【4】

 ……ひび割れた壁から朝の陽ざしが差し込んでくる。カリマは目をこすりながら体を起こした。昨日の疲れや不快感はすっかりとれていた。リゼはまだ起きていないようだ。

そういえば昨日の夜は飯を食べていなかったことに気付く。今日はリゼを連れて一日中スラムを回るつもりだ。飯を食べ、体力をつけなければならない。カリマはリゼが起きてくる前に朝飯を買いに出ることにした。

 玄関の崩れ落ちそうな扉を開く。朝日がまぶしく照りつけていた。いつだってこの光は慣れない。仕方ない。誰だってこんな仕事をしていると、まともに日が照っているうちは外を歩いてはいけないような気がしてしまうものだ。

 そのまま広場まで歩く。夜の雑踏とはうって変わってスラムは閑散としていた。これがこのスラムの日常的な風景だ。スカージギルドの面々に限らず、スラムの人々は夜の仕事を生業(なりわい)としている場合が多い。平民層のような「朝起きて、夜に寝る」といった生活を送る人買いは、スラムではむしろ特異な存在だ。

 市場につくとほとんどの店は扉をしめ切っていた。当然だ。人がいないのに店を開けていても仕方ない。代わりに目に入るのは昨日酔いつぶれたであろう酔っ払いが三人、乱闘にでも負けた後なのか顔中を腫らしてあおむけに倒れた男が一人。

 それらを一瞥しながら、広場手前の角を左に曲がる。しばらく行くとこの時間には珍しい看板を掲げたままの店が見えてきた。


《酔い醒まし、メジロ》


 店に入ると既に数人の男衆が店内で机に突っ伏していた。みな別々のテーブルに座り、粛々と汁物を飲んでいる。そんな光景をカリマが寝ぼけ眼をこすりながら見ていると、奥から割烹着姿の女性が姿を現した。

「おはようございます。メジロさん」

「おやおや、カリマじゃないか。もう帰ってたのかい」

「ええまぁ。収穫は少なかったですがね」

「そりゃあんた、あれだけ遅くいけばそんなもんさ! むしろあれだけ遅く行っても収穫が得られたことに感謝しなくちゃね」

 ガハハハハ、と割烹着姿の女性は豪快に笑った。相変わらず女っ気のない人だ。もっとも、そんな人だからこそこんなところで商売ができるというものなのだが。

「んでなにかい? あんたもそこらの酔っ払いども同じで酔い醒ましに来たのかい?」

「いや、そうじゃなくて朝食をですね……」

「分かってる分かってる、大体あんたが酔ってればすぐに分かるさ! なにせ少し飲んだだけで翌日の昼まで顔が真っ赤だもの」

「ハハ……、本当にメジロさんにはかないません」

 そのやり取りだけで、カリマが何度この店の世話になったのか分かろうというものだった。ここは《酔い醒まし、メジロ》。酒飲みが倒れるまで酔った朝に世話になる店で、この界隈では珍しく夜に開かず朝に開いている店でもある。

「いやだね、褒めたって何も出ないよ。私にできるのは酒のつまみにならない料理を作ることだけさ。酔い醒ましじゃないんなら多少はサービスしとくよ。何にする?」

「ありあわせで大丈夫でッス。……二人前、持ち帰りでおねがいできますか?」

「はいはい、持ち帰れるものねー。その辺の椅子に座って待ってな。ちょちょっと作っちまうから」

 そう言われカリマは近場の椅子に腰を下ろした。周りの酔っぱらい共はまだ夢から覚めていないようで、うつろな目をしながら虚空を見つめていた。

ここはスラムでも数少ない「酒を出さない店」でもある。夜は開けない方針のおかげか、店内には修繕の跡のようなものは見られない。店主のメジロはカリマが幼いころからこの店を営んでおり、カリマ自身もこの店を何度も訪れている。もっとも、幼い時は自分の酔い醒ましというよりウジカイの迎えに来ることが多かったか。

 あまり時間も経たないうちに奥からメジロが、湯気の立った包みを持って帰ってきた。

「へいお待ち。冷めても大丈夫だけど温かい方がおいしいからね、さっさと帰るんだよ」

「ありがとうございます。お代は……」

「いいのいいの、昨日のうちにウジカイから事情は聞いてるよ。安っぽいけど餞別だと思って受け取っときな」

「いや、そういうわけには……」

「商売じゃギリギリまで突っ張るくせにこういうとこで変に謙虚なのは困ったもんだねぇ。そうさね、ならしっかり育てて一人前の仕事ができるようになったら返してもらおうじゃないか。一人立ちした以上後進を育てるのも立派な仕事だよ、頑張りな」

「……すんません。恩に着ます」

 カリマは申し訳なさげに頭を下げ、店を後にした。本当にメジロには敵わない。



 せっかくのメジロからの朝飯が冷めてはいけないと、カリマは早足で自宅へと帰ってきた。右手は包みで塞がっているため左手で扉を引き、家に入る。リゼは出て来た時と変わらず死んだように眠っていた。

 とりあえず包みを煤けた机の上に置きながら、リゼを足で小突いて起こす。

「おら、朝だぞ。起きやがれ」

 反応は鈍かったがリゼは体を一度ビクリとふるわせた後、のっそりと体を起こした。

「…………………ん」

「よう、おはよう。昨日はしっかり眠れたか?」

「おは……よう……、大丈夫、眠れた」

「ならいい、とりあえず飯にすっぞ。よく考えたらお前も俺も、昨日からまともな飯を食べてねぇからな」

 リゼにそう話しながら、昨日部屋の端に放り投げた荷物を漁る。端の方がカビてきている真っ黒なパンが三つほど出て来たので、カビの部分をちぎって適当に床に放り投げ残りは手の中に収めた。

「皿は……あー、出てくる前に割っちまったんだっけ。まぁいいいや、そのままでも食えんだろ」

 パンを包みの隣に置き、胡坐(あぐら)をかいて机に向かう。リゼにもこっちに来るように指示し、対面し座らせる。手を合わせしばし黙祷。リゼはやっていなかったが、そういう習慣のない地域の出なのだと納得した。さすがに飯の喰い方にまで口を出すつもりはない。

「……よし、いただきます」

「いただきます……」

 カリマが包みを開けると魚と香草のいい香りが広がってきた。丸まま一匹入ったその魚は、綺麗に色が付くまでしっかりと煮詰められており空腹の腹にじかに響いてきた。

「これ前の日から準備しないと作れないよなぁ……。メジロさんにまた後でしっかりお礼言って来なきゃな。…………ん?どうしたリゼ、食っていいんだぞ?」

「…………? …………?」

 ここにきて、カリマは初めてリゼが困惑しているところを見た。魚が食えないのかとも思ったが、恐る恐る指を伸ばしているあたりそうでもないらしい。

「どうした?」

「……これ、どうする?」

「いやどうするって食うんだよ。まさか食うのが分からないとか言わないよな?」

「どうやって?」

「……どうやって? まさか食い方が分からないとかか……?」

「ん、それ」

 どうやら本当に食べ方が分からず動揺していたようだった。そういえばカリマもすっかり忘れていたが、リゼは記憶を失っているのだった。

 それなら仕方ない、と、とりあえずカリマは自分で食べることでリゼにも食べ方を教えることにした。包みの横に置いておいた硬いパンをちぎり、椀のような形に整える。それを使って魚の身をすくっていく。パンが硬すぎるのか魚が柔らかいのか、パンは簡単に魚の身をほぐしていった。そしてパンですくった身を椀代わりのパンと一緒に口に運ぶ。ふむ、やはり旨い。

 カリマが食べたのを確認すると、リゼも恐る恐るパンを手に取り同じように食べ始めた。どうやら口にあったようで、気付いた時には飲み込んだ端からガツガツと食べるようになっていた。いつもこんな豪華な食事ができるわけではないが、昨日は気を失って倒れていたのだ、このくらいの贅沢をさせてもバチは当たらないだろう。

リゼも何も言わなかっただけで、実は相当空腹だったらしい。結局パンを最後まで使って、包みの汁一滴に至るまでしっかり食べつくしてしまった。

 


 食事の片づけが終わると、カリマはとりあえず自身の古着から衣服を見繕い、リゼに着せた。今までは商品に着せる一枚布をかぶせただけだったが、今日は街の中を歩き回るため、そのような服装では問題があると判断したためだ。布一枚でスラムを歩いていればいつ誘拐されても文句はいえない。

 とはいえ子供に合わせた服など今更カリマが持っているわけもなく、結果として丈の長い服の端を折り、なんとか着せている状態だった。傍から見ればまるで肉襦袢をまとっているようだった。

「こりゃ服の確保も必須だな……。後で適当に見繕ってもらうか」

 今後の予定を大まかに決めつつ、とりあえずリゼの腕を引き家を出る。日はいつの間にかすっかり上がっており、スラムの人々も少しずつ通りに出てきていた。

 さて、まずは何処に行こうか。ウジカイのところはまだ寝ているだろうから後回し。奴隷市場は説明なしに行くには辛い。システマギルドは出来れば行きたくない。と、なれば必然的に最初に行く場所は決まっていた。

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