三日目
「ねえ、会社に電話したいから少しの間だけ携帯を返してくれない? 連絡したらすぐにあなたに渡すから」
彼に足枷を取り付けられてから三日目。彼が用意してくれた朝食を食べながら、私はそう切り出した。今日からまた平日になるから、私も彼も仕事がある。
「駄目だ。返せない」
「今日は休ませてもらいますっていうだけだよ。あなたはまだ私を解放してはくれないでしょう? 無断欠勤なんてしたら怪しまれちゃうわ」
私は彼を説得しようとする。左足首に足枷は取り付けられたままだから、彼はきっと私をまだ解放してはくれない。それはつまり会社にも行けないことを意味している。無断欠勤なんてすれば彼に言った通り不審に思われるだろうし、それに私は仕事をクビにされてしまうかもしれない。別に仕事は好きではないけれど、そうなったら生活に困ることになるだろう。
「連絡しなくていい」
「でもあなたは私を会社に行かせてはくれないでしょう」
「……そうだね」
彼は顔を歪めながら認めた。
「なら行けないから休むって連絡しないと。不審に思われちゃうよ。ね」
私は彼を諭すようにゆっくりと、柔らかく言った。
「どんな理由があったとしても返せない。それに周りに不審に思われた方が君にとっては好都合なんじゃないのかい? こんな君を監禁するような狂った男とは早くおさらばしたいだろう! 早く自由になりたいだろう!!」
彼は声を荒げた。瞳が揺らいでいて、口をきつく結んだ彼は怒鳴ったくせにどこか苦しげな表情だった。
「……違う。だって私が一番傍にいたいのはあなただもの」
私はまっすぐ彼を見つめた。一点の曇りもない、私の本心だった。彼と一緒にいる時が一番落ち着いて、幸せだから。彼は最も愛する人で、現実が邪魔しないのなら私だって一時も離れたくない。
「嘘だ。本当は嫌だろう? 見損なっただろう? 僕の前からいなくなるんだろう!?」
「嘘じゃないわ。私はあなたのことを嫌だなんて思ってないし、見損なってもいない。あなたの傍にいるわ」
私は強くはっきりと主張した。
「……」
彼は私から視線を逸らし、サラダを食べ始めた。会話を打ち切り、食事を再開したのだ。
「……」
彼は私の方を見てくれなかった。朝食に目を落としたままだった。彼との間に見えない壁ができてしまったみたいだ。
私の言葉はきっと彼には届かなかったのだ。信用できない虚言としか、彼には感じられなかったに違いない。
「……携帯はもう返してくれなくてもいいよ。私はあなたが納得してくれるまで、ここに足枷で繋がれていてもいい。私はあなたを愛しているもの。だからあなたがわかってくれるまで待つわ」
「……」
彼は無言だった。でも箸を使う手が止まったから、話を聞いてくれていることは明らかだった。
私の言葉が少しでも彼に響いたのならばそれでいい。私はレモンティーを飲んだ。そして残りのメニューも口にし、平らげた。
「ごちそうさまでした」
私はお皿とコップを重ねて、両手を合わせた。そして座ったまま彼が食べ終えるのを待つ。彼にはまだトーストとかぼちゃスープが残っていた。
彼の方ばかりジッと見つめていたら急かしているかのようになってしまう。私はすることもなかったから、改めて今いるダイニングを見回してみた。
白い壁にフローリングの床。彼の後ろをちょっと歩いたところに見えるキッチン。後ろを振り向けば二、三メートル先にソファーが、そのさらに奥には、絨毯をはさんでテレビが置いてある。
私は左に目を遣った。そして視線を上へと向けた。
あれ?
私は違和感を覚えた。飾られているはずの掛け時計がないのだ。モノトーンだけど文字盤や針のデザインが洒落ている時計が見当たらないのだ。
「時計、外したの?」
私はちょうど食事を終えた彼に尋ねた。
「うん、まあね」
彼は肯定するだけだった。歯切れの悪い答え。あそこにあった掛け時計でしか時間を確認できないのに、どうしてわざわざ外したんだろう? 疑問に思ったけれど、彼に追及したところできっとこたえてはくれないだろう。
「そういえば時間は大丈夫? 今何時なのかわからないけれど、そろそろあなたは会社に行った方が良い時間じゃない?」
私は話題を変えるついでに気になったことを口にした。今日は平日。私は諦めるとしても彼は仕事に行かなければならないはずだ。
「会社にはもう行かない」
「それは駄目よ。そんなことしたら大変なことになるわ」
私は反論した。彼の社会的信用と地位が失われてしまう。それに彼まで仕事に行かなかったら、完全に周囲に不審に思われてしまうことになる。
「行かないものは行かない」
「私は逃げたりなんかしないよ。あなたが帰ってくるまで大人しく待っているわ。だからあなたはきちんと会社に行って」
「嫌だ。君がなんと言おうと行かないものは行かない」
彼は頑なに私の言葉を突っぱねた。
「離れたくないんだ。目を離した隙に君がいなくなってしまいそうで嫌なんだ。怖いんだ」
彼は席を立ち、私を抱き締めた。彼の身体の震えが直に伝わってきた。私は彼の背中に手を回した。彼の恐怖を少しでも和らげてあげたくて、私はギュッと抱き締め返した。
「私はここにいる。絶対にあなたの傍からいなくなったりなんかしないわ」
私は強く、精一杯の思いを込めてそう言った。背中に回した手で彼のシャツを握り絞めた。数秒間、時が止まったかのようにお互いのぬくもりを感じ合っていた。
彼が腕を緩めて身体を離した。だから私も同じように立ち直った。けれど、彼と私の視線は合わなかった。彼はすぐにしゃがみ込んだからだった。
彼は私の左足首に取り付けられた枷を外した。再び顔を上げながら立った彼の目を見て私はこの後の展開が予測できた。怯えと恐怖に染まり揺れる瞳。その中で確かに黒光りする情欲の色。
肩を痛いぐらい強く掴まれた。そのまま押され、彼の歩みと共に私も半強制的にどんどん後退させられた。肩を掴まれ方向を固定された状態で、私は後ろへ後ろへと足を踏み出すしかない。こうして彼に誘導されていった場所は寝室。
視界が反転する。私をベッドに倒し見下ろす彼と、その片隅に真っ白な天井が映った。
私の両手首をベッドに縫い付けるかのように押さえつける彼。私が腕を持ち上げようとしてもビクともしない。
「ねえ、そんなに押さえつけなくても私はあなたを拒否したり逃げ出そうだなんてしないわ。それにたまには私にも攻めさせてくれない?」
私は彼に声を掛ける。監禁されてから私は一方的に彼によって抱かれるばかりだった。彼が安らぐのならそれでもいい。だけど私だって彼に自分の存在を伝えたいし感じて欲しい。できるならどちらか一方じゃなくてお互いに触れ合いたいと私は思ってしまう。
「僕は君を無理矢理犯しているんだ! 君に足枷を付けて逃げられないようにしてさ。僕の自己中心的で身勝手な理由によって。嫌だろう? 憎いだろう? 嫌いになっただろう? 恨みなよ! 僕のこと嫌いだって言えよ! 君を失うのが怖くてこんなことしてしまうしかない男を嘲笑えよ! 蔑めよ!」
彼は怒鳴り散らした。けれど吐き捨てるような口調、掴まれた手首に伝わる震え、泣き出してしまいそうな表情から、私に対して怒っているんじゃないとわかる。彼はきっと自分自身を憎んでいるのだ。こんなことをしている自分のことを、心の底では嫌っているのだ。
「私はあなたのことが好きだよ。嫌いになんてならないし、なれないわ。あなたのことを愛している」
私は彼を真っ直ぐ見つめてはっきりと伝えた。自分のことを嫌悪している彼が悲しくて、そんな彼をさらに嫌うなんてことできるはずがない。彼が憎む程、彼はひどい人間なんかじゃない、ちゃんと好きだと思っている人が確かにいることを認識して欲しかった。なるべく彼が苦しんでいる姿を私は見たくない。
「ッ……!」
彼は一際顔を歪めると、噛み付くように私にキスをした。その間にブラウスのボタンに手を掛けられる。このまま嬌声のみの何の会話も無しで、今日もまた一日中、何度も何度も行為をすることになるのだろう。
私は彼に身を委ねた。
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