紫蘇

(あ、紫蘇しそ……)


 その夏の香りとみずみずしい青に惹かれ、私はふと足を止めた。


 「お昼は簡単におそうめんにしようね」、夏休み中の娘とそう言い合い、やってきたスーパー。冷房の効いた店内に並んだそれは、思わず手を伸ばしてしまいそうなほど美しかった。きっと、そうめんの薬味にはぴったりだろう。


(でも……)


 そこで立ち止まってしまった私を避けるようにして、若い女性が手を伸ばす。すみません、私は小さく会釈をすると、その場を離れた。紫蘇の香りが遠ざかる。


「はい、ミョウガと生姜。あとネギね」


 どこかへ姿を消していた娘の佳葉かよが、カゴに選んだ薬味を入れた。


「これでいい?」


 うん――うなずきかけ、私の目は無意識に紫蘇を見る。すると、どうしたことか佳葉が笑った。


「お母さんって、絶対に青じそ買わないよね。いつも買いたそうにする割には」

「え、そう?」


 慌てて視線を元に戻す。


「そんなことないと思うけど……」

「ううん、そんなことあるって。買ってこようか?」

「いらない」


 案外強い声が出て、顔が赤くなった。


 佳葉が少し困ったような顔をしている。娘にこんな顔までさせて、私は一体何をムキになっているんだろう。


「……紫蘇ってね」


 そのあと、私たちは少し気まずい思いをしたまま、一通りの買い物をし――私がそう口を開いたのはレジを通ったあとだった。


「お母さんにとって、紫蘇ってスーパーで買うようなものじゃないの。そうじゃなくて、例えば家の裏庭なんかに生えていて、『紫蘇取ってきて』なんて言われて、取ってくるものだったの」



 遠い遠い、田舎の母がまだ生きていた、あの暑い夏の日。紫蘇を摘むのは子供の役目で、私はその役目が大好きだった。


 プチン、葉が音を立てるたびに、紫蘇の香りが立ち上り、そのいい匂いのする空気を私は思い切り吸い込んだ。


 窓の開いた台所からは料理をつくる母の気配がして、この紫蘇はどんなお料理になるんだろう――急にお腹が空いた私は、急いで紫蘇を母に届ける。


 あら、たくさん取ったわね、母は笑って、頭を撫でてくれる。そして、夕食にはその紫蘇を使った天ぷらや、肉巻き、冷や奴が並ぶのだ。



 私の話を聞いた娘は、へえ、とつぶやいた。それから、少しもじもじしたあと、


「私、やっぱり紫蘇買ってくる」


 それから続けて、


「その話聞いたら、お母さんの紫蘇料理が食べたくなっちゃった。でもうちには生えてないから、買わないとね」


 佳葉は踵を返すと、青果コーナーに駆けていく。


 ――お母さんの紫蘇料理が食べたい。


 その言葉に、私は愚かさを恥じた。私は母との思い出を大切にするあまり、娘のことを忘れていたのだ。



 しばらく後、レジを終えた佳葉が戻ってくる。その手には、あの紫蘇と、それから紫蘇の種袋があった。

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