【2005年】 櫻井京子の闘い —決められた終焉—

第301話 その名には母の願いが込められている

京子きょうこさん……無茶しすぎだよ」

「もう……だめ……」


 目の下にクマを作りヘロヘロになっている妻に夫は肩をかして運んでいく。そこは東京にある庭付きの一軒家。傍から見れば裕福に見えるであろう家庭。それもそのはずだった。


 この家は夫婦そろって大学教授である。


 夫は文系であり、妻は理系を得意としている。


「しばらく、横になって休んで」


 夫は優しく妻をソファーへ横にしてクッションを枕代わりにいれてあげる。


「今日の夜の七時には研究室に戻らなきゃ……」


 夫は時計に目をやる。まだ朝の七時。ここから眠れば最大で十一時間程度の睡眠が確保できる。それでも大丈夫かと心配は尽きない。妻はもう三日近く研究所に缶詰状態で過ごしていた。


 だから、夫は妻を心配して休みを促す。


「そんなに焦らなくても数式は逃げたりしないだろう……」

「時間がないの……だけは早く解かなきゃ……いけないの」


 妻は目を腕で隠しながらも弱弱しい声で意思を告げる。その言葉には疲れと合わせて焦りが滲んでいる。彼女の色素のうすい茶色の長い髪は強さというより儚さを思わせる。


「わかった……時間に間に合うように僕が車で送っていくから」

「ありがとう……恭一郎きょういちろうさん」


 妻はそういうと安心したのかすぐに静かな寝息を立てた。夫である恭一郎は仕方なく彼女の上にタオルケットを掛ける。そのときにリビングの扉から小さい男の子がこちらを覗いているのに気づいた。茶髪の幼子が疲れ切った母を心配そうにコッチをみている。


「お母さんは疲れているから静かにしてるんだよ」

「うん……」

「ハジメはいい子だから、出来るよな?」

「うん」


 それは櫻井京子と櫻井恭一郎の息子である、櫻井はじめ。父親は静かに玄関へと向かっていくのを少年は追っていった。玄関前に着くと父がいなくなるのが寂しいのかどこかTシャツの裾を掴んでモジモジしている。


「お父さん、仕事?」

「仕事ではないけど……ちょっと大学に行ってお母さんの休みを少し伸ばせないかって聞いてくるよ」


 母の休みが伸びると聞き、櫻井はじめはにこやかな笑顔を浮かべる。しばらくぶりの母の姿を見ただけでは満足できない。一緒に遊んだりしたいという想いが溢れた。


 恭一郎の大きな手が櫻井はじめの頭を包み込むように乗った。


「じゃあ、お父さん行ってくるからな」

「うん♪」


 そうして、父を見送り櫻井はじめは遊び部屋へと戻っていった。


 言いつけ通りに母の休息を邪魔しない様に。






「うぅ…ん…ん……」


 母親はソファーで息苦しそうにうなされていた。ずっと向き合ってきた数式が夢の中にまで現れる。いくつもの数学記号とアルファベットの羅列。無限に続く配列の様にならぶ虚数の群れ。


「んっっぷ…」


 夢の中で数式が腹の上に乗って自分を苦しめる。悪夢のように感じる。数式が自分の腹の上でぴょんぴょん飛び跳ねて腹部を叩くようにしている。苦しさに顔が歪む。耳から謎の音が聞こえる。


「クソ――クソ――クソ――」


 櫻井京子の瞼が少しずつ開いていく。そして、腹は夢と同じように叩かれていた。小さな拳を何度も叩きつけて悔しそうにしている子供がいる。父親との約束、母親を静かに休ませる協定はすぐに破られていた。


「クソゲー、クソゲー、クソゲー、クソゲー!」

「はーくん……どうしたの?」

 

 疲れた体にこれでもかと無邪気な子供の攻撃が母に加えられる。泣いている子に母は疲れながらも頑張って問いかけている。母のフラフラとする視界などお構いなしに子供は元気だった。


「超クソゲーッ!!」

「なにが……?」


 どこかおっとりした口調で母が聞くが子供はちゃんと答えない。母のお腹に甘えるように顔をこすり付けて「むーん」と唸っている。櫻井京子はそんな息子の頭を撫でながら時計を見た。十二時になろうとしていた。


「はーくん、十二時だからご飯にしよっか」

「うぅーん!」


 だが、泣いていて会話にはならない。自分の洋服に涙をこすり付け顔を左右に振っている。それでも子供に慣れている母はただ静かに子へと語り掛ける。


「オムライスでいい?」

「ん!」


 左右に振っていたはずの顔が縦に動いたのに母は微笑む。泣きながらもちゃんと話は聞いてる姿に愛情が溢れる。三日ぶりの我が子との再会。どこかそれを楽しむように櫻井京子は疲れながらも台所へと向かった。


 そして、二人分の食事を並べて向かい合って二人は座る。その時には櫻井はじめはもう泣き止んでいた。オムライスをスプーンで掬いながらしかめっ面を浮かべている。


「はーくん、何がクソゲーなの?」


 母はゆっくりとした口調で我が子に問いかける。


「お父さんのファミコンゲームがクソゲーだった!」


 スポーンを片手にブンブンと振って怒りを露わにする我が子。京子は静かに微笑みながら子供との会話を楽しむように続ける。


「そんなに難しかったの?」

「ムズイとかじゃない! あそこまで行くとキタナイ!!」

「何がそんなにキタナイの?」


 母は息子が出す言葉にどうしてと繰り返す。子供が何を考えているのか楽しみにするように。息子はそんなことも分からずに言いたいことを感情のままに出す。


「だって説明書も無いし、いきなり死ぬし、コンテニューないし!!」

「そうなんだー」


 感情をむき出しにして怒る我が子をニヤニヤと京子は観察するように見ていた。自分の血を分けた分身がそこにいる。同じような茶色の髪。子供のクリっとした瞳。その何もかもが愛おしく思える。


「あんなの絶対無理っ……だし……」


 子供の目に涙が浮かぶ。


「はーくん、泣き虫さんだ♪」

「ちがうし……クソゲーだから……っ」


 幼いころはとても泣き虫だった。何かあるとすぐに泣いてしまう子だった。だから泣くのが当たり前だと櫻井京子は思って眺める。悔しくて泣きたいんだろうなと子を理解して、母は優しく我が子に問いかける。


「はーくんは、無理だから諦めちゃうの?」

「……」


 母の言葉に泣くのを我慢して唇を尖らす。いじわるな言葉だと感じた。無理だと言っているのに諦めるのがダメというように母は優しく笑って自分を見ている。


「お母さんは頑張るはーくんが見たいな♪」

「……」


 母の期待に子は下を向く。父から貰ったファミコンは予想以上に難しかった。何度か挑戦したがすぐに死んでの繰り返し。それでも母に言われたのであれば頑張りたいがカッコ悪い姿を見せるかもと不安で下を向いた。


「お母さん、はーくんの今の気持ちわかるよ」

「えっ……」


 母は自分の体験を子に語る。それは自分も経験したことだと。


「お母さんも難しい計算とかあるとダメだーってなる時あるもん」

「そうなの……?」

「そうだよ。途中までやったけど間違ってて無理だーってなるよ」

「そういう時にお母さんはどうするの?」

「また頑張るの、何度も何度も挑戦して頑張るの!」


 京子はちょっと大げさにジェスチャーをつけながら我が子を勇気づける。


「それで頑張って解けた時、答えがちゃんと出せた時に、わぁーってなるの!」

「わぁーってなるの……??」

「そう、わぁーって!!」


 大げさに喜んで見せて達成感を伝える。いつのまにか少年の顔から泣きそうな雰囲気がなくなっていた。それを察した母は最期に息子に伝える。


「お母さんは、はーくんにそうなって欲しいと思って名前をつけたんだよ」

「僕の名前?」

「そう、名前には必ず親の願いが込められてるの。はーくんのハジメって名前にも」

「お母さんは僕にどうなって欲しいの!?」


 子供は大好きな母に興味を示して椅子に膝をついて身を乗り出した。子供の行動に母は微笑みながら彼が生まれた日を思い出し語る。そこに込められた意味を。


「計算でもなんでも、途中で間違っちゃうことはあってもね」

「うん!」

「また最初から、またイチからって、何度も頑張れる子になって欲しい」

「??」


 首を傾げる子の頭に手を乗せて母は頭を優しく撫でて言葉に願いを託す。


「またからって、そうやって、何度間違えてもいいから何度も挑戦して、」


 櫻井はじめが生まれて日に世界はゼロとイチを超えた。それは金色の魔物が確認されて日であり始まりの英雄が確認された日。その子は年が明けた新しい時代の始まりの日に生まれた。


 世界が改変され間違った方向に進みつつある世界に――


 だからこそ、母親は変わりゆく世界でも、どうなるか分からない先の見えない世界でも、真っすぐに育って欲しいと願った。


「お母さんは、はーくんにいつか正しいゴールにちゃんと辿り着ける子になって欲しい」

「…………」


 母親の言葉の意味が理解できていないのか息子は頭を悩ませる。撫でられながらも自分で頭を動かして考える様に左右にグルグル回している。それを前に母は苦笑いを浮かべる。


「はーくんには……まだわかりづらかったかな……」

「頑張る子になるってこと?」

「まぁ……そうだね♪」


 それは正解とは呼べないがおまけの及第点。母親は食器を片付けて子供に近寄っていった。疲れはある。睡眠は足りていない。夜七時には仕事に行かなければならない。


「はーくん、お母さんも手伝うから一緒にやろうか!」

「ん、なにを?」


 それでも可愛い我が子と過ごしたいと思ってしまった。母は嬉しそうな声で息子に遊ぼうと声をかける。


「ファミコン!」



《つづく》

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