第3節
*
東京都交通局に、一本の電話が掛かってきた。
事務局員は、何の疑いもなく、受話器を取った。
向こうの様子など、わからぬまま、いつもの日常のように言った。
「こちら、東京都交通局です。どのようなご用件でしょうか」
スピーカーからは何も聞こえない。どうしたのだろう。もう一度声を掛けてみる。
「こちら、東京都交通きょ」
『パァン』
大きな風船が割れたような音がした。突然の音に、局員はびくりと肩を震わせる。
「どうかなさいましたか!?」
『バスジャックだ。人質が殺されたくなかったら、二千万用意しろ。今から二時間後に、また連絡する。それまでに準備できなければ、十分ごとに、人質を一人殺す。いいな。念の為釘を刺しておくが、警察に通報するな。もしパトカーに追われたり、警官を見かけることが多くなったら、即座に誰かを殺すからな』
ブツッと嫌な音がした。切れた。通話が切れてしまった。
なんだこれは。
あの電話は何だ。
バスジャック?
バスジャック!
「そんな……馬鹿なことが!」
ガタンと音を立てて、デスクから立ち上がる。叫び声と共に鳴ったその大きな不協和音は、周りに不安を撒き散らす。
「どうかしたのか?」
彼の上司であろう男が訊く。局員は声を震わせた。
「バス、ジャックが……バスジャックが発生しました!」
*
「こんなもんでどうだ!」
青は、乗客から奪った携帯の電源を切りながら言った。
上出来ですよと、仁は笑った。
一番の問題は、警察が介入するか否かだ。だが、それ以外の問題はある程度対処しやすい。
まず逆探知の危険性だが、これは基地局に警察が協力を要請しない限り基本的に開示はされない。東京都交通局自体が開示を求めても、拒否される可能性は高い。
そしてバスのGPS(ついているかは定かではないが)については、元々のバスのルートを通れば、不審に思われない。停車ももちろん、いくらかは通常どおり行わせる。そうでなければ、不審に思われてしまうからだ。ただし、終点へは行かないよう命令した。終点へ着いてしまえば、乗客が全員降りなければおかしい。そこで疑惑が湧いてしまえば、本末転倒だろう。
途中で止まるバス停で、乗り込んできた乗客には、バスジャックのことは伏せてもらうことにしてある。そのまま何も知らずに、どこかのバス停で降りればそれで良いが、万が一ばれた場合は、そのまま人質になってもらう。人質は多ければ良いわけではないが、警察などに発覚した場合、人質が多ければ手も出しにくくなるだろう。
さて、先程の青の行った脅迫だが、要点は二つ。
『通話時間は短く』そして、『時間設定は二時間ほど』だ。
相手に与える情報は少ない方がいい。そこから対策を立てられては仕方がない。要らぬことを喋ってしまい、そこからバスを特定する情報が漏れる可能性はゼロではない。要点だけを話し、そして、返事を聞かずに切る。これだけでも相手は動揺するだろう。
ついでの付加効果として、こちらからしか連絡できない状況を作るため、仁は携帯を非通知設定にし、携帯の電源を落とさせていた。非通知の電話番号を調べる方法も、警察の協力がなければ難しい。こういった事態に備え、東京都交通局が非通知を調べる方法を持っているかもしれないことを考慮し、乗客の携帯で連絡を行い、電源を切った。万が一調べられ、携帯の所有者を特定されても、それは青ではない為、犯人そのものの情報は流れにくくなる。
そして金を用意する為の猶予。長すぎれば当然何らかの対策を練られるし、短すぎれば金の用意の時間が確実に無く、乗客を必ず殺さなければならない。
万が一殺さなかったとすれば、相手には殺す気が無いと判断され、安心を取り戻した相手が、警察を呼ぶ可能性もあり(まあ気付かれなければ良いのですぐに呼ばれる可能性は僅かだろうが)、殺したとすれば返り血がバスの窓に付き、さらにほかの乗客が悲鳴を上げ、明らかに不審な状況を外側の第三者に知られることになる(ちなみに先程の銃声の時は、車の少ない道を走行中に撃ったもので、比較的第三者にはバレにくい状況だったようで、不幸中の幸いであった)。
短い通話時間と、ちょうどいい制限時間。相手を揺さぶるには、単純であると同時に、効果的なのだ。
「これで上手くいくだろ!」
そう言いながら、人目の無い場所で脅迫に使った他人の携帯を窓から投げ捨てる青。連絡した携帯を処分することで、位置情報を解析されてもある程度の時間稼ぎはできるようにした。
「二時間、上手く耐えることができれば、ね」
仁は運転手と乗客に協力を仰いだ。無論、協力とは名ばかりの脅迫である。
不審な行動を取り、第三者にバスジャックの情報を与えないこと。携帯などの電子機器を弄らないこと。この二つを約束させた。
それ以降は静かだった。
約一時間経過。緊張の間は続く。
青だと危なっかしいと判断した仁は、青が座っていた左最前列の席に座り、運転手を監視。青はバスのちょうど真ん中あたりのシルバーシートに腰かけ、その席が横向きに設置されていることを利用し、周りの乗客を監視している。
青は拳銃を持っている。それをどんな位置の人間にも、即座に使える位置にいれば、乗客を牽制できる。最も警戒しなければならないのは運転手だが、緊急通報システムなどを看破した仁には、どれほど自然な行動で手を打とうとしても、それを見抜かれるのではないかというイメージを、運転手に刻みつけた為、仁が監視するというだけでプレッシャーを与えることができる。
そういった理屈から、青には監視する要点を伝え、役割を分担していた。
パトカーも警官も一度も現れてない。幸いにも、新たに乗り込んでくる乗客もいなかった。しかし、この状況が何時まで続くか。
「なあ、教師さん」
どうやら完全に信頼したらしく、仁を協力者だと認めてくれたようだ。
仁は監視しながら欠伸混じりの呑気な声で返事をする。
「はーい何ですかー?」
「他にやることは無いのか? もっと効果を上げる方法とか……」
欲張りだなと、仁は思った。だが方法は知らない訳でもない。
「無いことはないです」
「おお! どんな?」
青は仁の方へと向く。ふぅと息を吐くサラリーマンがいたので、仁が軽く顔を見るとすぐに頭を伏せてしまった。
だがそんな事はどうでもいい。
仁は監視を中止すると、細めの通路をローファーでかんかん足音を鳴らしながら青の元へ向かう。
青は楽しげな顔で先程の言葉の続きを待っている。仁はにこっと微笑んだ後、ゆっくりと言った。
「殺すんですよ」
辺りに静寂という時間が現れる。
バスは動いている筈だが、エンジン音も外の車の音も聞こえなくなってしまったように皆動かない。
バスが赤信号で止まる。
仁は窓の外を見てみる。
他の車は男性が一人欠伸したり、家族で談笑したりする姿が見えた。
こちらは重苦しい空気が場を膠着させていて、生きるか死ぬかの瀬戸際でもある。
そんな全く違う雰囲気を持つ者同士が、今まさに同じ時間にいるのかも、少し疑わしかった。
青はただ唖然と仁を見つめている。そして今にも消えそうな声で訊く。
「……殺すって……」
「そのままの意味ですよ。この中の乗客、誰でも良いので一人殺すんです。そうすれば犯人は本気だと相手は信じて、これ以上犠牲を出さない為にすぐにでも用意しますよ。無論、情は入りません。さっきも言った通り、誰でも構いません。あのお婆さんでも良いし、あのサラリーマンでも良いし、あの赤ん坊でも良いし……」
指を差された人はびくっと身体を震わせる。
差されなかった人もかたかた小刻みに震えている。
皆、死に恐怖していた。大体予想していた事だ。
では、これに対する反応はどうだろう?
仁は右手をみぞおちに当てて、不敵な笑みを浮かべて言う。
「
青は目をこれでもかというほど開く。もちろん乗客達も驚く。まさか仁が自分自身を殺しても構わないと言うとは微塵も思わなかった。いや、思えなかったのだ。
「これだけ協力したんです。まさかタダ働きで済むと予想してます? もしかしたら僕があなたを裏切ってお金を一人占めするかもしれない。万が一あなたを裏切らず共に逃げたところで、あなたがたとえ捕まらなかったとしても、僕が捕まればあなたの事を告白するかもしれない。そんな懸念材料を残すのもどうかと思いますけど」
仁がしばらくそのまま無表情で青を見ていると、彼は両手で掴んだ拳銃をぶるぶる震わせながら仁に向ける。辺りから悲鳴が上がる。運転手はさすがに何もしない訳にもいかないと思ったのか、右手をゆっくりと動かしているのを見て、仁は駄目ですよと注意する。運転手は苦渋に満ちた顔でしばらくその手を硬直させ、やがてハンドルに戻す。
これで邪魔者はいない。後はこの分の良いわかりきった賭けに勝つだけ。
青は未だ拳銃を震わしている。それどころか引き金に指すら掛けてない。
「どうしたのさ? 必死なんでしょう? だったら引かなきゃ。犯罪を行うには、それ相応のリスクを覚悟しなきゃならない。覚悟は出来ているんでしょう?」
青は歯を食いしばる。ようやく引き金に指を掛けた。
仁は思った。後は引くだけだ。引くだけで銃口から発射される銃弾は、彼の向けている方向と距離から言って、心臓部までめり込み貫通するだろう。
しばらくの間どくどくと鼓動を繰り返すだろうが、次第にゆっくりとなって、最後に止まるだろう。大量の血で床を汚しながら。自分が死んだ後が脳裏に浮かぶ。泣き叫ぶ乗客達。焦る運転手。人を殺した事に狂気の声を上げる青。
なんて滑稽な展開だろうか。
当たり前すぎてわかりやすい状況だ。
だが、それでもいい。
万が一此処で自分が命を落としたとしても、それはそれで構わない。
計画は実行に移されるだけ。死期が早まるか否かの違いだけだ。
むしろ此処で撃たれれば、早くこの悪夢から覚めることができる。
ならば、この呆れる程自業自得な死も、それほど悪いものとは思えない。
結局、賭けが悪い方に傾いても、緋槻仁はなにも問題はなかった。
(分のいい賭けと思ったら、悪い賭けだったかもな)
自分の生死に関わることでも、極めて仁は冷静だった。
そうした自分勝手な賭けの結末を、ただただ無感情に待ち続けた。
結論から言えば緋槻仁の賭けは、勝って、そして負けた。
青は拳銃を下げてしまった。仁は訊く。
「どうしたんです? 早く撃たないと……」
「できない…………そんな覚悟は、無い……」
「は?」
「最初から、無理だったんだ。俺は……。殺せる、人間、になんて……なれな、かったんだ……!」
青は膝をついてしまった。うなだれて顔が見えないが、ひっひっとしゃっくりのような声を上げていることから、恐らく泣いているのだろう。
仁は呆れて溜め息を吐きながら膝を折ってしゃがむ。そして仁はこう告げた。
「残念ながらと言うべきか、やはりと言うべきか、あなたは犯罪者には向いてないようです」
青は顔を上げる。予想通り泣いていた。
仁は青を見下ろしていた。元々拳銃を向けて手を震わしていたのだから、予想できたというよりは、こうなることはわかりきっていた。
彼は誰も殺せない。
それを念頭に入れた策略であった。
仁は初めから青に協力する気はなく、冷静さを無くした犯罪者の行動パターンを知りたかっただけだった。
だが、青が面白いほど自分に傾倒し始めた為に、提案すれば自身を殺すという手段も躊躇いながらも実行してくれるのではないかと考えた為に、ある程度泳がせた後に確保するという本来の計画の流れを変更したのだ。
仁は少し申し訳なく思った。
とてつもなく酷い言い草で自分勝手な理論だが、ヘタレで情けない姿を見せる青が、自分の勝手な計画に付き合わせたせいでかわいそうになってしまったのだ。
とりあえず仁は彼に謝る事にした。
「すいません。僕の自分勝手な行動に付き合わせてしまって」
「…………」
「まあ誰も傷付けていませんし、殺人などは未遂で済んでいるのですが、犯罪は犯罪です。警察を呼ぼうと思いますが……さすがにそれ位のリスクは覚悟してましたよね?」
青は泣きながら頷く。抵抗する気はどうやらないようだ。
仁は拳銃を彼の手から優しく取り上げ、弾が撃てないように弾倉を抜いた所で、銃自体にも一発弾が入っている筈だと気付き、面倒だったが銃身を外して分解し、完全に撃てないようにした。
皆彼の分解に眼を丸くしていたようだが、仁は気にせず立ち上がって乗客達に言った。
「犯人はこれから自首しようと考えています。御迷惑をお掛けして申し訳なく思っている所存です。これから警察に連絡し、このバスに来てもらう予定です。その際事情聴取などをされると思いますが、何卒ご理解して頂きますよう、よろしくお願いします」
仁は一礼した。彼は皆が自分に対する批判でも言うだろうと思っていたが、どうやらいきなり丁寧に謝罪した事に対して戸惑いがあるようで、誰も何も言わなかった。
仁は、脂汗を何度も拭う運転手に向き直って訊く。
「東京都交通局に連絡したいんですが、無線を合わせて頂けませんか?」
運転手は無言で仁を睨みながら、片手を使って周波数を合わせ無線を取る。相手側の声が聞こえる。
『こちら東京交通局です。何かありましたか?』
運転手は何も喋らず、僕に無線を手渡した。僕は運転手の代わりに答える。
「こちら、先程バスジャックをされていたバスです。犯人の代理人として今話しています。今から犯人は自首しますので、警察を呼んで頂けますか? 乗客の皆さんは全員無事です。後の事は運転手さんからお聞き下さい」
僕はそう言って運転手に無線を返し、そのまま今まで座っていた席に戻る。
それと同時に乗客は大騒ぎを始めた。
生きている事の喜びを、助かったことの実感を噛み締め合っているのだろう。
こういう事は日常では味わえない。
じっくりと味わえよ。仁は心でそう呟いた。
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