【2】


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 ……真っ暗だった。何もなかった。感じることは何もなく、何も知らなかった。

 

 ……誰かが語りかけてくる。

 「お前は誰だ」と。

 だがその問いに自分は答えられない。

 何故なら自分は何も知らないから。

 自分の名を。自分の声を。自分の姿を。

「ならば私は何だ」と。その誰かはまた問うてくる。

 だがその問いも自分には答えられない。

 何故なら自分は何も感じられてはいないから。

 相手の姿を。相手の声を。相手の息遣いを。

 「……よかろう、ならば。」と誰かはなおも語りかける。

「ならば今から、見つけてくるがよい。己自身を。私自身を」

 そして世界は黒から白へと反転した。

 それが、最初に感じた『世界』だった。



 …………

 はじめに聞こえたのは、誰かの叫び声だった。

「…………ぁあ⁉ふざけてんじゃねぇよ! こちとら遠路はるばる仕入れに行ってすっかり大損こいちまってる! しかも最近じゃほとんど入らねぇガキだ、もう少し高くしてくれたっていいだろ⁉」

「あのなぁカリマ、お前だって分かってるだろ? 竜鱗病の患者は貴族層や平民層にゃウケが悪いんだよ。テメェが損したのは大層辛かろうよ、だがそいつはごうつくばったテメェ自身の責任だ。人に補填を頼むもんじゃねぇよなァ」

 言葉の意味がすべて分かるわけではなかったが、それでもほとんど言葉の意味は不思議と理解できた。どうやら二人の人間が言い争っている様だった。

「それならシステマギルドに売りゃあいいだけの話だろ! あそこなら検体を山ほど欲しがってるはずだ!」

「そりゃそうだがな、あそこは検体の健康状態なんてさほど気にしねぇんだよ。だから安い商品しか買い上げねぇ。加えて竜鱗病の患者なら、下からじゃなくとも上から山ほど降ってくるんだとよ。システマギルドに売ることを考えて、それでやっとさっきの値段だ。諦めろよ」

「……くぅぅ。な、ならこんな話はどうだ、こいつの背中には竜が潜んでるんだ。間違いねぇ、俺がこの目で見たんだからよ、こいつと完全にくっついてやがった、目を離したすきに消えちまったが、ありゃ見事な空竜だった。これならシステマギルドも目の色変えて欲しがるはずだろ?」

「その与太話はさっきキジナのとこでもしたろ? 自分で『ありゃ完全に幻覚だ。俺も随分とヤられちまってたみたいだな』って自分でそう語ってたそうじゃねぇか」

「あんの糞爺、いらねぇこと吹聴しやがって!」

 ……徐々に目が開いてきたので、まずは自分自身が何者であるかを確認した。体には申し訳程度布が被せられていた。布から出た四肢はまだ育ちきっていない未熟なもの。自分自身が人間の子供なのであると、このとき少年はようやく理解した。

 そして話を聞いていると、どうやら『こいつ』とは自分のことらしい、と少年は気付いた。話している二人は自分の背中側にいるようで、姿は見えなかった。

 体は、まだ動かなせないようだった。

「いいからこの値段で渡せよ、メンドくせぇ。どうせ普通だったら金にすらなんねぇんだ。今は少しでも今回の補填に回したいんだろ、これでも少しは色付けてやってんだぜ?」

「面倒くせぇ寄り道までして、たったこれっぽっちじゃ割に合うわけねぇだろ! ああぁもうやめだやめ! どうせ一人立ちしたばかりで人手が欲しかったとこだ! こいつは俺のとこで使わせてもらう! この取引はナシだ!」

「人なんか育てられる器じゃねぇくせによく言うよ……。分かった分かった、もういいよそれで。あのなぁカリマ、俺んとこ離れたお前に言うのもあれだが一つ忠告しとくぞ」

「なんだよウジカイ」

「お前もう少し謙虚に商売しろ。確かにこのスカージギルドから平民層に上がりたい気持ちは分かる。だが身の程をわきまえねぇとそのうち商売する相手かテメェの金か、どっちかがなくなっちまって首が回らなくなるぞ」

「……わぁってるよ。肝に命じとく」

「……その言葉、信じてるからな。仮にも俺の息子なんだ。ふがいない死に方をしてもらっちゃ、俺の沽券(こけん)にかかわるってもんだ」

「……っは、結局テメェのためかよ。ここらしい考え方だ」

「ちげぇねぇ」

 ……二人の会話を聞いてるうちに、徐々に体が動くようになってきていた。手の感覚を確かめながら、少年はゆっくりと床から上半身を起こしていった。周りを見渡せば周囲を壁に囲まれている。どうやらここは家の中らしい。

「お、当の本人のお目覚めかい。随分と起きねぇからこのまま死ぬのかと思ったな」

「水まで与えてんだ、死なれちゃ困る。おい坊主、見えてっか、聞こえてっか、ついでに生きてっか?」

 そんな言葉とともに、少年の視界に無精ひげを生やした男たちの顔が入ってきた。どうやらさっきから話している二人らしい。歳は痩せぎすのほうが二十半ば、丸々と肥えたほうが五十近くといったところか。

 少年はゆっくりと言葉を発しようとした。

 あなたは誰か、と。暗闇で語りかけてきたのはあなたか、と。

 だが動きたての体でまともに声を発せるはずもなく、結果として少年は、途切れ途切れの声しか発せなかった。


「……だれ……あなた……?」


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

「……だれ……あなた……?」

 そう発した少年に、カリマはウジカイと顔を見合わせて驚いていた。

「ほう、こりゃまるっきりの土民ってわけでもなさそうだ。主国語が話せるってことは、少なくともこっちの出だな」

「そりゃいい、教育も少しは楽になりそうだ」

「違いない、カリマ達の時は言葉から教えなきゃならんかったからな」

「主国語なんて地方や貧民層じゃ知らねー奴の方が多いんだよ、仕方ねーだろ。おい坊主、俺はカリマってんだ。お前の名前は?」

「……なまえ? だれ……?」

 少年は軽く首をかしげながらそう答えた。どうも話が噛み合ってない。

「いや誰ってそりゃお前だよ、お前の名前。今聞いたろ、さっさと答えろ」

「…………ない、名前……」

「ないだぁ?」

 今度はカリマが首をかしげる番だった。そんな馬鹿な。

 名前のない子供が珍しいわけではない。そんなもの貧民層のスラムにでも行けば腐るほどいるだろう。姥(うば)捨て山ならぬ子捨て山にスラムがなっているのは周知の事実だ。

 だが主国語を話せるとなれば話は別だ。少なくとも誰かから教えられ、学んでいるはずなのである。そしてその過程で、仮名であれなんであれ、名前を授けられるのがこの国の、主国語を教える際の習わしだ。

 そしてそれはスラムやどんな遠方の村だろうと同じなはずだ。主国語を教えられていないならばともかく、主国語を知るにもかかわらず名前を持たない。それはこの国ではありえないことだった。

 ウジカイが口を挟む。

「んなわけあるか、どうせ思い出せないとかそんなんだろ。捨てられた奴ならよくある話だ。珍しくもねぇ」

「おいおい、それこそそんな話聞いたことねーぞ。ここで会ったやつには皆名前があったぜ?」

「そりゃお前がガキだったから知らなかっただけだよ。スラムじゃ識別の為に、元の名前があろうとなかろうと仮名がつけられる。お前の『カリマ』だって俺の『ウジカイ』だってそうだろ?」

「あー、なるほど。いつも仮名でしか呼び合わねぇから、てっきりそれが名だと思ってたのか。んで、ならこいつも記憶喪失ってわけか」

「そうと決まったわけじゃねぇがな、その可能性が高いってだけの話だ。ま、どうせ名なんてここじゃ役にたたねーよ」

「それもそうか。おい坊主、お前の名前はもういい。とりあえず覚えてること分かることだけ全部話せ」

 そういってカリマが少年に向き直ると、少年は不思議そうな顔をしてこう言った。

「……何も……分かる……ない……。知らない……」

「あーそうかそうか。分かった分かった。……どうせスカージギルドで生きてくんなら、くだらねぇ過去も背負わないほうがましか」

 カリマは自分自身に言い聞かせるように少年に語っていた。自分自身の過去の夢。それはもはや幻だ。そんなものにすがりついていては、ここスカージギルドではまともな精神を保っていられないのだから。

 少年はそんなこと知ってか知らずか、カリマの顔をぼうっと見上げていた。

 ふと思いついたように、ウジカイが提案した。

「とりあえずカリマ、名前ぐらいはお前がここで決めちまえよ。あって不便するもんじゃねぇし、何よりここで決めちまえば、明日の夜には俺がギルドの連中に周知出来る」

 もっともな案だった。人を飼うのであればその持ち主がしもべの仮名をつけるのが通例だ。これからカリマの元で過ごしていくのであれば、ギルドの連中とも懇意にせざるを得ないだろうし、ウジカイなら悪いようには広めないだろう。

「そうさな……、なら『鱗の背』で『リゼ』だ。特徴が伝わったほうが分かりやすい」

「別に何でもいいさ。どうせ意味なんて誰も気にしねぇよ。おい少年、今からお前の飼い主はこのオッサンだ。こいつに従って生きるんだ、いいな、分かるか?」

「……僕、『リゼ』、カリマ、リゼの、飼い主……」

「ん。まぁ大体は通じたみてぇだな。主国語が分かってると伝わりやすくていいねぇ」

「いちいちこっちにフってくんなよ、面倒臭い。大体オッサンはてめぇのほうだろ、俺はまだそこまで老けちゃいねぇよ」

 カリマはそこで言葉を切り、リゼの近くにしゃがみ込み肩に手をかけた。

「よしリゼ、とりあえず俺の家まで行くぞ。とりあえずおとなしくしてれば最低限の生活は保障してやるよ。ただ駄々をこねるようなら、元の荒野のど真ん中にたたき出すから覚悟しとけ」

「そんな一気にまくしたてたら分かるもんも分からんだろ」

「いーや、そんなこともないらしい。ほら見てみろよ」

 リゼはぎこちなく頷き、よろよろと立ちあがった。一連の行動を見るに、どうやら話自体は理解しているらしい。本当に、何も覚えていない。ただそれだけだった。

 カリマはウジカイに向き直った。長いやり取りだったがとりあえず必要な要件は終わった。商品の扱いは後はウジカイに任せておけばいいし、不良在庫も多少は手を焼かずに育てられそうだった。

「んじゃ帰るわ。今回の仕入れは長旅だったし、いいかげん疲れちまったよ。とりあえず自分の寝床に戻って寝てえな……」

「そりゃその通りさ、なんせ尾区(ビク)まで行ってきたんだろ。疲れもたまって当然だ。少年……いや、リゼも休ませてやったほうがいい。目を覚ましたといったって、少し前には気を失ってたんだ。しっかり管理しなきゃ、ヤクヤと同じになっちまうぞ」

「肝に命じとくよ。じゃあな」

 そう言うとカリマは自分よりずっと低い位置にあるリゼの手を取り、足早に外へと歩き出した。

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