免許合宿紀行 9日目 「雨あがる」
2時限目(9時20分~10時10分)
3時限目(10時20分~11時10分)
修了検定
朝食を食べた。
野菜ジュースを飲んだ。
右左折の合図を出す位置、車線変更をはじめる位置は頭に入っている。
できることはやった。
だが、だからどうしたと、心はあざ笑い、不安を煽る。
ため息が出るくらいに、緊張していた。
試験を順に受けにいく時、最初に受けたい、最後に受けたいというのは、人それぞれだが、私は最初に受けたい人だ。
待たされても、集中できない。
手に付かない。
往々にして、無為な時間を過ごすことになる。
良いにしろ、悪いにしろ、早く終わらせて気持ちを切り換えたいというのが私だ。
修了検定は、教官1人に対して、教習生2人、或いは、3人が一組となり、それぞれの組毎に実施された。
私が入ったのは教習生が3人の組で、 教官が助手席、検定を受ける教習生が運転席、そして、次に検定を受ける教習生が監査役として後部座席に、それぞれ座った。
教習車に乗るのは3人で、最後の一人には、席がない。
そのため、待合室で待つことを強いられる。
その、最後の一人となったのが私である。
教習手帳に描かれたモノクロの教習コースと窓の外に構築された立体的な教習コースを眺め比べながら、その時を待った。
長かった。
名を呼ばれ、満を持して教習車に乗り込む、とはいえ、運転席にではなく、後部座席にである。
試験の公正さを保つという使命を課せられ乗車しているわけだが、言うまでもなく、そのようなことは知ったことではない。
運転する時のために、修了検定のコースを確かなものにし、運転の感覚を最適化することが全てだ。
が、その目論見は、敢えなく潰えた。
走り出して、間もなく、S字に挑んだ教習車は、壁として設定されている鉄パイプに接触した。
接触、脱輪、信号無視、その他、言葉通り致命的なミスをした瞬間に、検定は中止される。
小さなミスであるなら、ともかく、これは教官もとぼけることはできない。
発着点に帰るようにと指示を出され、彼女の修了検定は終わった。
そのつもりは全くなかったが、結果的に、証人としての機能を全うしてしまった。
この期に及んで、心の準備ができていないなどとは言えない。
深呼吸して、気持ちを切り換える。
教習車の前後に何もないか確かめる。
後方を確認しながら、運転席のドアを少しだけ開く。
ドアを適度に開き、身体を運転席へとすべり込ませる。
挟まるものがないか確かめてから、ドアをしっかり閉める。
鍵をかける。
シートベルトを締めて、捻じれていないか確かめる。
運転姿勢をつくり、クラッチペダル、ブレーキペダルの踏み応えを確かめながら、シート、ハンドルを調整する。
エンジンキーをアクセサリーに入れ、ドアミラー、ルームミラーの調整を行う。
サイドブレーキが引かれているか、ギアがニュートラルに入っているか確かめ、クラッチペダル、ブレーキペダルを踏み込む。
エンジンキーをスタートに入れ、エンジンを始動させる。
繰り返し、やってきたことを、また繰り返す。
発車の指示を待ち、指示が出たら、まず、周囲を確かめる。
バックミラー、左サイドミラー、右サイドミラー、振り向いて左後方目視、右後方目視、必ず5回確かめる。
発進の合図を出す。
ブレーキペダルを踏んだまま、クラッチペダルを踏み込み、ギアをローに入れる。
サイドブレーキを下ろし、ブレーキランプが点灯していないか確かめる。
目視で右、右後方を確かめる。
アクセルを踏み、ゆっくりクラッチを繋ぐ。
繰り返し、やってきたことを、また繰り返す。
ゆっくりと教習車が走りだし、教習コースへと入る。
クラッチペダルを踏み込み、ギアをセカンドに入れ、そこで、頭を切り換える。
ひとまず、考えることをやめ、視えるもの、感じるものに集中する。
手順の正しさを問われる、発車、停車、坂道発進、踏切の通行。
技量それ自体を問われる、S字、クランク、その他。
それぞれで、頭を切り換えていく。
それが、導き出した運転方法だった。
坂道発進、踏切の通行では、それを行う前に教習車が必ず停車する。
そこで慌てずに頭を切り換え、繰り返し、やって来たことを、また繰り返す。
S字、クランクは、半クラッチをものにし、ゆっくりと走ることができるならば、問題はない。
右折合図、左折合図、車線変更、位置は憶えている。
考える必要はない。
発着点へと戻り、教習車を寄せる。
頑張る必要はない。
それなりに寄せればいい。
停車したら、まず、サイドブレーキを引き、それから、ギアをニュートラルに入れ、エンジンを切る。
発着点は、後ろに下っているので、ギアをローギアに入れる。
クラッチペダル、ブレーキペダルから、足を離し、シートベルトを外す。
後方を確認し、降車する。
繰り返し、やってきたことを、また繰り返し、そして、教官に一礼した。
待合室へと戻り、ほっとため息をついた。
失敗と言える失敗はなかった。
持ち点は100点。
合格点は70点。
ところどころで、減点はあるかもしれないが、その合計が30点に至ることはない。
合格した。
そう踏んだ。
同日に入校した教習生たちに声をかける。
とえあえず、皆、首尾は上々のようだった。
それから、間もなく、結果が告げられた。
劇的な展開はない。
ただ合格していた。
とりあえず、ほっとため息をついた。
合格発表のあと、教官からは、まだ運転に慣れていない人の運転であると指摘された。
反論はない。
一字一句その通りである。
とはいえ、特にできることもない。
意識して、どうにかなるものでもない。
慣れていないのなら、慣れていくしかない。
それには運転を続けるしかない。
とりあえず、自身の運転がまだまだであると、自覚していることを、あらためて、自覚しておくことにした。
4時限目(11時20分~12時10分)
仮運転免許学科試験
修了検定が終わり、続いては、学科試験の時間である。
緊張と弛緩の連続で、伸び切った輪ゴムのようにへろんへろんであったが、これで落第したら好い面の皮である。
模擬試験の欠席を許してくれた教官にも申し訳が立たない。
ため息をつき、気持ちを切り換え、背筋を伸ばした。
教習生が集められた教室に、校長先生といった印象の如何にも貫禄のある教官が現れ、学科試験の説明を行った。
とは言え、特別なことはない。
結局のところ、殺ることは○と☓をつけるだけで、模擬試験と変わることはない。
だが、試験が始まり、まず怯んだ。
小テスト、問題集、模擬試験、何れにおいても、現れなかった傾向の問題がそこにあったからだ。
だが、終わってみれば、どうということはなかった。
傾向は違っても、知っていれば解ける問題には変わりがなかったからだ。
試験が終わると、一時自由な時間を与えられた。
合否が出るまでは少し時間が掛かるとのことだ。
食堂が開いていたので、昼食を食べることにした。
選んだのは、うどんであり、出てきたのは、何の変哲もないうどんであった。
うどんを選んだ時の心境は憶えていないが、胃に優しいものを選んだ結果だったような気がする。
ぱぱっと、すすり、学科試験を受けた教室に戻る。
暫く待っていると、事務員の女性が仮免許学科試験の合否を伝えに来た。
教室にいる全員が合格。
その言葉に教室はにわかに色めいた。
S字で教習車を接触させてしまった女性の姿は教室にはなかった。
劇的な展開はなく、予定は狂わない。
ほっとため息をつく。
勿体ない事をしたかもしれない。
合格を喜びながらも、しれっとそんなことを考えた。
点数を教えてくれるとのことだったので、問いたところ48点であった。
どの問題を間違えたか気になったが、確かめる術はないので、忘れることにした。
何点であろうと、合格は合格である。
今はそれだけで良かった。
とにかく、これで前半戦は終了となった。
仮運転免許の取得に伴い、教習は第1段階から、第2段階へと移行する。
学科教習15時限、技能教習19時限が新たに課され、また教習に追われる日々が始まる。
わけだが、それは既に始まっていたりする。
修了検定、仮免許学科試験、合格おめでとうございます。
明日からの教習に備えて、ホテルに帰ってゆっくりお休み下さい。
とは、例によって、行かないのである。
試験に合格し取得が認められたからといって、手元に仮運転免許証がなければ、第2段階の教習を受講することはできない。
仮であろうが、運転免許不携帯が許されるわけではない。
だが、そんな心配は不要である。
合否判定が出てから3時間後、15時には自動車学校に仮運転免許証が届けられるとのことである。
どういう手続きになっているかは知らないが、恐るべき速度である。
15時に仮運転免許が受け渡され、15時20分からは第2段階の教習が始まる。
ため息が出るほど、完璧な予定である。
予約スケジュール表を破り捨ててやろうという気にならなかったのは、ひとえに合格の高揚からだろう。
何れにせよ、自動車学校を卒業するまで、合宿生に真の安らぎは訪れないということだ。
仮運転免許学科試験の合格の報せを受けた後、まず行ったことは、本免学科模擬試験であった。
普通自動車運転免許の取得には、実技試験と学科試験を合格しなければならない。
実技試験は、指定自動車教習所を卒業すれば実技試験は免除されるが、学科試験に免除はない。
これらは、先に述べたとおりである。
では、その免除のない学科試験をどこで受検するかだが、 これは指定自動車教習所を卒業した後、住民票の住所地を管轄とする"運転免許試験場"で受験することになる。
指定自動車教習所で、学科試験を受験することはできない。
つまるところ、合宿中に受検する公が定める筆記試験は、仮免許学科試験が最初で最後であるということだ。
だが、運転免許試験場で受検する学科試験の勉強は、自動車学校を卒業した後で、じっくりやればいい。
ということにはならない。
第2段階にも効果測定があるからである。
第2段階の効果測定とは、つまり、本免許学科模擬試験である。
第1段階の効果測定であった仮免許学科模擬試験と同様に、これに合格していなければ、第2段階のみきわめを受けることができない。
本免学科試験は100点満点、90点合格。
本免学科模擬試験は、ほぼ同様の形式で、95点満点、90点合格。
本免学科試験、本免学科模擬試験、共に、仮免許学科試験、仮免許学科模擬試験の倍近い問題数となっている。
問題数が倍なだけではない。
第2段階の効果測定を合格したと認められるには、本免学科模擬試験を2回合格しなければならない。
問題数、合格回数、共に倍である。
仮運転免許を取得して、ほっと一息どころか、はあとため息が出る。
自動車学校卒業後、すぐに本免学科試験を受験し、合格できるようにと計らってくれているのかもしれないが、 それだけではなく、本免学科試験に合格できるくらいに交通法規を理解していなければ、 卒業させることはできないというのが本意であろう。
まだ第2段階の学科教習を1時限も受講していない。
合格できる自信などあるはずもなかったが、それでも模擬試験を受けようと考えたのは、 挑んでみなければ、始まらないと考えたからだ。
現時点で何点取れるか、知っておくことが必要だった。
どれくらいの勉強が必要かさえも解らない。
そんなわけで、合格の喜びも、そこそこに、コンピュータルームへと向かった。
本免学科模擬試験は、仮免許学科模擬試験のように、試験時刻に、 教室に集まり、教官の監視のもとで受検するといった硬いものではなく、 自動車学校のコンピュータルームで、好きな時間に、好きなだけ受験ができるという、 そこそこ緩いものであった。
コンピュータルームと言うと、モニターとスリムケースが整然と並べられた普通の学校にある普通のコンピュータルームを想像するかもしれないがそうではない。
コンピュータルームは、正方形の各辺にOAデスクとパソコンを並べた、やや広めの納戸といった印象空間だった。
パソコンの台数は、両手の指で数えられるほどで、やがて混雑するであろうことが予想された。
できることなら、今日明日にでも、合格しておきたいと考えながら、手前にある椅子を引いた。
本免学科模擬試験は、ウェブブラウザ上で動作するウェブアプリケーションで受検する。
アプリケーションの名称は"満点様"。
中々に縁起の良い名前である。
とにかく、ログインして、試験を受けてみた。
既視感のある問題がかなり出題された。
初めて相対する問題も、常識で答えられるものがそれなりにあり、全く解らないという問題は少なかった。
結果は、84点。
もしかして、という気持ちがあっただけに、ため息が漏れた。
解ったことは、意外にも手応えがあるということ、そして、疲れるということだ。
正誤問題とはいえ、100問近い問題を解くには、それなりに時間が掛かり、どうしようもなく、集中が切れてくる。
それと、パソコンで試験をするというのは、なんとも言葉では言い表しがたい、煩わしさがある。
アプリケーションの完成度は高いのだが、そういう問題ではない。
電子書籍より、紙に印刷された本の方が読みやすいというのと同じことかもしれない。
とにかく、泣き言を言っていても始まらないので、間違えた問題を確かめ、それから、もう一度、試験に挑んだ。
82点。
下がった。
下がったが、仕方がない。
問題がかなり悪かった。
気持ちを切り換え、画面を切り換え、解説を読み解き、頭に叩きこんでいく。
答え合わせ、そして、解説を探す手間が省けるのは、紙にない利点であり、そこは素直に評価したい。
88点。
悶絶する。
毎回、うっかりミスをしていることに気づき、反省する。
とはいえ、問題が多すぎる。
うっかりもする。
うんざりしてきた。
心が折れそうだ。
だるい。
何故、延々と○と×をつけ続けているのだろうか?
これは罰ゲームなのか?
○×○×○×。
仮免許学科試験を合格したばかりなのにと、心の中で呪詛の如く唱え続けた。
朦朧とする意識の中で解き続け、そして、
92点。
ほっと息をつく。
ごり押し感は否めないが、合格は合格である。
ブラウザの印刷ボタンをクリックして、席を立った。
受付へと行き、印刷された合格画面を提出し、事務の方から合格印をもらった。
これで終わりではないが、とりあえず、一休みすることにした。
そもそも小手調べの予定だった。
合格印を一つ稼げただけでも大成果である。
背を伸ばし、新たにはじまる技能教習のために、頭を切り換えた。
8時限目(15時20分~16時10分)
技能教習第2段階【1時限目】 【教習所内】
項目1 路上教習に当たっての注意と路上運転前の準備
項目10 方向転換・縦列駐車
第2段階からは、主に路上教習が行われる。
路上教習とは、道路上で行われる教習である。
道路とは、公道のことであり、普通に自動車が走っている場所のことである。
教習生が資格を得たからといって、すぐに路上に出すほど、自動車学校も無責任ではない。
路上教習をはじめる前に、知っておかなければならないこと、 しておかなければならないことがあり、 それらを教え込んでくれたのが、この教習である。
まず、車を走らせる前に行うべき点検について、順を追って実践した。
運転が正しくとも、そもそも車が壊れていたらお話にならないということである。
仮免標識が装備されているかを確かめ、次に、ランプ、ライトが点灯するかを教官と協力して確かめた。
路上教習では、必ず、上記の点検をしてから、教習を始めるとのことである。
点検が終わると、その他、路上に出るにあたり、頭に入れておくべきことについて、ざっくりと聞かされ、 その話が終わると、教官が教習車を教習コースへと出した。
既に、教習コース内には、恐るべき何ものもない。
その筈だった。
だが、それはおごりでしかなかった。
始まったのは、"縦列駐車"についての教習であった。
縦列駐車と言えば、テレビの特番で、凄腕ドライバー達が、どれだけ狭い隙間に停車させることができるか競い合うあれである。
高等技術というイメージしかなかったので、まず自動車学校で教わることに驚いてしまった。
教習の内容くらい事前に把握しておくべきだというのは最もだが、今日に限っては、 修了検定と学科試験のことで頭がいっぱいで、はっきり言って、それどころではなかった。
縦列駐車は、坂道発進や踏切の通行と同じ類の手順を憶え再現する運転であった。
踏む手順は多いが、憶えてさえしまえば、失敗はない。
そういう印象を受けた。
駐車位置の前後の間隔が狭い場合は、その限りではないが、教習コースの駐車位置は前後にそこそこの間隔があった。
憶えればできるということであれば、恐るるに足りない。
ほっと息をつきたいところだったが、そうはいかなかった。
縦列駐車が終わると、続いて"方向転換"の教習が始まった。
方向転換とは、つまり、切り返しのことである。
方向転換は、縦列駐車と共通するところもあったが、全体の印象は大きく違っていた。
縦列駐車は、機械的に手順を踏めば、どうにかなってくれるのだが、方向転換は、感覚が重要になってくる。
縦列駐車のように、厳格な標がない。
適当でも、それなりにどうにかなるということなのかもしれないが、個人的には、それがやりづらい。
また、解らない。
掴めない。
路上に出るよりも前に、新たな敵が現れてしまった。
9時限目(16時20分~17時10分)
学科教習第2段階9【1時限目】
項目8 悪条件下での運転など
久しぶりの学科教習であった。
それ以外の感想は特にはない。
第1段階では、交通法規をはじめとする基礎的な知識についての教習が行われ、 第2段階では、運転に必要とされる実践的な知識についての教習が行われる。
どちらかが重要ではなく、どちらも重要である。
なので、することは変わらない。
教本を読み、ラインを引き、チェックを入れ、憶える。
それだけだ。
「悪条件下での運転など」では、夜間、雨天、霧、悪路などでの運転、自動車が故障した時などの措置、運転中に大地震が発生した時の措置についての教習が行われた。
この教習で得た知識を使わなければならない状況をできるだけ少なくしたい。
そう考えた。
気になったのは、運転中に大地震が発生した時の措置である。
車で避難しない。
道路上に車を置いて、避難する時は、キーを抜かず、ドアロックをかけない。
といったことが書かれていた。
何故、そうしなければならないかは解る。
だが、現実に、人々がそうするか疑問であったし、自分がそうできるか自信がなかった。
学科教習が終わると、すぐにコンピュータルームへと向かった。
一回合格したこと、そして、技能教習で早速躓いてしまったことから、 さっさと終わらせてしまいという衝動が抑えきれないくらいに膨らんでいた。
満点様と数回死闘を繰り広げた後、撃破に成功する。
受付に行くと、驚き、呆れ、疑い、あれこれ微妙な表情を向けられたが、何かを言われることもなく、合格印を貰えた。
卒業するその日まで教習生に、真の安らぎが訪れることはない。
だが、真に安らげなくても、自由に使える時間はある。
その束の間の自由をより有意義なものとするためには、課せられたあれやこれやを早々に終わらせておくに限る。
11時限目(18時20分~19時10分)
技能教習第2段階【2時限目】 【教習所内】
項目10 方向転換・縦列駐車
項目11 急ブレーキ
急ブレーキの教習が行われた。
はっきり言ってしまえば、加速してブレーキを踏むだけであり、教わるようなことでもない。
だが、必要がないとは、言えない。
この教習の意義は体験をしておくことにこそある。
一度体験しただけでも、身体は憶えている。
いざという時にしなければならないことを体験する。
それは必要なことだ。
急ブレーキを体験するには、まず加速しなければならない。
それが怖い。
一方で、急ブレーキ自体は、あまり怖くなかった。
ブレーキを踏んでから、車が停車するまでは一瞬で、怖がる暇もない。
高速道路で事故に遭った時のことを、ふと想い起こした。
考えられなかった、動けなかった。
ただ天井のインナーハンドルを強く握り、恐ろしい速度で迫り流れていく光景を凝視していた。
急ブレーキで停車した直後、恩恵に預かった"アンチロック・ブレーキ・システム"について、説明が行われた。
次に、回避しながら急ブレーキをかける練習をし、最後に、方向転換と縦列駐車の復習へと入った。
言うまでもなく、ぎこちない。
憶え、忘れ、思い返す。
或いは、実践を繰り返すことで、記憶はつくられる。
私は常人でしかない
なので、できなかったことが、すぐにできるようにはならない。
習ったことが、すぐにできたという経験が、全くないわけではないが、それは、そもそもできなかったことではなく、 できることを知らなかっただけのことだ。
数時間前にできなかったことが、できるようになっていない。
それで、機嫌を損ねられても困る。
まだできないことは、まだできないのである。
できない人が、できないことで、自身を責めることは尊い。
一方で、それを視ているだけの人が、できないことに憤り、できない人を責めるというのは醜い。
私は、臆病であり、そして、優しくない。
だから、醜い人に、醜いことを、教えてあげたりはしない。
12時限目(19時20分~20時10分)
技能教習第2段階【3時限目】
項目2 交通の流れに会わせた走行
項目3 適切な走行位置
夏とはいえ、19時を過ぎれば、陽も沈む。
既に、とっぷりと暮れ、辺りは薄闇に包まれていた。
初めての路上教習は、夜間教習となった。
ちなみに、悪条件下での教習が義務づけられているということはない。
人によっては、夜間、雨天、そういった状況での教習を一度も受けることなく、自動車学校を卒業する人もいる。
ただ、運が悪いとは考えなかった。
夜間の運転は、運転免許を取得すれば、早晩強いられるであろうことだ。
であれば、経験しておくに越したことはない。
助手席に教官がいれば、警戒する瞳は4つとなり、ブレーキを踏む足は2本になる。
一人で乗るよりも安全であることは間違いない。
ランプ、ライトの点検を行い、それから、繰り返してきたことを繰り返し、最後に、ライトを点灯させた。
発進手順までは変わらない。
変わるのはここから、前方の教習車に続いて、教習コースを外れ、出口へと向かう。
出口とは、教習所の敷地からの出口である。
左右をこれでもかというくらいに確かめ、半クラッチを駆使して、ゆっくりと教習車を出す。
やがて、教習車は、道路へと入った。
感慨はない。
集中しながら、教習車を走らせていく。
教習所の出入口に隣接する道路は、中央線も、歩道もない狭い道路だった。
なのに、車はそれなりに走っており、歩行者の姿も少なくないという、中々どうして、やりづらい道路であった。
おまけに、この時間帯は、帰宅の途にある車が、抜け道として利用するために混雑するしく、 この日もまた、道の出口にある信号まで、赤い尾灯が連なっていた。
教習車が行き来する教習所の前の道を、わざわざ、通る心境は、全く理解できないが、 理解できなくても、この道を選ぶ人間が少なからずいるとうのが現実である。
どうしようもない。
路上教習では、教わったことを実践し、技術として身体に憶えさせることを意義としている。
なので、やることは基本的に走ることだけである。
とにかく、事故を起こさず、自動車学校に戻ってくる。
それだけが全てであり、他のことは、走らせた時間の長さだけ、後からついてくる。
事故を起こさない。
それを念頭に置き、尺取り虫の如く、信号へと近づいていく。
車間は詰めない。
前方にいるのは教習車であり、運転しているのは教習生である。
つまり、エンストもさせるし、急ブレーキも踏むし、予期せぬ後退もさせる。
もう一人の私が前を走っていると考えれば、車間を詰められるわけがない。
渋滞にいらいらすることはなかった。
行く先もないし、急いでもいない。
いらいらするための理由がない。
寧ろ、渋滞は歓迎すべきことであった。
発進と停車を繰り返すことで、半クラッチを練習することができた。
クラッチを繋ぐことを繰り返すことで、車の感覚もつかめてくる。
教習車は、全て同じ車種であるが、全て同じ車ではない。
クラッチの繋がり安さ、シフトレバーの入りやすさ、エンジンの回転、車によってそれが違ったりする。
癖を把握し、感覚を補正しておけば、いざという時に慌てることがない。
信号へと辿りつき、そして、一台、二台、前方の教習車に続いて、右折し、道幅のある道路へと入る。
進むべきか、止まるべきか、微妙な状況だったが、正しく判断できた。
渋滞が時間を稼いでくれている間に、緊張は解れていた。
硬くもないし、緩くもない。
冷静だった。
幾度か、右折と左折をして、幹線道路に入った後は、ひたすら、道なりに走り続けた。
右折も左折もない。
だが、道路というものは真っ直ぐではなく、車もまた完全に真っ直ぐは走らない。
ハンドルを微妙に操作しながら、アクセルを制御する。
標識で制限速度を確かめつつ、速度を維持する。
車の制御と並行して、周囲を警戒し、想定外の事態へと備える。
街灯が特に少ないというわけではないが、それでも、夜間の見通しの悪さを、あらためて、実感する。
車はライトのおかけで、日中よりも存在を認めやすいことが解った。
問題は、やはり、歩行者と自転車である。
幹線道路は、道幅が広く、見通しも効いたので、ひやりとする状況はなかったが、 そうでない道路では、歩行者、自転車の存在は、それ自体が恐怖であることが予想された。
何処を走っているか、正確には解らないが、街灯が減ってきていることから、 市街地から離れていっていることは、想像できた。
地元では、あまりみられない、黄色の点滅信号を幾度となく、やり過ごした。
怯むことはない。
ブレーキに足をかけ、警戒しながら、流していく。
郊外に入って、少し走った後、左折を2回し、市街地へと折り返した。
そのまま、何事もなく、自動車学校へと生還した。
ほっと息をつきたかったが、そうはいかなかった。
向かったのは、発着点ではなかった。
教習コースに入り、4番から、8番へ曲がるように指示され、そこで方向転換の教習が始まった。
まだできないことは解っていたが、やらなければできないままであることも解っている。
経験値稼ぎと考え、最後の力を振り絞った。
そして、教習は終わった。
教官に一礼し、教習車を降りて、ため息をついた。
安堵からか、疲労からかは、それが何処からこぼれたものかは解らなかった。
夜空を仰ぐが星は観えない。
遠い地の夜空は、幼い頃から観てきた夜空と何も変わらなかった。
だが、運転しながら望んだ夜の道路は違っていた。
何故だろうか、それは全く異なる世界であるかのように、美しく輝いて視えた。
■本日の支出
野菜ジュース
120円
合計
120円
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