真夏の雪
麻衣は眠ってていいから――確かにそうは言われたけれど、だからといって運転してくれている航平をほったらかしにして、助手席でぐうぐう眠ってしまうなんて彼女失格だ。
けれど、言い訳させてもらえるなら、私は夏休みのこの旅程を空けるために、昨夜は眠らずに仕事を片付け、今日も一日フル稼働で働いていた。だから、待ち合わせの午後九時、航平の車に乗り込んだその瞬間から、眠気はMAXで、それなのにホテルに着くのは4時間後だと聞かされたときの絶望感といったら!
航平はそんな私の顔を見て、眠ってていいよと、そう言ったのだろう。彼は優しいのだ。けど、その優しさが彼自身に余裕があるときに限られるということを、付き合って三年、山も谷も乗り越えてきた私は知っている。
いまは大きく構えていても、何かアクシデントが起これば、お前は眠ってたからいいよな、なんて、愚痴られるのは目に見えている。しかも、行き先の長野は、二人にとっても初めての場所だ。これで道に迷ったりなんかしたら、旅行の間ずっと機嫌が悪いなんてことも……。
だから、私は、何を言われようが絶対に起きていよう、そう思ったのだ。けれど、睡魔はそれを許してはくれなかった。
おぼろげながら覚えていることといえば、道に迷ったらしい航平の怒ったような横顔。何度も鳴る舌打ち。苛立ちのこもったため息。私は必死に起きてナビを見ようとするのだが、頭はぐらぐら、まぶたは重く、目を開いていることさえ難しい。
しかも、どこに迷い込んだのか、その切れ切れの視界にも闇しか映らず、車のテールランプや街灯すら見えない。
ここはどこなんだろう、そう思った時だった。
ひらひらと、闇に雪が舞い始めた。ヘッドライトに映し出された雪片が、微かな音を立て、降り積もる。
嘘でしょ、私は半分眠りながらつぶやいた。季節は夏だ。黙っていても汗の滲む、真夏の夜だ。それとも、長野には、夏にも雪が降るのだろうか。
私は雪をぼうっと見つめた。それは、とても幻想的な光景だった。
そして、その光景は突然途切れた。私はいよいよ本格的に眠ってしまったのだ。
次に私が意識を取り戻したのは、何と翌日の朝だった。まぶしい朝日がカーテンの隙間から漏れ、見覚えのないホテルの一室を浮かび上がらせている。車から降りた記憶もないが、きっと寝ぼけたままベッドに潜り込んだに違いない。
やってしまった――ハッとして隣を見ると、航平がしかめっ面をして眠っている。と、気配を感じたのか、その目がぱっちりと開いた。怒っている目だ。
「あ、あの、眠っちゃってゴメンね……」
そう謝ると、「別に」との答え。やっぱり怒ってる――私は何とか機嫌を取ろうと、昨日見た、あの不思議な光景を口にした。
「それにしても、昨日のあれ、すごかったよね。長野では夏でも雪が降るなんて、全然知らなかったよ」
「は? 雪? お前何言ってんの?」
「え? 昨日の夜だよ? すごい暗い道に入ったとき、雪が降ってきたじゃん。ひらひらして、すごく綺麗で……」
懸命に説明する私を、航平はうさんくさそうな目で見ていたが、そのうち何か腑に落ちたようにうなずくと、「その雪なら、まだ車に積もってるから掃除しといて」、そう言うと、毛布を頭から被り直して背を向ける。
雪がまだ積もってる? 私はシャワーも浴びずに髪だけ整えると、そのままフロントに降りた。おはようございます、微笑むホテルマンの向こう側に広がる真夏の風景を見て、首をかしげる。
それでも、自動ドアを抜け、駐車場に出ると、蝉の鳴き声が大きくなった。東京ほどではないにしろ、暑い。紛うことなき夏だ。ホテルの名前が記されたバンにも、雪なんかひとかけらも積もってはいない。
私は不審に思いながらも、航平の車を探した。そう広くはない駐車場に、それはすぐに見つかった。そしてその車体を見た瞬間、私は思わず「うわあ」と声を上げた。
そこには確かに、私の見た「雪」が積もっていた。
しかし、それはあの冷たく溶ける雪ではなく、大小様々、色もとりどりの、無数の蛾だったのである。
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