TRACK 06;新たな依頼者

「あの…。済みません。」


『所長。本当に、あんな依頼を受けるんですか?』

『先ずは…相手方の気持ちを探る。探偵が、調査もせずに事を進める訳ないだろう?依頼は…一旦引き受ける。但し、解決方法は俺が決める。』


 江川さんを見送った時の、所長の言葉が引っ掛かる。

 昨日の晩も不適な笑みを浮かべて、千尋さんと一緒に事務所を出て行った。


「…あの…」


 所長の性格は、何となく把握しているつもりだ。


(また変な事考えてるな…?とりあえず、タダ働きだけはしたくない…。)


「…あの…済みません。」

「?」

「返事がないので、勝手に入って来ちゃいました。…ここって、探偵事務所ですよね?」

「あっ!済みません。私ったら…。ちょっと、考え事をしていまして…。」

「はぁ…。」

「どうぞ、どうぞ!中にお入り下さい。」


 今日も私は事務所で1人だ。唯一の味方である拓司さんは、また頭痛に悩まされている。



 他の人はいつもの遅刻だけど…幸雄さんは当分、事務所に出て来ない様子だ。

 所長から禁止命令が下りた。事務所の車を私用で使い過ぎて、当分の間は乗るなと叱られた。


 ばれた理由はガス欠だ。そして事務所には余裕がない。だから解禁になったとしても、車は走らない。


『幸雄は多分、数日の間は事務所に出て来ない。』

『えっ!?どうしてですか?』

『あいつの性格だ。昔も同じ事をした。』


 幸雄さんは、ショックで出勤出来ないと言う。拗ねているのだ。


(…有り得ないくらいに幼稚な人だ。)




「秘書の橋本です。今日は、どう言ったご用件で?」


 1人でお客さんを相手にするのは、今日で初めてだ。


「…借用書が、本物かどうかを調べて欲しいんです。」


(…?何か、聞いた事ある依頼だな?ワカちゃんの時だっけ?)


「昨日、職場に借金の取り立て屋が来て、同僚の借用書を見せられたんです。二千万円もの金額でした。でも、私には信じられません。あの人は、そんな事出来ない人です。そんな人じゃないんです。」

「………。」


 話を聞いてみると、ヤバい展開になっていた。依頼主さんが言う取り立て屋とは、きっと所長達の事だ。

 脅された相手が、脅した先に依頼に来たのだ。



「あの人は…ヒーローなんです。そんな人が、多額の借金を抱えるはずがありません。」

「…ヒーロー?」


 戸惑う私を前に、依頼主は話しを続けた。

 借金の内訳は知っている。江川さんとの打ち合わせには、私も同席した。


「済みません。挨拶が遅れました。私、橋本紫苑と言います。」

「あっ、こちらこそ挨拶が遅れました。紀本菜月と申します。」

「………。」


(やっぱり、江川さんが拒んでる女性で間違いない。)



 依頼主さんはそこから、江川さんに関する話を教えてくれた。

 江川さんは思い出さないようだけど、2人は小学校の同級生だった。


(……同級生……。ワカちゃんと言い菜月さんと言い……羨ましい。)



「あの人は、わざと喧嘩に負けたんです。喧嘩に勝ち続けたら、また私が苛められる。そのくらいなら、自分が苛められ役を買おうとしてくれたんです。」

「………。」


 麻衣さんの事も思い出す。昇さんは喧嘩に滅法弱いけど、2人に似ている気がする。


(……江川さんは、本当に菜月さんに気がないのかな…?)


 それにしても、私の周りには同級生カップルが多い…。


(私にも脈はある?)




 2人が知り合いだったのは、ほんの数週間の間だけだ。暫くもしない内に菜月さんは、父親の仕事の関係で転校したと言う。


 でも、再会は15年後に訪れた。菜月さんが所属するサーカス団に、江川さんが入団したのだ。


「あの人は…ずっと誰かを助けています。団員の人が困ってると、直ぐに駆け寄ってお手伝いします。お金に困った人がいたら、貸してあげたと言う話も耳にしました。ピエロを演じて、格好悪い姿を見せて子供達に喜んでもらってます。」

「………。」

「いつも…自分よりも周りの人の幸せを優先します。それで不幸な目に遭った事も、あると思います。だけど…それでも彼は笑っています。だから私は、あの人が困ってるなら助けたい!あの人にも、あの人を幸せにする人が必要なんです。でも…何よりも先に、借用書が本物かどうかの確認がしたいんです。」

「………。」


 菜月さんは、江川さんに正体を明かしていない。教えてしまえば、また昔みたいに守られそうで嫌だと言う。

 菜月さんは、本当に江川さんが好きなんだ…。彼の事を、守ってあげたいんだ。


 だから気持ちも伝えていない。

 でも…江川さんは気付いてる…。事務所に訪れて、菜月さんを遠ざけたいと依頼した。


(江川さんからの依頼は…教えられない。)



「お話は分かりました。ただ…私は秘書なので依頼を受けるかどうかは、上司に確認を取ってからでないと分かりません。後日、追ってご連絡を差し上げます。」

「…何卒、宜しくお願いします。」


 時計を見て焦った。菜月さんを、急いで帰さなければならない。

 『借用書のコピーはありますか?』なんて事も聞けない。中身は充分に知っている。



「それでは、ご連絡お待ちしています。」

「早急に、ご返事を差し上げます。」


(どうにか、所長達が来る前に彼女を追い出せた。)




 しかし…ややこしい話になってきた。


 所長と千尋さんは昨日、菜月さんに会っている。偽の取り立て屋として、彼女を脅したのだ。

 2人の顔を知られると、江川さんが立てた計画もばれる。菜月さんを拒んでいる事まで知られてしまう。


(それだけは、絶対に駄目!気持ちが届かないまでも、傷付ける事だけは避けなきゃ…。江川さんからも、そう伺ってるんだから…。)


 所長を説得しなければ…。出来るなら江川さんの依頼を断って、菜月さんの想いを叶えてあげたい。




「はっくしょん!」

「!?あなたは!昨日の…。」

「あっ……。」


 机に戻ろうと振り返ると、背中から菜月さんの叫び声が聞こえた。


(……。もうちょっとだったのに…。)

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