おかあさん

 何もかもが便利な、都心のマンションに住む一家の話である。


 この家の夫は大企業に勤めるエリートで忙しい代わりに収入も多く、子どもたちも有名大付属の私立校に通っている。母親はパートをする必要もない優雅な専業主婦で、夫はその収入ゆえ、彼女に何もさせないことが自慢であった。夫は彼女が生活にやつれることなく、いつまでも綺麗でいることを望んだ。そして、彼女はその境遇を誰からも羨ましがられた。


 けれど、ある朝、ついに彼女は、自分だけの荷物をまとめ、この家から永遠に出て行こうとしていた。


 つややかなダイニングテーブルの上には記入済みの離婚届と、二人の子どもそれぞれへの手紙、それから細かく記入された家計簿が置かれ、帰ってきた家族が今まで通り生活できるように取り計らわれていた。


 例えば、家族のお気に入りの食べものが買える店のリスト。朝食のパンは毎朝近くのフロージュベーカリーでロイヤルブレッドを一斤、夕食の総菜は揚げものならばスーパーダイワ、サラダはフレッシュ三花館、安く済ませたければノハラ商店街で適当に。


 例えば、ティッシュやトイレットペーパーなどの日用品は、ネットの定期購入のため、奇数月の一日に届くこと。そのネットの支払いや、光熱水道費、学校の給食費、塾の授業料、電話回線費、NHK――その他の支払いはすべて、父親の給料が振り込まれる口座からの引き落としであるため、他の口座にお金を移動させる必要はないこと。


 洗濯物はマンション下のクリーニング屋に、下着は全自動洗濯乾燥機に放り込んでボタンを押すだけでいいこと。食器を使ったら、食器洗い機に入れればいいこと。掃除はルンバに任せればいいこと。お風呂も自動洗浄ボタンできれいになること。トイレは青い薬剤を月に一回換えればいいこと。朝は目覚まし時計をかければいいこと。それから父親宛には小さい文字で、性欲処理は風俗に任せればいいこと。


 最後に、犬のモモは彼女が連れていくということ。


 ドアを閉め、鍵をかけたとき、彼女の腕の中でモモがひとこと、キャンと鳴いた。抱きかかえた犬のほかには、彼女の荷物はボストンバッグ一つに収まるくらいのものだった。彼女は大きな黒目で自分を見つめる犬を撫でて微笑んだ。


 都会のマンションで暮らす家族の中で、この犬だけが自分を必要としてくれていたことを知っていたからである。

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