つ。
占い用紙が沈むまでの時間で、良縁までの時間を、 占い用紙が沈んだ場所で、良人との距離を占える。
そのようなことが、鏡の池の前に立てられた看板に書かれていた。
やりたいと考えたが、私の手には占い用紙がない。
鏡の池の周りを探すがない。
どうやら、社務所で買ってくるものらしい。
というわけで、社務所と鏡の池を小走りで往復した。
それなりに距離があって手間ではあったが、やりたいと考えたことは、やはり、やっておくべきである。
息を整えて、鏡の池が空くのを待った。
そして、いよいよである。
鏡の池にそっと手を伸ばし、水面に10円玉と占い用紙を載せる。
柵や掴まるものがないため、少し怖い。
水面は透んでおり、目を凝らすと、池の底に沈んだ占い用紙が海月のように漂っているのが視えた。
占い用紙は、程なく、池の手前に沈んでいった。
何とも、手応えがない。
良縁が早くにあるのか、遅くにあるのかは、なんとも言えないところだが、良人は近くにいるらしい。
参考に致しますと、この地に眠る稲田姫命の御霊に祈りつつ、鏡の池に背を向けた。
自転車に跨り、暮れ始めた道へと踏み出す。
一人の旅が、一人の旅でなくなる予感はなかった。
だが、寂しくはない。
まだ、寂しくなるほど、虚しくなるほど、世界を知ってはいない。
足掻いてもいない。
だから、ただ、前へと向かって、走った。
■本日の支出
野菜ジュース
120円
八雲立つ風土記の丘展示学習館
ミニ企画展「あの世をのぞく」入館料
200円
八重垣神社
鏡の池 占い用紙
100円
合計
300円
■本日のチェックポイント
⑮八雲立つ風土記の丘
出雲国庁跡
六所神社
神魂神社
名のないお社
⑭八重垣神社
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