裏山、○○落ちたってよ

七十

短編

       1



 地震でもこないかと思っていた。

 そんな折だった。

 授業にはもう飽きた。たとえば、今の授業は日本史Aであったりするのだけど、俺の場合はもう授業で教える日本史の範囲でわからない箇所なんて皆無だ。もしテストをやれば必ず満点をとるし、居眠りしているところを教師に指されたって黒板を見た瞬間に何をやっているのか理解して即答するだろう。何度も何度も同じような授業を聞いてきた。そして飽きた。

 だから地震でもこないかと、突っ伏したまま考えていた。

 あの世この世と馬車を駆っていたときだ。

 頭のなかの音なのか、それとも現実このクラスの全員の鼓膜を震わせたのか、判然としないまま俺は目覚めた。

 聞いたこともないような、腹が震える衝撃音。

 ズズズズという地響きとともに校舎までもが揺れる。

「きゃあ」

 女たちがステレオタイプな悲鳴を上げて緊迫感を出したりする。日本史の教師だって授業を止めて様子を探るそぶりを見せた。男たちのなかには「ミサイルだ」「不発弾だ」と声を上げる者もいたけど、たぶん強がりだ。

 なんかやばいことが起きたんじゃないか、っていう認識は共有していたはずで、電車内で剥き身の包丁をぶら下げた奴を隣の車両から見かけたときくらいの緊張感には支配されていた。

「おまえらちょっと待ってろー」

 このまま授業を進めるのもさすがに不自然だと思ったんだろう。教師はそそくさと教室を出て行った。生徒たちは「ちょっと待ってろ」に従うはずもなく、格好をつけたい奴から順に廊下に飛び出して窓にかぶりつく。音はちょうど教室右側方向から聞こえて、もし爆発が起きたのだとしたら四階の廊下からなら見えるかも知れないと思うのは自然なことだ。

 ジジ、と教室のスピーカにノイズが走ると教室に残った生徒たちが一斉に見つめる。数瞬の間を持たせて、視線の先から校長の声が響いた。教室を出るなとか先生の指示に従ってとかいうことをひとしきり言ったあとマイクはぶつりと切れる。

 斜に構えているつもりもないが、俺は廊下に出なかった。

 だから音だけで状況を判断するしかない。

「おい、あそこ、うっすら煙り上がってないか」

「ほんとだ」

「裏山だ」

「すぐそこじゃねえか」

 なるほど、と思う。

 そういうことなのだ。



 翌日からは学校中この話題でもちきりだった。

 裏山になにかが落っこちてきて、その正体はいまいち判然としない。隕石だという者もいれば、他国からのミサイル攻撃だという者もいるし、ただの雷だろうという者もいる。噂にはどんどん尾ひれが付いて、UFOだったとか、異星人だとか、伝説の聖剣が突き刺さったとか、情報がどんどん混濁する。

 当然こうなる。

「放課後見にいってみようぜ!」

 好奇心旺盛な若者にありがちな、ごく当たり前の発想だ。

 しかし裏山でなにかが起きてから、二日経っても三日経っても事件の核心に迫った者が現れない。だれも目的地にたどり着くことができないのだ。

 なぜかと問われても困る。俺も正解を知らない。

 まさか異次元にショートカットしてしまうワケじゃあるまい。合理的な理由があるはずなのだ。

 例えば、目的地はすぐそこの裏山中腹部だ。当然地図も持たずに校舎からの目算を頼りに現地に直行してしまう奴がほとんどだろう。舗装された道路じゃあるまいし、上から見た図を頭に叩き込んでみたっていざ目線が変わればどこを歩いているのか、どこに向かって歩いているのか、遭難しそうもない小さな裏山だとしてもなかなか目的の場所にたどり着けないというのは充分に考えられる。ましてや目標となる目印がなにもないんだから。今も白煙を上げているならまだしも、そんなものは三十分とせずに消えてなくなった。

 しかも適当に裏山を歩いていたら、ダンボールに詰まったエロDVDなんか見つけちゃったりして、仲間内でふざけているうちにどうでも良くなってしまう、なんて情景がこの目に浮かんできそうだ。

 一週間もすると、おかしな噂がまた広がりはじめた。

 警察やら自衛隊やら公安やら米軍やら、よくわからないがなにか凄い力を持っていそうな組織が介入している、と。

 俺は窓際一番うしろの机に突っ伏しながら、こいつらあほだなー、と思っている。

 こんなに朗らかな昼寝日和に、あまりにも不釣り合いな物騒さ。そんなものはこの世に存在して良いわけがない。

「本当だって、三年の和泉くんいるだろ、山に入ろうとしたら国防色の戦闘服着た連中にめちゃくちゃ追っかけられたって」

「おまえ、先輩にからかわれただけだろ」

「だいたい国防色って、そんなもん今見かけたら幽霊以外の何者でもねえって」

「だからほんとだって、直接聞いたんだから。アレは冗談言うときの顔じゃなかったって」

「あのひと、いけないおクスリに手を出しちゃってんじゃねーの」

 あの裏山騒ぎはなにもこの学校の生徒の専売特許じゃない。そこらじゅうの小学生中学生高校生が集まってきているに決まっている。下手したら暇な主婦だってピクニック感覚で遊びに来るかも知れない。

 そうなれば治安も悪くなるし、警察だって巡回路に入れるだろう。悪ノリすれば職質もされるだろうし、場合によっちゃ補導だってなくもない。盗んだチャリで来るのもいるだろうし、警察官からしたらそんなものは狩り場だ。

 そしてそんな状況に馬鹿な連中の疑心暗鬼が加わって噂に尾ひれをつける。

「――けっ、くだらねえ」

 俺は独りごちて席を離れた。

「お、太郎ちゃんがなんか言ったぞ」

 くだらない連中のひとりの視線が俺を追っているのは視界の隅でわかった。

 ま、相手にしないさ。



 王様の耳はロバの耳、なんて話があるらしい。

 なんだか昔に語って聞かされたような気もするがはっきりと思い出せない。ただ、物語に出てくるおじさんが穴を掘って秘密を叫ぶ、なんてシーンだけ妙に憶えている。あれが王様の耳はロバの耳だろうと思う。

 俺はたまに人とふたりきりになると、穴を掘って叫んでいるおじさんを思い出す。

 なんでだか知らないが、なぜか人は俺とふたりきりになると言ってはいけないような秘密を喋りたがる。はじめのうちは信頼の証かと思ってみたが、最近どうも穴の役を演じさせられてるんじゃないかと思うようになった。

 つまりは人畜無害な穴野郎だと思われているわけで、どうってことない男が相手ならまだしも、かわいいクラスの女なんかに穴扱いされるのは少し傷つく。

 だからこういうとき、喜ぶべきやら悲しむべきやらよくわからずにもやもやとする。

 そして今そんな雰囲気になりそうで、どうしたものかと。

「太郎ちゃん、おはよー」

 その朝、一番に教室に入っていた俺は二番目に入ってきた女に肩を叩かれ、鼻がくっつきそうなほど顔を寄せられて挨拶されたのだ。隙を突いてキスでもしてやろうかと思うのだが、まだそのラインは超えていない。

 俺は代わりに首をよじって、迷惑そうな顔を作り、

「近いよ馬鹿」

 この女はサキという名を持っている。

 向こうが俺のことを太郎と呼ぶのだから、俺がサキと呼ぶことになんの抵抗があろうか。

「きのうミドリちゃんがね、瀬戸くんに告白して振られたんだって。こんな時どんな顔して良いのかわからないよね。わたしが哀しそうな顔するのってなんか嘘くさいし、かといって笑顔っていうのもどうかと思うよね。真面目な顔できれば良いんだけど、なんかそんな自分に笑っちゃいそうだしね。わたしって性格悪いよね」あはは、と。

 ふたりきりなのを良いことに、聞いてもいないことをべらべらと話しかけてくる。

「なんかミドリちゃんと一緒にしようって約束したらしくて、吹奏楽部のアケちゃんもサックスのなんとかくんに告白するんだって。ミドリちゃんがこけてるだけに、アケちゃんはやりづらいよね。いや……それともやりやすいのかな」

 多数の情報源からどうでもいいことを耳元で囁かれすぎて、俺は校内の大概の情報を手に入れているような気がする。耳年増みたいなもので、あまり良い影響を与えないのじゃないかと思う。

「聞きたくねーよ」

 俺は窓の外に首を向けて知らんぷりを決め込んだ。

「もー、つれないんだから」

 どっかに行ってしまわないだけでも感謝して欲しいね。

 つまらない奴が相手だったら、屋上でも行って昼寝ならぬ朝寝でも決め込むところだよ。

「そういえば裏山のあれなんだろうね。宇宙船が不時着したんだって話を聞いたよ。んで毒ガスが漏れてるんだって。自衛隊のひとたちが一生懸命ふさいでるらしいけど、少しずつ漏れでてるみたい。でも公表するとパニックになっちゃうから内緒にしてるんだって。太郎は気をつけないと毒ガスにやられちゃうよ」

 こっちのセリフだ、と思う。

 体育の授業中、見えないなにかに足を引っかけてすっ転んだところを良く見かけるぞ。おっちょこちょいなんだからサキのがよっぽど危ないはずだ。その点俺は身の軽さと持ち前の頭脳でさっさと危険を切り抜けられるだろう。

「裏山に行ったまま学校きてない人たちもいるみたいだよ。みんな山のなかで倒れてるのかな。ちょっと怖いよね」

「そんなわけあるか」

 何人もいなくなったら大事件だ。今頃はテレビ局で特集が組まれているに決まっている。

「サキちゃんおはよー」

「あー、おはよー」

 三人目の到着だ。

 俺は居心地が悪くなるのを嫌ってすばやく教室を出た。

 女ふたりに挟まれたらしんどいからな。

 やれやれ、と。



       2



 花宮が入院したと聞いたのは木曜日の朝だった。

 その日はすぐに教室へ行く気にならず、校庭の隅にある鶏小屋を冷やかして鶏をからかってやろうとガラにもない寄り道をした。ふざけたことに先客がいて、それが猫だったものだから心の優しい俺は水を差すのをやめた。しかし鶏も生きた心地がしないだろうな。

 いつも通り誰もいない教室に入って突っ伏して始業を待っていた。

 そんなとき福田という奴が、やべえニュースが飛び込んできた、といった感じで教室に転がり込んできて早口にまくし立てた。

「花宮先輩がやったらしいぞ!」

 花宮といえば校内で知らない者はいないというタイプの輩で、わら半紙新聞部なんていうけったいな活動にいそしんでいる三年生だ。

 しかしやったと言われても何をやったのか、誰にもわからない。

「落ち着いて喋れよ、花宮先輩がなんだって」

「梅郷のあたりで倒れてたんだって。今記憶ないらしいぞ」

 らしい、らしい、ばかりだ。不確かな情報によくここまで真剣になれるなといつも思う。人間の業というやつだ。信じたいものを信じようと努力してしまう。

「梅郷? あのへん田んぼしかねえだろ。なんだってあんなところで倒れる必要があるんだよ。ライ麦畑で子ども捕まえるのが夢だったとかじゃねえだろうな」

「おまえ、和泉くんが軍人に追われたとかも言ってなかったっけ」

「今度こそマジだって」

「だいたいなんでそんなこと知ってるんだよ。おまえの情報源はなんだ、生き霊の言葉でも聞こえんのか。イタコ気どりか」

「ウチ、母ちゃんが松木の交差点にある病院で働いてんだよ。今日の朝帰ってきて、うちの学校の生徒が入院してるって。聞いてみたらどう考えても花宮先輩なんだよ」

「車にでもはねられたのかな」

「いや、外傷はないって。俺思うんだけど、裏山に忍び込んで捕まったんじゃねえかな」

「そういえばここんとこ学校休んでたな」

「あの人なら裏山に行かないわけがない……」

 聞いている連中の肌が粟だった。一様に黙って、おそらく起きたであろうと想像しうる最悪のケースを脳裏に浮かべたのだ。

 そんなわけあるか、と思う。

 ああいうタイプの人間は、おかしな電波を時折受信しておかしなことに遭ってしまうものだ。きっと人気のない場所で妙な実験をやらかして昏倒したに決まっている。警察沙汰を避けたくて記憶のないフリをしているわけだ。

「俺たちも行ってみるか……裏山」

「は? 今の感じだと行かないようにしようって流れだよな」

「でもよ、こういうとき事件の中心に近づこうとするもんなんじゃねえのか」

「君子危うきに近寄らず、って言うだろ」

「いや、そうじゃなくてさっ。なんつーかさ、ここで裏山の落下地点を見にいくのが健全な男子高校生だし、必須素養? なんじゃねえのかな」

「なんのだよ」

「俺もわかんねーよ。なんつーか、向こう側だよ。向こう側」

「なんだよ、向こう側って。毒ガス犠牲者としてあっち側いっちゃうだろ」

 こいつらのなかでは、なにか強大で不可思議で恐ろしいものが裏山に待っているようだ。

「まだだれも落下現場を見てないっておかしくねえか」

「花宮先輩は見たんだろう」

「見たら記憶消えちゃうのかよ」

「……記憶の消えちゃうガスかよ」

 ファンタジーにも程があるだろう。



 昼休みになると、俺のところまでサキが寄ってきた。

「太郎ちゃん一緒にお昼食べようよ」

「なんでだよ」

 いらん。

「なーにサキちゃん、太郎つれてく気なの?」

 ほら、別の女は嫌そうな顔をしているじゃないか。

「いーでしょー、みんなのおべんともわけたげてよぉ」

「じゃあうちら先行って場所取っとくよ。中庭ねー」

 俺は寝てしまおうと突っ伏した。

「なに嫌がってんのよー。作り過ぎちゃったからわけたげるねー」

 卵焼きに砂糖いっぱい入ってそうだし、本当にいらん。

「ほらあ」

 サキは俺の腹のあたりを不器用にぐいと掴むと、無理矢理その場から引きはがして連れて行こうとする。恥ずかしいからやめて欲しい。

「わかったから離せ馬鹿」

 俺が身をよじって離れると、にんまりと笑った。悪魔かも知れない。

「ちゃんとついてくるのよう」

 俺なんか女の飯会に連れて行ってどうしようというのか。まさか会話が盛り上がるとか思ってるわけじゃないだろうな。仮に俺ひとりが喋ったところで、俺の言うことなんか理解できる女がいるとは思えない。

 もしかして吊し上げる気か。

 いや、なにをしたとかそんな記憶はとんとないのだが、もしかしたら誤解が誤解を呼んで俺という存在を疎ましく思っていないとも限らない。

「やっぱやめた!」

 俺はきびすを返してサキと逆の方向へ走った。

「こら、まちなさいっ」

 空気に足を引っかけて転げるような女にこの俺が追いつかれるわけないだろう。

 ざまあみやがれ――。

 北校舎から南校舎へ抜ける渡り廊下へ曲がったときだった。

「ほんとに来た」

 女がふたり待ち構えていて、俺の行く手を遮った。人がいるなんて想定していなかった俺は踵から煙が出るほど急ブレーキをかけて、そのふたりを認識する。

「なんで……おまえら」

「よっと、捕まえた」

 女は俺の腕を掴む。

 さっき教室を先に出て場所取りしていると言った奴だ。

「おまえら、なんでこんなところにいるんだよ」

「サキちゃーん、本当にこっちに逃げてきたよ」

 振り返ると、ことさらにんまりとしたサキが立っていて、嬉しそうに言葉を継いだ。

「太郎ちゃんの考えそうなことなんてお見通しなんだよ。このわたしから逃げ切れると思っているの!」

 やっぱり悪魔だ。

 彼女たちは決して俺の腕を放そうとせず、ぺちゃくちゃと喋りながら中庭まで帯同した。すれ違う生徒たち心なしか口元を緩めて俺たちを見ていた。なんてこった。俺はこんなのが一番嫌いなんだよ。だからいつもひとりでいたっていうのに。

 彼女たちに連れて行かれたのは、中庭にあるウッドデッキの一角だった。昼休みには定番の食事処で、左右に首を回せばそこらじゅうに同じような連中がいる。

 我ら一行は誰かが持ってきたピクニックシートを敷いて車座になった。

「そういえば花宮先輩が入院したらしいよぉ」

「ええっ、なんで、どこの病院!」

「なにあんた必死すぎでしょ、なにそれ」ふふふ、と。

「くふちゃん花宮先輩お気に入りだからねー」

 この女は花宮のことが気に入っているのか、変人だ。

「いいでしょ、かっこいいじゃない」

「松木の交差点のあのおっきな病院らしいよ。うちのクラスで噂になってた。いま記憶ないんだって」

「うそでしょ、なにそれ、なんでそんなことになるの」

「いやいや、あのひとはいつかこんなことになるタイプでしょ」

「裏山であの中心地にたどり着いたんじゃないかって言ってたけど……ウソかホントかは知らないよ」

「宇宙船……」

 つぶやくなり箸につまんだウィンナーがこぼれ落ちたので、俺は落下する前にキャッチしてやった。しかし誰もそれに注意を向けない。この曲芸的瞬発力に敬意を払わないなんて、つまらない連中だ。会話に加わる気のない俺はそれを口に放り込んだ。

「用がないなら俺はもういくぞ」

 そのときだった。

『号外、ごうがーい!』

 上方から甲高い声が振ってくる。

 中庭にいた全員が見上げたと思う。さしもの俺も例外じゃなかった。気の触れた巨大鳥類でも舞い降りたのかと思って首を向けると、

「なにこれ」

 輪のなかに数枚ビラが落ちてきた。俺らの周りだけじゃない。中庭のそこかしこにひらひらばさばさと、紙吹雪でもばらまいたようにビラが舞っている。屋上の数カ所からビラが吹き上がっているのが見える。もはやテロだ。

 手近な一枚に目を落としてみれば、花宮の偉業と入院の報が記されている。

 ――隕石落下の中心部をとらえる!

 ――謎の生命体の正体!

 ――弊紙部長、本取材中に名誉の負傷、現在入院中!

 やたらと感嘆過大な見出しがわら半紙に躍っていた。

 すでに自衛隊統制下にあるとされる〝あの裏山〟をついに攻略した、としてその部分をやたらと強調しつつ紙面はプロパガンダ的様相を呈している。

「……写真ぜんぜん写ってないじゃん」

 わら半紙に白黒印刷、構図の説明もなくなにを撮ったものなのかすらまったく理解できない。『落下地点』なんてキャプションがつけられているが、眉唾だ。

「そもそも花宮先輩は記憶がないんでしょう。この写真は誰がどうやって手に入れたっていうの」

 ゲリラ新聞部なんて元から胡散臭い連中のたまり場程度にしか認識されていないし、こんな記事を書いたところで信用されようもない。

「こんなに紙無駄にして、中庭散らかしちゃって、すごく先生に怒られちゃいそう」

 たまたま中庭に居合わせてしまったのか、幾人かの生徒会の連中は昼飯を中断してすでにゴミと化したビラを一枚ずつ拾い上げている。表情は一様に疲れており、溜息なら百発分はストックがあるぜといった感じだ。

「ねえふたりとも、」

 ふくちゃんと呼ばれる花宮ファンの女は号外を握りしめて唐突に言う。

「わたしたちも裏山行ってみない?」

 ふたりは声を揃えて「は?」と応答した。


 人はなぜ、裏山に魅入られるのか――。



       3



 号外の効果は絶大で、落ち着きつつあった裏山の話題が再び盛り上がりを見せ始めた。

 なんせあの花宮が登校してきていないのは事実で、一部には入院している病院まで明らかにされているのだ。なにか事件に巻き込まれたのじゃないかという考え方はいたって普通で、しかも記憶がないだなんて情報まで飛び交いだしたらもう超常的ななにかがあの小さな山に潜んでいるというのは確定的な印象すら与える。

「わら半紙新聞部にあの写真のソースを見せてもらおうと思って部員の奴探してみたらよ、写真はないんだって」

「あいつらのはネタだろ。あんな写真を信用すんなよ」

「いや、それが動画ならあったって。軍が介入してるって話だったから、ライブストリーミングしてデータはこっちでリアルタイムにもらってたって。あの号外の写真は動画のキャプで、落下物の中心地を映してるらしいぞ」

「なんでわざわざ画質を劣化させて印刷するんだよ。本当はなにも撮れちゃいないよ。客寄せだ」

「当日は通信障害がすごかったって。ノイズが入りまくりで、あれでも一番いい部分を切り出したらしいぞ」

「動画は見せてもらったのかよ」

「それが……誰かに消されてんだって、裏山調査のデータが一切合切」

「うそくせー」

 俺も思う、嘘くさい。

 しかしこれで活気づく連中が増えたのも事実で、クラスのなかで行ってみようやら止めとけやらやってた奴らも周りの雰囲気に乗せられて行くだけ行ってみようか本当に危なかったら立ち入り禁止の柵くらいあるよねそれ見て帰ろうぜくらいまで態度が軟化していた。

「なんか毒ガスってのが気になるけど」

「だれか生け贄をつれてかないとな。十メートルくらい先を歩いてもらってさ、なんかあったらダッシュで逃げよう」

「あー、なんかニュースで見たことあるな。防護服着て鳥籠に小鳥入れてるやつ」

「それの人間版な」

「おまえら、めっちゃゲスいな」

「命に関わるんだから、そんなもん逆に走って逃げられるだろ」

「首輪つけとけばいいでしょ。長い紐結んどいてさ」

 どこまで本気か知らないが、冗談にしても質が悪い。

 そんな質の悪い会話をしている連中のひとりが俺を見た。そして良いこと思いついたという目をして下品に口元を釣り上げた。どうやったらこんなにお下劣な笑みを浮かべられるのか、こいつの両親にインタビューしてみたいものだと思う。俺の子どもがこんな笑い方をしたら、二度と愉快な気持ちにならないくらいぶん殴ってしまうかも知れない。

 そして、

「ちょうどいいじゃん。太郎ついてこいよ」

 俺の存在なんてまるで忘れていた奴らまで一斉にこっちを見た。その冗談いつまでやるの、とナイスアイディア、の奴らで半々くらいに分かれていた。

「なんで俺がおまえらなんかについて行かなきゃならないんだ」

「なに言ってんだおまえ。もしかして嫌なのか。晩飯おごってやるぞ」

 ぎゃはははと笑う奴がいる。

 当然、愉快な気持ちにはならない。

「俺んち首輪あまってるから、持ってこようか」

「おまえの父ちゃんすげえ性癖してんな」

「なんでだよ、犬飼ってんだよ」

 ぎゃはははと笑う奴がいる。

 殺してやろうかと思う。

「太郎、おまえ先頭歩いて俺ら守れよな」

「ちょっと、田山くんやめなよ」

 無関係なサキが聞き咎める。

 女に守られているようで、これはこれで不愉快だ。

「かんけーねーだろ、太郎が決めることだ」

 しかし人間も動物であるとつくづく実感する。俺の身体が少し小さいからといって、たいがいの人間は舐めてかかってくる。田山のような箸にも棒にもかからないなんの実績もない悪ぶっただけの奴にここまで上からものを言われるのだ。

 その都度戦っていかねばならないという呪縛は死ぬまで消えることはないのだろう。魔法使いでも出会わない限り突然身体を大きくすることなど叶わない。

「なあ太郎。嫌だって言っても無理矢理連れて行っちゃうぞ」

 田山が俺の肩に手を置いた。

「触るな」

 俺は田山の手を思い切りはたいて睨めつけた。

「痛っ――」

 こんな展開を想定していなかったのか、田山は思いきりのけぞってバランスを崩し、そして椅子から転げ落ちた。大きな身体が隣の机をも押し倒し、剣呑な音が教室に響く。周囲の連中が殺気立つ。

「太郎ちゃん」

 サキが俺の名を呼ぶ。

 どうしてやろうかというこんな瞬間でも、心配そうに見つめるサキを見て少しだけ冷静さを取り戻した。こんな空気は本意じゃないし好きでもない。

 それでも戦っていかなきゃならない。

 俺は尻餅をついた状態の田山を睥睨し、教室を出た。

 ちょうど、始業のチャイムが鳴り響いていた。

 俺が教室を出ていくとサキがついてくる。

「授業始まってるぞ」

 振り返って言ってみるけど、サキは俺との距離を詰めてくるだけでなにも言わなかった。こんなところを教師に見つかったら割りと本気で怒られるだろうに、なぜか帰ろうとしない。

「屋上行く気ね」

 そうつぶやいて上へ向かう階段にもまだついてくる。

 今日は晴天だった。

 夏特有の真っ白な日差しに、グラデーションのきいた青、遠くには入道雲が浮かんで、もうこんな季節かと妙に意識してしまう。

 屋上に出る踊り場には小さな窓があって、換気のためにいつも開けられているのは知っていた。出入りにちょうど良いのだが、俺に追いついたサキがドアノブをひねると普通に開いた。ならばと堂々まかり通る。

 他に誰の姿も見えなかった。

 日陰を選んで腰を落とすと、サキも当たり前のように横に座る。

「なんか用か。授業いいのかよ」

 サキは生意気になにも答えなかった。俺が呼んだわけじゃないぞ勝手についてきて黙り込むな、と思う。なんだってひとりになりたかった俺を邪魔しておいて、気をつかわせるのか。かといって穴を掘ってからぶちまけるような他人の秘密を喋られても困るのだが。

「……なんでみんなあの裏山に行きたがるんだろうね。行くとなにか変わるのかな」

 みんな、というのは田山だけのことじゃない。サキの仲間にいるふくちゃんという女もいまだに行きたがっているのだろう。無理に止めようとすると関係に少しひびが入る程度には本気なのかも知れない。なぜか行きたい奴というのは本気で行きたいらしい。

 そういえばだれかが言ってたな「向こう側にいきたい」って。

 なんだよ向こう側って。

 今いるのはどっち側なんだよ。花宮は向こう側の奴なのか。ああいう奴になりたいのか。たしかに端から見ているとずいぶん楽しそうだよな。つまり今の日常に満足していないんだな。

 ずっとそんな毎日が変わるのを待っていたのか。

 町中を走っているときに角から飛び出してきた女の子とぶち当たって、そいつが転校生だったとか。入学早々うしろの席に座ったどえらい美人の女に振り回されて、あれこれ事件に巻き込まれたりとか。校門をくぐる前に登校する勇気がしおれてしまって、自分を鼓舞するために好きな食べ物の名を呼んだら男と出会ったりとか。

 そんな〝目〟を変えるなにかとあの裏山のなにかを重ねてるのか。

 この日常を壊してくれるなにか。

「俺もでっかい地震でもこないかとか考えてたわ」

 裏山に落ちたのが他国のミサイルだったりしたら、完全に日常は崩壊してそれこそ映画のような毎日が待っているだろう。しかし現実はそう甘くない。この世界は鉄壁の退屈に護られている。限られた人間だけが、

「そうか……〝向こう側〟にいけるんだな」

「みんな何者かになりたいんだね」

 サキは自分の長い髪の毛をしきりに触り、上下にさすっている。

 思い切りきれいに授業をサボってしまった。校舎内でうろうろするわけにもいかないし、目の届く限り他に人間はいない。あと一時間弱、ここで油を安売りしていなければならない。俺はせっかくだし昼寝しようと決めた。

「戻りたくなったら勝手に戻っていいぞ。起こさないでくれよ」

「ちょっと、寝ないでよう。暇しちゃうよ」

 勝手についてきておいてなんて言い草だ。

「俺らの間で会話は成立しないだろ」

 俺は少しだけ哀しいことを言ってしまう。サキにはその意味はわからないかも知れないが俺は自虐的にそのようなことを言ってしまう気分だった。

「えっ、なにかいった?」

「なんでもない」

 ちくしょー、それにしても暑いじゃねーか。

 太陽とは神々の創った熱線兵器か。雨の奴はどこでなにをしているんだ。フェンスの向こう側でとぐろを巻いている雲は本物か。積乱雲なんていうのはあの青空の寂しいとこにぼこっと嵌めとこう程度の視覚的パズル的遊びなんじゃないだろうな。書き割りか。本当に水を含んでいるのか怪しいもんだ。悔しかったら今すぐ雷雨でも連れ、

「そうだ、今日ウチ泊まりにくる?」

 ……え。



 普段、斜に構えていると思われがちだけど、別にそういうことじゃないんだよ。

 でもね、よしんばそうだとしてね、そうだとっていうのは俺が斜に構えていたとしてってことだよ。んで、そうだとしてもね、べつにサキの家に泊まりにいくことになんの矛盾もないからね。

 俺はなんかひとりでずっといても面白いことなさそうだし、だったらそう機会があることでもないしクラスメイトの家に遊びに行ってみるのも良いんじゃないかっていう、なんというか普段と違う刺激の入力があったっていいと思うってことの結果だからね。それに今日金曜だから、明日の学校のこととか気にしなくていいし。

「そうだ、ちょっと寄っていこうよ」

 放課後、俺はサキの五メートルくらい後ろをかったるそうに歩いていた。

「べつにいい」……けど、と。

 サキの指さした先はどうやら裏山らしかった。

「なかには入るつもりないから、ちょっと本当にこわいひとたちがいないかだけでも見ておこうよ。ふくちゃんかなり本気だし、わたしも止めるにはいろいろ知っておいた方が」

 言いながらもう足は裏山に向けていた。

 どうせなんにもないのはわかっている。俺は無意味に裏山まで探検に行こうという労力と、田山の言いなりになることのムカツキに反駁していただけだ。危ないことなんかないさ。

 学校から裏山なんて歩いてすぐだ。

 住宅街を適当に山に向かって歩いて、コンクリートに固められた幅の狭い二級河川を越えて、木々が目立つなと思った頃にはもう足下まで来ている。

 橋を渡っているときだった。

「君たちなにをしているの、」

 振り返れば白装束でふくよかなおっさんだった。

「君たちも神様に会いに来たのかな」

 妙に人なつこい、けど少しいびつな笑みを浮かべて、そいつは俺らの前に立ち止まった。

 こいつはやべえと思う。

「ち、ちちがうんです」

 軍人並みの右向け右を決めて、サキは早足で離脱を開始した。

 教室で聞いた軍服に追いかけられる話もあながちウソじゃないかも知れない。

 すでに裏山は不良学生のみならず、新興宗教やら陰謀論者やらの期待を一心に背負い込んだ魔窟と化しているのじゃなかろうか。

 客観的に見て、コスプレ会場と言い換えても可、だ。



       4



 いっしょに風呂に入る展開だってなくもないと思った。

 サキは割りとのんびりしている方だし、テレビでそんなシーンをいくどか観てきた。だから風呂くらい一緒に入れるかと、いや、むりやり入れられるかと思ったのだ。

 結論はノーだ。

 両親も兄弟も姉妹もおらず、この中流の二階建て一軒家にひとりきりという日が週に二、三度あるらしい。テレビはつまらないし食事は美味くないし寝るにしては早いし勉強など学校以外でする気もない、そんなサキがたまたま目の前にいた俺を家に呼ぶことはそんなに不自然じゃないのかも知れない。

 だから部屋に案内するなり、

「好きにくつろいでー」

 なんて言ったまま特にかまってくるでなく、なんの目的も持ち合わせていないように見えた。まぁ、空調のしっかりした部屋でだれかと一緒に過ごせるだけでも贅沢な話だ。

「それにしても、今日の田山くんはひどかったね!」

 唐突にサキが言う。

「もう忘れた」

「あれは絶対に本気だったよ。あんなにひどいことよく思いつくよね。信じられないよ」

 平和な家庭で育ったんだろうな、と想像がつく。あの程度のことで、しかも自分以外のことで、ここまで素直に憤慨できる奴はそういないだろう。不器用に拳をつくってわなわなしている。わなわなと。

 そんなタイミングでかすかに玄関から物音が聞こえた気がした。

 サキもぴくんと顔を上げて「おとうさんかな」などと不穏なことを言う。勘弁してくれと思う。初対面で一目見ただけで嫌いだと言われた経験が幾度かある。ましてや女友達の男親なんて絶対に嫌だ。

「大丈夫だよ、おとうさんは好きだと思うな」

 などとサキは無責任なことを言うがいまいち信用できない。

「下降りよっか、紹介するよ」

 勘弁してくれ。

 しかし勘弁ならなかったようだ。アクロバティックな父親はなにを考えたのかいきなり二階に上がってきて娘の部屋の戸を開けた。感覚では五段飛ばしくらいで駆け上がってきたように感じる。「ただいまサキちゃん」そう言うなり腰の後ろから重箱を取り出して「夜ごはんは作ってきたからね」どんと置いて蓋を外すと「おとうさん、お寿司屋さんなの」の言葉通り、つやつやの魚がきれいにその剥き身を晒していた。「大トロもあるから食べなさい。ほら君も」マジかよおとうさん勘弁してくださいもう帰らないと、うわ大トロだって一回くらい食ってみたいよな俺まだ食べたことないんだよ。ふたつの声が交錯して思考が停止してしまう。「ほら早く食べないか、ところで君はなんだなにしにこんなところにいるんだ。はやく食べなさいそしてなにしにこんなところにいるんだ」ぎゅうと首根っこを捕まれて鷲掴みにした寿司を塗りたくるように口元に押しつけられて「ちょっとおとうさんやめなよ太郎ちゃんはごはんにお味噌汁かけただけのシンプルなのが好みで」ちょっとまて俺は寿司でいい「君、わたしの娘になんか用か」取り出す携帯電話、かける110番、速攻で鳴り響くパトカー、

「やめてくれ!」

 もちろん夢だった。

 ガラにもなく息を荒くして俺は飛び起きた。殺されるかと思った。窓の外は紅茶に墨汁を垂らしたような色に変わっているし、夢のわりには長い時間をあの世で過ごしてしまったようだ。人様の部屋でこんな醜態を晒すとは少し恥ずかしい。

 サキは突然目覚めた俺を一別すると、訝しむ様子もなくすぐに視線を外す。

 なんだ?

「うん、わかった、誰でもいいけど連絡先は知ってる? うん、じゃあそっちは任せた。わたしは今から行ってみるから――」

 携帯で喋っている。

 あんな夢を見たのはこいつのせいだ。いや、サキはかかってきた方だろう。つまりは誰だか知らないが、かけてきた水挿し魔のせいで俺の大トロは逃げていったのだ。

 通話を終えると、サキは妙に真剣な顔を作って俺に近寄ってきた。

「ふくちゃんが田山くんたちと裏山に行っちゃったんだって。今日金曜日だし、遅くまで帰らなくても家の人が心配しないかも。もしかしたら女の子ひとりだけかも知れないし、連れ戻しに行かなきゃ」

 ほっとけよ、と思う。

「むりやり連れてかれたわけじゃあるまいし、そこまでする必要あるのかよ」

「太郎ちゃんはちょっとまってて。家のなか好きに遊んでていいから」

「アホか!」

「それじゃあちょっといってくる」

 まてまてまてまてまてまて、と。立ち上がりかけたサキの足首をすがるように掴んでしまう。

「俺も行くから。おまえひとりで行ったって状況は変わらないだろう」

 それにあんな夢見たあとにひとりで残っていられるか。

「太郎ちゃんもくる? よし、自転車にふたり乗りしていこう」

 制服のままだったサキは俺がいるのも気にとめず、目の前でそのままスカートをおろすとジーパンに履きかえ、ワイシャツを脱いでからTシャツとパーカに着替えた。

 ……ざまあみやがれ。



 裏山の周辺が妙に禍々しく感じられるのは俺の妄想が生み出した存在しないオーラを見てしまっているからだろうか。

 一部の人間のあいだでは日常をぶち壊す超常のメッカとして崇められているはずの裏山周辺であるが、一見すると路上駐車ひとつない静まりかえったただの住宅地に見える。

 おそらくこの数日の間に騒がれすぎて警察が駆逐したのだろう。

 周辺に点在する、土地をもてあました地主が始めたほっとくよかましだろ的時間貸し駐車場はみっしりと車がつまっている。普段は自分たちの身内以外は駐めないような閑散ぶりが、太陽も落ちかけるこの時間帯にも関わらず逆に満車である。

「……ねえ太郎ちゃん、みんなもう山に入っちゃったかな」

 みんなとか言わないで欲しい。クラスの連中だけじゃなく、山伏も暴走族も拝み屋もオカルト研も宗教家も軍人もヤクザも警察も山に犇めいていそうで少し嫌だ。

「知らん」余計なこと考えるな、と。

「そっか、そうだよね。もう山に入るしかないよね。勢いつけてさっさと入っちゃおうかね。だれからも電話ないしうちら以外の捜索隊も揃わなかったのかな」

 人ん家の庭先なのか雑木林なのか、よくわからないまばらな自然を分け入って、サキは裏山に挑もうとしている。自分が先頭に立っていくあたりは頼もしい。

「おい、そっちであってるのか」

「そう、こっちであってるのね。やっぱ太郎ちゃんは頼りになるね」

 恐怖のせいか思考停止している。

 蜘蛛の巣ももろともせずに、両腕を頭の前で交差してサキはざくざくと進み出す。躊躇している間もない。というか、一度でも立ち止まったらもう動けなくなる気がする。

 夏の夕方とはいえ山のなかは薄暗く、耳を聾するひぐらしは五感のバランスを著しく不安定にする。視野が狭くなっているであろうサキのために、周囲への警戒は細心を極める。

「ひゃっ」

 と声がしたと思ったらスライディング気味にサキが倒れている。なにもない校庭ですっころぶんだから、木々の根がうねるこんな山道は一般人にとっての岩壁クラスのはずだ。せっかく着替えた服がすぐに泥だらけになってしまう。

 泣きそうになって上げたサキの顔の目の前に、下駄を履いた二本の足が並んだ。

 視線を上げる――、

「やっぱり君たちも来たんだね」

 恰幅のいい白装束がいた。

 白装束で恰幅のいいおっさんはさっきも見かけた気がしたが、今度の白装束は顔に真っ赤な面をつけていた。鼻は三十センチはあろうかという立派なもので、目はギラギラと輝いている。その雰囲気は常軌を逸したものを感じさせた。

 思い切り叫びたかっただろう。

 恐怖のせいかサキの吐いた空気は声帯を素通りして空しく掠れる。

「御供にちょうどいい」

 白装束の右手からはぬらりと光る刃物がぶら下がっていた。これはただ事じゃないと猿でもわかる。非常事態を知らせる警鐘が耳元でがんがんと鳴っている。

 しかし俺がやるしかない。

 本能レベルの様々なアラートを断ち切って、俺は白装束につかみかかる。



       5



 裏山に落ちたなにかは、さて、なんなのか。

 俺は正確な答えを持たない。

 この目で落下地点を見ていない以上、馬鹿みたいなガキの超常現象論だって否定はできない。

 気弱になった心の隙を突かれたのか、もしかしたら超常的ななにかも存在するんじゃないのかと頭をよぎった。はっきり思い出せないまでも、なにかそういった力の片鱗を体験した気がするのだ。しかし世の中の不思議なことなんてすべてこういう心理的消耗が引き起こすものなのかも知れないなとも思う。幽霊の正体見たり枯れ尾花。

 なんせ今の俺は死にかけているんだからな。

 走馬燈なんてウソだ。

 いやもしかしたら一秒も万倍に感じられるほど脳がクロックアップしていて、これから走馬燈が見られるのかも知れないが、俺の主観においてもう意識は刈り取られる寸前だ。

 白装束のおっさんはきっとどこかで小さな宗教団体かなんか主催していて、近頃は近隣住民からとみに迫害を受け白眼視され、収入も激減、食うや食わずやという状況下で天から落ちてきたアレに神を見たのかもしれない。いや知らないけど。

 とにかく、興味本位の学生風情などお話にならないくらい本気で裏山にいたのだ。

 いつだって本気の奴は強い。

 結論から書こう。

 ふた刺しひと切りだ。いや、斬りか。まあとにかく痛すぎて頭のなかが真っ白になった。白すぎてなかから黄色が出てくるくらい真っ白になって、吐き気がした。

 しかし、サキは無事助かったんだから身体を賭けた甲斐があったってもんだ。

 俺があの白装束の奴に飛びかかったとき、サキはまだすっころんだまま硬直していて、さっさと逃げろ、立て、なにやってんだと叫んだところでまるで通じなかった。どんなにかっこつけてみたって俺なんて非力な部類に入る。すぐに白装束にやられてしまうだろうと自分でも理解していた。だから状況を飲み込めないような顔して匍匐姿勢のサキに苛立ちさえした。

 俺が視界を奪おうと相手の顔にしがみついたとき、ひとつ目の刺し傷が腹に開いた。そのときの細かい描写なんて思い出したくもないね。とにかくびっくりした。

 それでもサキがまだ逃げていないから、ここではまだ退場させてもらうわけにはいかなかった。必死に白装束にしがみつく。

「おい、逃げるぞ!」

 聞き覚えのある声だ。

 振り返れば田山ともうひとり、男子がサキの両脇を抱えて引きずるようにして山を下りていくところが見えた。

 あいつらもこの辺りにいたのか、運の良い連中め。

 この流れで俺を置いてゆくのはしようがない。俺が田山でもそうしただろう。ここまで状況が切迫すればサキでさえ俺を助けるなんてきれい事は吐かないはずだ。なんせ相手は刃物を持った大人だ。むしろよく飛び出してくる勇気があったものだと思う。田山は俺の思っていたよりはだいぶんまともな奴だったのかも知れない。

 白装束の奴はすぐに追いかけるでもなく、冷静に俺をもう一刺しして地面に叩きつけた。なにが辛いってまだ意識があったことだ。地面にへばりついた俺はもう一センチだって動ける気がしない。片手も上げられない。ただただ自分の血液に溺れるように沈んでいくだけ。

 そして最後に小さく「ニャァ」と呟いた。



 俺は教室のうしろで船をこぎながら、地震でもこねえかなあと考えていた。

 学校の教室というのは日陰だし風が抜けるし、夏だというのにどこよりも涼しい。もちろん空調の入った部屋には敵わないけど、俺にとって心地のよい空間であることには変わりがない。

 黒板の前では日本史の教師が土佐の厳しい身分制度のことをわかりやすく解説している。

 ――またか、と思う。

 しかし思っただけで、なにが「またか」なのか皆目思い出せない。とてつもなく恐ろしい夢をみたような気もするし、とてつもなく楽しい夢をみたような気もする。人間の言うところのデジャブというやつだろう。

 長い間キャンパス猫として生きてきたせいで多少個体がヒューマライズされてきたとしてもおかしくはない。が、そもそも世の猫たちがこのような思考を持っているのかさえ俺にはわからないのだ。

 俺以外のすべての個体は自動応答の人口無能で、俺を観察するマッドな研究者たちが用意した箱庭に俺は生きているのかも知れない。

 むしろそう考えればすべての辻褄が合うと思う。

 授業料も払わない俺に毎年毎年教室の自由出入りを許し、昼休みになれば誰ともなく旨い飯を提供してくれる。人間は同族にさえこのようなことはしないというのに、なぜ猫である俺にこのような待遇を用意するのだろうか。

 俺は実験用猫かなにかだと思う。

「地震でもこないかな」

 俺の絶望を観察させてやるために声に出してやった。

 俺が声を発すると必ず二、三人は俺の方を見て口元を釣り上げる。これも視覚か聴覚デバイスのトリガーなんじゃなかろうかと思う。

 好きなだけ記録すればいいさ。

 考えるのがめんどくさくなった俺は、教室の後ろにあるロッカーにうつぶせて、しっぽをぶらぶらさせて、本格的に寝落ち段階に入っていた。

 そして――、

 頭のなかの音なのか、それとも現実このクラスの全員の鼓膜を震わせたのか、判然としないまま俺は目覚めた。

 聞いたこともないような、腹を揺らす衝撃音が轟く。

「きゃあ」

 女たちがステレオタイプな悲鳴を上げて緊迫感を出したりする。日本史の教師だって授業を止めて様子を探るそぶりを見せた。男たちは「ミサイルだ」「不発弾だ」と声を上げる者もいたけど、たぶん強がりだ。

「おまえらちょっと待ってろー」

 このまま授業を進めるのもさすがに不自然だと思ったんだろう。そそくさと教室を出て行った。生徒たちは「ちょっと待ってろ」に従うはずもなく、格好をつけた奴から順に廊下に飛び出して窓にかぶりつく。音はちょうど教室右側方向から聞こえて、もし爆発が起きたのだとしたら四階の廊下からなら見えるかも知れないと思うのは自然なことだ。

 斜に構えているつもりもないが、俺は廊下に出なかった。

 だから声だけで状況を判断するしかない。

「おい、あそこ、うっすら煙り上がってないか」

「ほんとだ」

「裏山だ」

「すぐそこじゃねえか」

 あれ、やっぱりこの光景は見たことがある気がするぞと思ってすぐに忘れた。

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裏山、○○落ちたってよ 七十 @2501

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