ヨイトマケの唄

 2トントラックの車内には、桑田佳祐の歌声が響いていた。田舎道の夜は暗い。都会育ちの悠太は内心その闇に怯えていたが、ハンドルを握る先輩、中里は慣れた風にアクセルを踏み込む。きついカーブを曲がるたび、荷台がゴトゴトと音を立て、座席のスプリングがキイキイ軋む。


「いまも聞こえる、ヨイトマケの唄――」


 不意に中里が口ずさんだ。旧式の車載プレーヤーにCDを突っ込んだのは中里だ。当然、知っているのだろうが、悠太は初めて聞く曲だった。


「ヨイトマケの唄だよ。知らねえ?」


 戸惑いを察知したのか、中里が鼻から息を抜くように笑った。「俺、好きなんだよ、これ」


「そうなんすか……で、ヨイトマケって何すか?」

「お前、そういうこと聞く?」


 中里は再び笑った。悠太をバカにしているわけではない。笑うのは彼の癖なのだ。こうやって笑ってると親父に殴られる時間が少なくて済んだからさ――中里はやはり笑いながら、悠太にそう説明した。だから、お前も殴られたらとりあえず笑っとけ、最小限の被害で済むから、と。


 それを聞いた悠太は、そんなことよりも最初から殴られないようにすればいいじゃないかと思ったが、先輩の言うことなので黙って頷いた。それに、この世には理不尽なことも多い。それくらいは高校を中退した彼でも知っていることだった。


「ヨイトマケの意味なんてどうでもいいんだよ。この歌だよ、この歌。いい歌なんだって。昔の歌だけどさ。まず、貧乏な家のガキがさ、学校でいじめられるんだよ。で、ガキは慰めてもらおうと思って、母ちゃんの仕事場に行くんだよ。そしたらさ、そこで母ちゃんが超働いててさ――男に混じって土方やってんだよ」


 中里は、まるで自分がそのであるかのように熱のこもった口調で言った。先の見えないカーブにハンドルを切る。


「お前、わかる? そういうの? 俺、親父が土方やってたからさあ、よくわかんだよね。まあ、俺の場合は親父だけど、こいつの場合は母ちゃんなわけじゃん。母ちゃんが男に混じって、すっげえ働いてるんだぜ? 超カンドーだろ? で、このガキはそれ見てどうしたかって、泣くのやめて学校に戻るんだよ。母ちゃんを楽にさせてやるには、勉強しないとダメだって言ってさ。そんで、最後にはエンジニアになるんだよ。エンジニアになって、死んだ母ちゃん見てくれって、立派になった姿見てくれって言うんだよな。俺、そこでいつもカンドーしちゃってさ。俺、できなかったから、勉強なんてさ。バカだからさ。だから、何つーか、こう……」


 ずずっ、鼻を啜り、中里は口を閉じた。車内に桑田佳祐の歌声が戻った。母ちゃん見てくれ、この姿――そのフレーズが繰り返されると、中里はひときわ大きく鼻を啜った。悠太も歌詞の光景を想像するようにCDプレーヤーを見つめていたが、彼の脳裏に浮かんでいるのは別の光景だった。


 それは彼の父親のことだった。


 悠太の父はシステムエンジニアで、二年前、残業中に過労で倒れ、意識が戻らないまま搬送先の病院で死んだ。40歳だった。母は当然の権利として労災を求めたが、会社は様々な理由を探しだし、支払いを拒んだ。そうでなくとも、大黒柱を失った一家が転落するのはあっという間だった。


 兄弟の給食費の支払いすら滞る有様に、悠太は高校を辞め、働いた。しかし、雀の涙ほどの賃金に、彼が行き詰まりを実感するのには時間がかからなかった。バイト先で知り合った中里から、稼げる仕事を持ちかけられたのはそんなときだった。


「よし、着いたぞ」


 いつのまにか平静に戻った中里が、トラックを路傍に止めた。昼間のうちに下見しておいたそこには、真新しい農業ハウスの資材が無造作に置いてあるはずだった。


「手早くやるぞ」

「はい」


 悠太は中里と協力して、資材をすべてトラックに積み込んだ。今夜の収入は一人2万。は、ハウス資材から、一戸建ての建築資材、それから工事現場のコード類、珍しいところでは収穫期の果物などのときもある。事前に何を積むかは知らされない。中里を通してくる指示に、悠太は従うだけだ。


 と、資材をそっくり積み終えたときだった。空き地の向こうに電気がつき、「何をしてる!」大声と共に、懐中電灯の光がこちらに走ってきた。


「まずいっすよ」

「逃げるぞ!」


 中里が運転席に乗り込み、悠太も慌てて助手席に飛び込む。慌てているせいか、エンジンがなかなかかからない。懐中電灯がすぐそこまで近づき、息を切らせた男性の顔がはっきりと見えた瞬間、やっとトラックが発進する。


 みるみるうちに男性が遠ざかる。やったな、中里が笑いながらバシバシとハンドルを叩いている。桑田佳祐が歌い始める。悠太は目を閉じ、シートにもたれかかった。まぶたの裏に、必死の形相をした男性の顔が浮かぶ。と、それがなぜか死んだ父親の顔に重なり、悠太を見つめた。


 実は、彼が過労死する直前、悠太は父親に着替えを届けるため、会社を訪ねていた。


 案内されたのは冷房がよく効いた綺麗なオフィスで、そこで父親は画面をぼうっと見つめ、キーボードの上で指だけを動かしていた。父親の働く姿を見て、悠太は感動しなかった。ちゃんと勉強をすれば、こういうところで働けるのだなと、ぼんやりと思っただけだった。楽な仕事ができるのだと思っただけだった。


 けれど、父親は死んでしまった。何も残さず死んでしまった。


「いやあ、今回は危なかったな」


 興奮したように中里が言う。その顔は見なくとも、笑っていることがわかる。


「ヤバかったっすね」


 悠太もくちびるに笑いを浮かべた。闇に、ヨイトマケの唄が流れている。その歌を聞きながら、悠太は闇の向こうに目を凝らした。

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