夕焼け


 声をかけられ、僕は慌てて涙を拭いた。


 目の前では、大きな夕日が沈んでいくところだった。夏休み最後の夕焼け。空は燃えるような朱に染まっている。雲も、遠くを飛ぶ飛行機までもが真っ赤に見える。


 言われたとおり、それはいままで見た中で一番綺麗なんじゃないかと思うほどの夕焼けだった。そして、悲しい夕焼けだった。


 なぜ、夕焼けは悲しいのだろう――その答えを知りながら、僕はじっと空を見ていた。


 それはきっと、夕焼けがだからだった。空の端から漏れ出した夜の青。その暗い色が朱をじわりじわりと侵し、ついには闇一色に染めてしまう。


 僕の夏休みも同じだった。あいつらから逃れたのもつかの間、僕は再び同じ教室という檻に放り込まれる。そしてそこにもしかない。


 でも、そんなのはもうゴメンだった。


 だから、僕は自転車を漕ぎ、はるばるここまでやってきたのだ。小学校の遠足で来たことのある、町で一番高い場所――崖にそそり立つような展望台に。


「こんなに綺麗な夕焼けはね、明日はきっといいことがあるよっていう神様からのお知らせだよ」


 泣き顔を見られたくなくて、ちらりとだけ見たその人は、杖をついたおばあさんだった。その向こうに、お仲間らしいご老人たちも見える。世話係のような若い人もいるから、老人会の観光か、それとも老人ホームのサービスの一環か何かなのだろう。


「……いいことなんて、ないです」


 反発するように、思わず僕が言うと、


「あなたには未来がわかるの?」


 おばあさんは聞き返した。


 それが少しでもからかいを含んだ調子であったなら、僕は無視を決め込んだだろう。もしかしたら、今この瞬間にためらいをかなぐり捨て、崖下に飛び込んだかもしれない。そうする準備はとっくにできている。だから、いつとしても、構わない状態ではあったのだ。


「未来なんか、わからないけど……でも明日起きることくらいはわかります」


 僕は答えた。そして、自分の言葉にぞっとし、決意をより一層強くした。すると、おばあさんはぽつりとつぶやいた。


「いいえ、明日のことだって誰にもわからないわ。だって私、いまのいままで、もう夕焼けは見られないものだと思い込んでいたんだもの。……子供だったころ、綺麗だけど悲しいような気持ちで眺めていたあの夕焼けを」


 変なことを言う、僕は顔をしかめた。


 夏の間、夕焼けなんか見飽きるほど見ることができる。それを、死ぬまで見られないだなんて大げさもいいところだ。しかし、おばあさんは笑うように続けた。


「私の頭の中に残っているのは、夕焼けであって夕焼けではない光景なのよ。あれはもう、70年も前になるのねえ。焼夷弾が町を焼いて、空を赤く染めて。あの下で人が死んでいることを思わなければ、それは綺麗な光景だったわ。まるで、今日の夕焼けのように」


 瞬間、どこかで見た映像が、脳裏に蘇った。


 白黒の空を飛ぶアメリカの飛行機。画面のノイズのように落ちていく爆弾。あれは確か「しょういだん」という名前だったのを、耳が覚えている。


 テレビの情報だった戦争が、現実となって僕の前に形を成そうとする。白黒の映像が色に染まる。夕焼けのような戦争の風景。けれどそこに爆弾の弾ける音は聞こえず、僕が眺めているのは、やはり70年後の平和の風景なのだった。


「……戦争の話をされても」


 僕は怒ったようにつぶやいた。けれど、本当のところ、自分がどんな気持ちなのかはあやふやだった。


 いまは戦争時のように大変じゃないんだからと揶揄されているような気分にはなったが、おばあさんの口調はちっとも押しつけがましくなかったし、だからといって平和な自分の身を反省し、家に帰る気にもなれなかった。


 けれど、子供っぽい僕は、苛々の原因もわからずに続けた。


「それとも、戦争のトラウマで夕焼けが見られなくなったけど、今日見ることができた――だからそういうこともある、僕も頑張れってことですか? 明日は何かいいことがある? そんなの嘘です。絶対に――」


「そうじゃないのよ、気に障ったらごめんなさいね」


 すると、おばあさんはしおらしく言った。それから詫びるように背を向け、


「ただ……今日の夕焼けは、あなたが見せてくれたんだと、そう思ったものだから。……きっとあなたは似ていたのね。まだ何も知らないころ、夕焼けに悲しさを覚えていた昔の私に」


 ありがとう、そう言い残すと、杖を持ったおばあさんは去って行く。


 


 僕は意味がわからずに、その後ろ姿を見送った。そろそろ行きますよ、世話係が老人を集めている。と、おばあさんの杖を見て、僕はハッと息を呑んだ。


 その杖は、白杖だった。ありがとう、おばあさんの声が水底できらめくように小さく響いた。


 僕はゆるゆると夕焼けを振り返った。そして、紫に変わりゆく空に、僕には想像もつかない彼女の人生を思った。紫色は濃紺へ変わり、町にはぽつぽつと光が灯る。僕は光に背を向けると、展望台の階段を降りた。自転車に乗り、坂道を下る。車輪はどんどん加速して、まだ温い風が頬をすぎていく。


 僕は、明日起こることを知っている。


 あのおばあさんが七十年間、夕焼けであって夕焼けではない光景を見続けたように、僕に立ちはだかるものにも変化はないかもしれない。けれど、それはいつか本当の夕焼けに変わる。変わらないかもしれないけれど、変わることだってある。


 僕は自転車を走らせ続けた。闇に変わってしまった夕焼けは、しかし、僕の胸に焼きついていた。

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