竜のみなし子

@ngotds

全話

 子供の頃から反抗的だった私が逃げこむ先は、いつも竜の祠だった。古い村の中央にある丘に掘られた洞穴が竜の寝座だった。祠に大人は入れない。そこは大人にとって聖域だったし、子どもにとってもまた別の意味で聖域だった。親に叱られまいと逃げこんだ私に、竜はことばを空に漂わしそして羽織らせ、優しく諭すのだった。洞の入り口から差し込む光が真白の鱗をキラキラと輝かせていて、それを見ると私は怒りが収まるのを為すがままにせざるを得なかった。そして竜は爪で私の髪を梳き、背中を擦り、親元へと返すのだった。これまではそうだった。多分、その前もそうだったのだろう。

 竜に食事を届けるのは子どもの仕事だ。竜が食べる量は驚くほど少ない。子どもが運べる程度の僅かな野菜と果物、そして肉。代わりに竜は村に加護を与えた。祖父の祖父のその祖父の頃からある石垣も無用となり破れに破れ、私達の絶好の遊び場になっていた。誰よりも石垣を飛び村を周るのが早いことが、私の密やかな自慢だった。男の子も私には敵わない。私に付いてこれるのは、飼い犬のルラだけだった。或る時、スイが石垣から落ちた。誰よりも鈍い男の子。そのことでスイの親はスイをひどく叱った。「崩れた石垣なんて危険でしょう。危ないことはやめなさい」と。私は笑った。石垣が朽ちているのは、安全だからなのだ。でもスイは「はい」としか言わなかった。ことばはそれしか知らないように、「はい」「はい」と打たれた犬の嗚咽のように、何度も吐き溢した。私は嘲笑った。うすのろ。家でママに刺繍でも習ってな。でもそれを私の親に見られたので、また竜の祠に逃げ込む羽目になった。竜の翼は決して羽ばたかない。ただ、私達を、私を包み込む。そして竜は、羽毛のような優しげな声を私の全身に吹きかけ諭すのだった。「他人を馬鹿にしてはいけません」だとか「親の言うことは聞いておやりなさい」だとか、でもそれじゃスイと一緒だ。私は嫌だ。「でも貴女が間違っていて、彼が正しいかもしれませんよ」と竜は言い、優しく目を細めた。納得は、鱗はこの時も綺麗だった、できなかったけど、私は感情が落ち着くがままにした。

 犬のルラが死んだ年、私は一六になった。子どもは一六になると、許嫁を決め竜の祠に入れなくなる。許嫁を決めるのは、竜の宣託だった。私が食事を、たぶん最期の食事を、運んだとき、竜はスイの名を告げた。村にいる男の子の数はたかが知れている。何かを期待していたわけじゃないけれど、誰よりも遅く、誰よりも鈍いスイ。今も石垣の外、畑の何処かで草をむしらされている。スイはそれしか出来ないまぬけなうすのろだ。スイが私の髪に、頬に、胸に指を這わせるのか。それものろのろと。私の全身が粟立った。いかな竜の詔といえど、このような話を受けることができるわけ無いではないか。私は家に帰り、父母にスイの名を告げられたこと、この結婚を受けぬことを伝えた。

 父母の怒りと失望は、相当のものだった。「御竜樣の御宣託になんてことを!」

 だが、従えぬのだ。

「スイは聞き分けのいい良い子ですよ」

 主人の後をついてまわるなど、犬畜生でもできるのだ。

「あなたとスイの子なら、丁度いい子になるでしょう」

 褥など共にできるものか。

「父さんと母さんも、御竜様の御宣託のとおり結婚して幸せになったんだ」

 だから何だというのだ。

「スイと結婚するのです」

 私は家を飛び出した。しかし、竜の祠に逃げ込むわけにも行かない。暗雲が垂れる中、ぶらぶらと石垣を歩いた。日が落ちる刻だったが、雲に遮られ、陽は見えなくなっていた。村の入口に差しかかり、雲がぐにゃりと歪んだ時、男たちが血相を変えながら畑から帰ってきた。「黒竜だ」「黒竜が出た」と口々に喚き立てた。そしてこうも言った。「まだ取り残されている奴がいる」。嵐になった。

 竜が村に加護を授けるなら、守らなければならない。私は竜の祠に駆けた。

「竜よ、黒竜が出た。多分、悪い竜だ。村の外にまだ残っているものがいるらしい。助けてやってくれ」

 既に外は暗く、洞の中に光は差さない。暗闇の中から声だけが響いた。

「災いなるぞ、災いなるぞ」

「今まで村の者は多くを貢いできた。さぁ力を示してくれないか」

「誰が災いを呼び寄せた」

「向こうが手前勝手に来やがったんだ」

「いいや、お前だよ、お前がスイとの結婚を断るから災いがもたらされたのだ」

 そんな、そんな道理があるものか。あってたまるものか。

「お前は幼少の時分より掟を破ることばかりしてきた。のう、そうであろう。この洞のことは誰よりも詳しいであろう」

「私はただ、」

「お前は、災いを運ぶ。いずれ村を、そして私を滅ぼすであろう。おお、可哀想なスイよ。今頃黒竜に喰われているであろうな」

 とんま、うすのろ、そんな・・・。

「去ね。村より去ね。それが村を生き残らす唯一の道ぞ」

 竜は私を、白い鱗は射し返す光を失っていた、難じ、私は、暗闇の中、ただ、竜の眼光が、人より、赤く、わからないことが、私を、鱗が、白い鱗が、多かった、見えない、だけ、私は、貫いたのだ。

 洞の入り口にやってきた大人どもが、口々に救いを貪り始めた。これまで、竜は村に加護を与えた。そして私は村を出る決心をした。これまで村は平和だった。外敵なく、災害なく、私達は幸福を享受した。そして黒竜がやってきた。竜は村に加護を与えた。私達は幸福だったのだろうか。嘲られ、罵られてきたスイは幸せだったのだろうか。好かぬ相手と結婚する羽目になったのは、私だけだったのだろうか。竜は村に加護を与えた。竜の道理が本当なら、私が村から去れば、黒竜もまた去るはずだ。私を詰り、謗り、唆し、脅し、村から出るよう仕向けたのは誰だ。黒竜が来た時に思い立ったのか。いや、実際のところ、これ以前から私は村を出るべきと考えていたのではないのだろうか。竜は村に加護を与えた。祠で、信仰を貪りながら。ただ、人々に語りかけながら。私は村を、出る。果たして竜は村に加護を与えるだろう。

 私は石垣に立った。村人たちは今も石垣の内側に住んでいる。外には、畑と森しかない。私は、森へと駆け込んだ。

 どれほど森を進んだか、私の目の前に黒い大きなものが横たわっていた。それはみるみるうちに屹立し、首を高く掲げた。

「人の子か」

 私は。

「安ずるが良い。一度に人を二人も喰らわぬ」

 地面に脚が二本転がっていた。その脚絆には見覚えがある。

「驚かせた詫びに一つ話を進ぜよう。我の祖父の祖父のその祖父の頃の話だ。竜共の間では長く語り継がれている。

 いつの頃、どこの話か。空を駆り、人を狩る竜がいた。ある時、竜は人の群れを見つけた。喰うに困らぬほど、多くの人がいた。そこで竜は先ず、武器を持つものを食った。そして竜に鑓を突き付け、弓を引く者は居なくなった。次に竜は、怨嗟の言葉を吐くものを喰った。そして竜を呪うものは居なくなった。次に竜は隠れるものを喰った。砦に、社に、家に、洞に、樹上に。そして竜が一度飛び立てば人々はみな頭を差し出すようになった。

 幾代を経ると、人々は竜に人を捧げるようになった。翔く必要が無くなった竜は、見る見る間に肥え、空を駆ることは叶わなくなったが、それでも人は、人を捧げ続けた。

 更に幾代も経た後、旱魃がやってきた。旱魃は幾年にも渡り、人々が食う者はみな枯れ、川という川は干上がった。人々は口にできるものは何でも争って口にした。樹の皮、草の根、壁の漆喰、そして屍肉。ただ、肥えた竜を除いて。

 そして人々はみな死に絶え、最早翔べぬ竜も、また、死んだ。

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