あの人
初めてあの人の存在に気づいたのは、浴室でした。
もう何日もシャワーの日が続いていて、ええ、私はお湯に浸からないと疲れが取れないほうなので、その日はゆっくりと湯船に浸かろうと……。
半身浴ってご存じですか?
心臓の下まで溜めたお湯に、ゆっくり浸かるんですの。ええ、もちろん肩や腕にもお湯をかけながら……そのときでした。私、気づいたんです。鎖骨のあたりに、赤い
あらどうしたのかしら、私はそう思い体を点検しました。すると、背中やおしり、乳房のあたりに、同じような痣があることに気づいたんです。
いいえ、蚊に刺されたにしてはかゆくないし、痛くもない。本当にどうしたのかしら、お風呂から上がって、私はもう一度、全身の映る鏡で自分の裸を見ました。
――キスマークみたい。
すると、そんな考えが浮かびました。どうしてでしょう、とにかくそう思ったんです。
でも、そんなはずはない――同時にそんな考えも浮かびました。だって、そのとき私には恋人がいませんでした。だから、キスマークが身体につくわけがないのです。
ですから、そのあとはすっかり忘れてしまいました。私も仕事で忙しかったのです。次に気づいたのは、やっぱり忙しさが一段落して、お風呂に入ったときでした。
今度は違う場所に、その赤い痣はありました。背中やおしり、乳房と、部位は同じでも、痣のある場所が違うんです。
もしかして、布団にダニでもいるのかしら。私は顔をしかめました。そのときでした。
シャララララ……澄んだ音を立て、浴室に吊していたウィンド・チャイムが揺れました。
ウィンド・チャイムってわかりますか? 長さの違う金属棒が何本も糸で下がっていて、風が吹くと音を立てるんです。ええ、木や貝殻でできたものもありますね。
あれを、私は浴室の窓辺に飾っていたんです。以前はドアにつけていたんですが、開け閉めのたびにうるさいので。そのウィンド・チャイムが音を立てたんです。風もないのに、触れてもいないのに。
――誰か、いる。
そう思ったのは不自然でしょうか? ええ、私はそう思ったんです。すると、私の思いに応えるように、もう一度ウィンド・チャイムが音を立てました。同時に、右の乳房が疼きました。
どきりとして見ると、そこには赤い痣ができていました。まるで、いま誰かがそこに口づけたように、赤くくっきりとしたキスマークが現れたんです。
私は思わず熱い吐息を吐きました。乳首が敏感に立ち、股の間からお湯ではないぬめりが溢れるのを感じました。それからのことは、とても私の口からは申せません。ええ、想像ならいくらでもして下さって結構ですけれど。
だから――そういうことなのです。
部屋に所狭しと吊したウィンド・チャイムは、あの人の気配を感じるため。――ええ、私は本気です。おかしくなってなんかないわ。本気でそう言ってるのよ。
もちろん、信じる信じないはあなたの勝手だと思います。けれど――そう、これはそういうこと。私が宿しているのは、あの人の種。あの人の赤ん坊。
そんなはずない? 何が産まれるかわからない? ですって? まあ、失礼な方ね。あの人と私の子供なのよ。私を好きだといって下さるなら、どうして信じて下さらないの?
あら。いま、聞こえました? ええ、ウィンド・チャイムが鳴りましたね。あの人です。困ったわ、私がつい言ってしまったから……あなたが私のことを好いて下さっていて、お腹の子供のことも心配して来て下さったってこと。
あ、また音が……。困ったわ。いいから、早くお帰りになって。ほら、ウィンド・チャイムが揺れてる。近づいてくるわ。いいえ、私は大丈夫。だから、お願いだから、何もいわずに逃げてちょうだい。
私、あなたに言い忘れていたのだけれど、あの人、とっても嫉妬深いの。ええ、だからいままでの人たちもそうよ。だから、あなたを
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