第203話 新たなる一匹の王
ズボンをめぐる追いかけっこは白熱の一途をたどっていた。強は全力で追いかけていきたいが、もはやズボンがあと一歩ではがれ落ちそうな為に若干の手加減を要している。
「ズボン……ズボン……ズボンだ」
しかし、ズボンが無ければ満足に東京へ帰れない少年の気迫は本気だった。
だが、ソレに対して、
「渡したくない……渡さない……」
黒服たちも本気だった。
――とっとと寄越せ。
――渡すものか、諦めろ。
お互いの視線が激しく火花を散らす。大人の意地と少年の意地がぶつかる。自警団のズボンが狩られるなど許されてはいけない。通常の装備と違い最新鋭の科学技術の結晶。
世に出るにはまだハイスペックすぎる代物。
「ズボンッ!!」
「アブねぇ! やらせるかッ!」
「チッ!?」
―ちっきしょ、間合いを詰められない!?
戦闘慣れしているために上手いこと距離をとってくる。逃げるだけに全力を注げばそれなりに時間を保てる。強のズボンが脱げて動けなくなるのが先か、黒服が捕まって捉えられるのが先か。
――これは、いったい何をやってるでござるのか……。
謎の光景に豪鬼は呆れていた。
無駄にお互い本気なのが居たたまれない。黒服たち大人がいいように子供に乱されている。櫻井が言っていた感染するバカの威力は絶大だった。遊びに本気になっている連中。
ため息をつく剣豪は気づいていなかった。
研究所でも同じ光景を見ている、感染するバカの光景を。
次から次へと不可解な涼宮強という存在にかき乱され誰もが口を閉じてぼおーと眺めていた。誰もが戦いは終わりを迎えていたと思っていた。
――ナントシテデモ、オウヲマモレ……。
残っているのがあとは死にかけの雑魚だと思い込んでいた。傷つき瀕死のマウスヘッダー達が洞穴を目指して徐々に動いていることも知らず、黒き灰が霧散してどこへ消えているかなども考えていなかった。
――オウノモトヘト、ツドエ……。
異界の王は倒されていると思っていた。
――あれ……何か変な音が混じって。
異変に気付いたのは一人の研究所の女性職員だった。ヘッドホンを当てている耳にノイズが入ってくる。ズボンと言いながら追いかける発狂した少年の声に何かが混じっている。
――故障……かな?
「どうしたんです……?」
「あっ、いや……ヘッドホンの調子がおかしいみたいで」
隣の男性職員が心配して声をかけるが故障と思い込んでいる為に苦笑いを見せる。
――なんだろう……なにか。
ノイズが鳴りやまない。一定のリズムで何かが雑音として混じる。
彼女に故障にしては不自然だと疑いが生まれる。
――変だ……気持ち悪い……音が。
微かに聞こえる。
ヘッドホンに手を当てて注意深く彼女は耳を澄ます。涼宮強と黒服が騒ぐ声の後ろにある音へと聴覚を集中する。機械が故障している音でない気持ち悪い音が聞こえてくる。
何度も何度も鳴り続ける音が奥にある。
「……っ」
嫌悪を表わすようにビクッとして体を震わせた。
「どうしたんです、大丈夫ですか?」
――なんだ……故障じゃないのか?
その姿に横の職員もただ事ではないと思い始める。横で見ていた彼女の表情がどこか真剣だった。嫌な音だけど聞かなければいけないと。彼女の耳が次第にその音を捉え始める。
【――チャ――チャ――チャ】
鼓膜に絡みつくような不快な音が聞こえてくる。耳元からすぐにでも遠ざけたいほど不愉快な感じだった。自然界にごく一般的に存在する音だが、耳元で聞きたくなどない。
――なにを……してるの……っっ。
「
彼女の表情が段々と音に引きずられ青ざめていく。横で心配して声をかけてくる職員の声は彼女の耳には届かない。その音が気になって気になってしょうがなかった。嫌な予感がした。
【――チャ――チャ――ヌチャ】
「あ……あぁ……いやっっ」
「狛田さん……狛田さん!」
彼女の様子にヘッドホンを慌てて横から外す。何かが彼女の耳に聞こえていたのだということは分かる。自分の手に持ったヘッドホンから。何か嫌な予感がしつつも彼女の反応を確かめるべく、
――なにが……
自分の耳にヘッドホンを近づけていった。
【――チャ――チャ――グ――チャ】
彼女の聞いてた音が聞こえる。彼女は恐る恐る男性職員の反応を窺う。聞き間違いではなかったのかと。それでも、確かに聞こえていた。その真実を確かめるように彼の変わっていく顔色を見ていた。
――口を動かしている……
【――ヌチャ――グチャ――ガゥゥッ】
「なんだ……これ……っっ」
口を動かして肉に喰らいついている音がする。何度も何度も動かして食べている。舌をすするような音が聞こえてくる。腹をすかしているのか何度も何度も喰いついている。
聞き間違いではないと二人は目を合わせる。
二人は慌てて研究所内を走り出す。
「ん……??」
そして、涼宮強も異変に気付き杉崎莉緒の方を向いて立ち止まる。
――まさか……少年……
――何の音だ……??
聴力がいいからこそ何かが聞こえた。本能的に貪るような食事の音。耳障りが悪い咀嚼の音。視界には見えないところで何かが動いている気配。涼宮強は音のする方をじっと睨みつける。
――アソコから……聞こえてくる……。
――私のズボンを狙ってる!?
――強殿の動きが……どうしたんだ……。
「
「なんだ……」
ヘッドホンを持った二人が研究所のトップである不死川の元へとたどり着きヘッドホンを渡す。涼宮強のせいでやる気を失くしていた不死川が仕方ないとソレを耳に当てる。
【ガグゥル――グッチチャッ――ハゥルグチャ】
まだ戦いが終わってなどいないと次第に気づき始める。
何の音だと強と不死川の意識がシンクロする。
とても小さく聞き取りづらくもあるが段々と音が大きくなっている。
大きなものを小さなものが食べている音がする。
だが、次第にお互いの大きさが重なっていくようにも聞こえる。
「不死川教授!?」
慌ててモニターの近くに走っていく不死川の姿。全員に広がる嫌な予感。いくつもの口が動いている音がする。仲間を喰うことを見ていたが故にまだ終わってなどいない予感が警鐘を鳴らす。
――異界の王は……生きている。
不死川がその正体に気づく。何が本体であったのかを悟る。
いくつもの生命体を見てきた、観察してきた。
――じゃあ……さっきまで戦っていたのは……
その大原則に乗っ取るので、あれば考えることはひとつだった。
――王ではないのか……。
大半の生物にはある種定められる定義がある、人間も然りだ。
――いや……チガウ……王ではあるが……。
二つの個体に分けられる。
――
「アレが
ソレをわけることの意味はただ一つ。オスとメスを分ける理由は、
「……
生物体の繁殖方法を明確にするためである。
「どうされたでござる、強殿」
「……なあ、おっさん」
豪鬼がかけ寄ってきたがどうにも穴の中が気になる。強も不死川同様に気づき始める。先ほどまでの相手が終わりではないことに。何かが大きく膨らんでいっている。
「なんか――」
さっきの配置を思い出しても不自然だった。瀕死のマウスヘッダー達の姿が消えている。異変に気付くと段々とその様相は顕著になっていく。
「めちゃくちゃ臭くねぇか……」
聴力だけでなく、視覚でも、嗅覚でも異変が感じ取れる。豪鬼と杉崎は匂いというモノがこの戦いで何を意味していたのかを一瞬で悟る。
ソレが魔物たちの特徴だった。
穴の中から漂う刺激臭、おまけに咀嚼する音が段々と大きくなって、
場を支配していく。
先ほどまでのふざけていた空気が一変して張り詰める。何かがうごめている。新しい何かが誕生している予感がする。先ほどまでの匂いの比ではない。微かに匂うのではなく、漂っているのだから。
異形であるが故に気づくのが遅れていた。
「蟻のような生態系……」
女王アリと似ている生体。ただ一つの異形である。誰よりも大きく子供を産むためだけに特化した巨体。唯一眼球が備わっていた。特殊であるという事を分かりながらも、解析が遅れていた。
そして、身籠っていたからこその母体。
「ハサミムシと同じ……習性」
生まれてくる我が子に全てを捧げるが如く、喰われていく母体。
異界の王はずっと守られていた、母の躰に。
ソレを喰らい新たな王が誕生する間際の出来事。
「バグゥルッッ――ガヤッチャ――バゥッギャァウ!!」
喰えば喰うほどに巨大化していく。全ての同胞を喰らいつくし受肉をしていく。圧倒的な速度で仲間の命をエネルギーへと変えていく。ソレに伴い漏れ出す腐臭。穴の淵にマウスヘッダーの手がかかる。
来ると本能で黒服含め誰もが身構えた。
「ガゥッ、ガッゥ――」
汚く咀嚼する音は消えずに近づいてくる。地上に姿を見せ、
――喰ってやがる……。
まだ食事を完全に終えていないさまを見せつける。母の肉体の三分の一を残して、見せつけてくる。いくつもの口で噛みつき肉を剝がしていく。
焼けこげた母の肉を、眼球を喰らっていく。
段々と体が膨れ上がっていくさまを見せつける。
そして、眼球を喰い終わった時に、
魔物の肉体に異変が起きる。
「さらに……」
不死川とて初めて見る光景だった。
「
女王にだけ許されていた眼球が新たな個体へと継承される。
全ての同胞を飲み込み、
「ゲェエエエエエエエエエエエエ――」
全ての同族が殺された恨みを嘆くように、
「ゲェエエエエエエエエエエエエ――」
母を失った我が子が泣きじゃくるように、
終わらぬ雄叫びだけを上げ続ける。
「ゲェエエエエエエエエエエエエ――」
――コノ
新たなる異界の王は一つ目で涙を流し、月に無数の口で吠える。
――
「ゲェエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエ――!!」
≪続く≫
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