第291話 僕の命に意味を頂戴
櫻井の前に神はその小さな姿を露わにした。
【まったく……君ってヤツはほっておくと限りなく無茶をする奴だ。自分の命まで媒介にしようとするなんて、無茶が過ぎるッ!】
その声はどこか怒っていた。少年とずっと一緒に居たから分かっている。その男は限界を無視して突っ走る。周りを見ずに愚直に進んでいく様は手に負えない。
「なんで……シキが?」
自分を闇から庇うように浮かぶ姿に櫻井は気の抜けた声を返した。
【僕はずっと君の傍にいたんだ。途中の山で君が気を失った時も、自殺するように自爆した時も、君のポケットの中にいたんだ】
「えっ……」
思い出される記憶。いつも何かを感じていた。ダメだと思う時にそれは自分を叩き起こしてくれた。ポケットの中にずっと違和感があった。
【本当に君が無茶ばかりするから、君から貰った力のほとんどを使い果たしちゃったよ】
「俺の力……?」
櫻井は何が起きてるのかが理解できていなかった。シキがお守りの中にいたことも。シキが試験中ずっと助けていくれたことも。崖で気を失ったときに力を与えてくれたことも、自爆して死にかけた時に守ってくれたことも、知らないからこそ神の言葉の意味が分からない。
そして、式神には『感情』はないと聞いていた。
それがまるで人格があるかのように紙は喋っている。
【君の力は目覚めつつあった。君は条件をすでに満たしていた。君が生きようと決めた時から、君の呪力は零れだしていたんだ。それを一番近くにいたボクは貰って溜め込んでおいたんだよ。君にもしものことがあった時の為に】
何が起きたかも分からないままの少年に神は真実を語った。いつも一緒に居たからこそ、その小さな力の波動を受け取って蓄積していた。最初は銀翔の呪力だけで動いてたシキだったが、途中からは櫻井の呪力が混ざりつつあった。
【けど、それももうすぐ使い果たす……だから最後に教えておくよ】
闇の力を受けている小さな体から出る光は徐々に弱くなっている。その中の光の一つが櫻井の額に当たって消えた。それは神からの贈り物だった。
【それが陰陽術という力の使い方の初歩だ】
脳内に流れ込んできた術の使い方。それに櫻井の顔が歪んだ。理解してしまったが故にこれから自分が何をしてしまうのかが分かってしまったから。
「シキ……!」
【迷ってる時間はないぞ! 僕の力が尽きれば二人とも死ぬッ!】
「……ッ!」
【迷うな、進めッ! 君は僕に言ったじゃないか!】
迷う櫻井の心を見透かすように式神は声を張り上げる。力の使い方は教えた。この闇を抑えられる時間も長くはない。櫻井の力になれるのもここまでだと。
それにシキは櫻井に幻想を見せたのだ。
シキが櫻井に幸せになって欲しいと願った未来を。それを櫻井は否定したはずだ。ならば、その自分にぶつけた想いを嘘にするなと神は叱咤する。
【君が望んだ、君の道を行くために、ボクに誓いを捧げろッ!】
—―それでもこの技を使ったら……ッ。
櫻井は神の声に涙を浮かべて歯を食いしばった。この術の先にある絶望が分かってしまったから躊躇わずにはいられない。それは別れを意味するのだから。
【ここまで来たのに……君は全て無駄にする気か……】
そんな櫻井の姿に神は悲しい声を出した。ずっと見てきたから分かっている。ここで櫻井が躊躇ってしまうことは。どこまでも狂っている癖に愚かな姿に悲痛を感じる。
【君は自分の命は簡単に投げ捨てるように賭けるくせに……ボクの命を一緒に賭けることを躊躇う。本当に君は甘い……救えないやつだ】
シキの言う通りだった。何かを失うことに憶病になっている弱さ。そして、そうしなければ抗えない自分の弱さが悔しくて、自分の力の無さが悔しくて、頭を下げて唇を噛みしめた。
「……ッ」
そんな彼を神は愛おしく思った。それは藤代万理華が抱いた感情に近い。
『櫻井くんのそういうところを私は評価している』
どこまでも卑怯な振りをするのに、どこまでも汚い振りをするのに、
冷徹になりきれない櫻井はじめという人間の本質を。
どこまでも自分を傷つけてしまい、どこまでも自分を蔑んでしまう、
彼の姿に愛情を向けた。
【これは、君が求めた、君が決めた、君の願いだったはずだ】
シキが出すどこまでも優しい声に櫻井は顔を上げた。
【嘘にしたくないんだろ、叶えたいんだろ、進みたいんだろ】
それはどこまでも自分を思ってくれている優しい言葉。それが心を抉ってくる。櫻井は悲しい結末しか見たことがない。今回もそうなってしまうのだと。心はどこかでその結末を受け入られない葛藤がある
自分の進む道に救いなどないのだと。
【このままじゃ二人とも無駄死になっちゃう……】
闇を抑えられている時間は長くはない。だから神は櫻井を諭すように優しく言葉を贈る。それは別れの言葉。これで一緒に居ることはもうないのだから。
それでも神は少年に進んで欲しいと願った。
【そうならないように君の手でボクの命に意味を頂戴】
「シキ……」
それは神から少年への願いだった。
【ボクは君に生きて欲しいんだ】
【君の為だったらボクは命を使っても構いやしない】
シキはずっと傍でいつも助けてくれた。そして、いま絶望に負けそうな自分も助けてくれる。思えばずっとシキに頼り続けていた。恐怖に脅えないように、絶望に染まらないように、いつでも傍にいて自分を和ませてくれた。
頭では理解できている、シキの言うことが。
このままでは共倒れになってしまうこと。
神に誓う為に、友に願いを告げる為に、櫻井は口を動かし音を出す。こうなってしまったことが悲しくて、自分の間違った願いが導いた結末が許せなくて、心が痛んだから、その声は震えていた。
「
【
彼の言葉を追うように神はその意味を告げていく。
「
【君が生きる為に
その一文字一文字に意味を込めるように神は少年に教えていく。そして少年は唱えていく。それが別れの言葉になると分かりながらも絶望を払う力を求めて。
「
【その闘う姿に皆が君の後ろに陣を成して列を成すだろう】
その少年の誓いは弱弱しく震えた情けない声だった。けど神はしっかり聞いていた。少年にそうなって欲しいと未来を夢見た。絶望と戦い続ける彼の後ろに多くの仲間が集うことを。
神は誓いを聞いた。
【だからこそ、】
そして、その先頭にあるのは――
「
【ただ君は前に在れ!】
櫻井という少年の未来の姿であるように。
九つの誓いは神に願いを託した。紙の体に呪力が注がれていく。闇が大きく引き裂かれていく。少年の呪力が言葉に込められたものを受け取った。
だが、そこで終わったわけではない。あくまで呪力を込めたに過ぎない。
神に力を渡したに過ぎない。
櫻井の足は大きく開かれ、刀を握るように拳が左側の腰へと溜められる。
「ッ……」
だが、その拳が前に出されない。分かっている。この拳は神を砕くための願いの拳になることを。だからこそ躊躇ってしまう。
——この手は命を奪うことしかできない……
その右手は幾度となく少年を絶望に落とした。その右手は絶望しか見せてこなかった。命を奪うことしかできなかった。
——この手は誰かを救うことも出来ないッ……。
幾重に勝利を重ねて生き残った右手が掴んだものは敗北だった。その勝利は少年が願ったものではなかった。誰かの命を奪ってまで得たいものではなかった。櫻井が掴まされてきたのは勝利という名の敗北だった。
【大丈夫、君は強くなった】
「えっ……」
その少年の心を見透かすように神は語る。ずっと傍で見てきたから知っている。少年が味わった絶望を。恐怖に脅える少年の姿。
【その足は絶望から立ち上がったじゃないか】
一度は生きることを諦めた足は立ち上がって見せた。
【その足はあの坂道を早く登れるようになったじゃないか】
「……」
ずっと一緒だった。神は少年が歩き始めた時から傍で見ていてくれた。絶望から立ち上がったばかりの足は、最初は満足に坂を上がることも出来なかった足だった。それでも少年は愚かにも何度も繰り返した。
そして、早く登れるようになった。
【その足はいろんな景色をボクに見せてくれたじゃないか】
そして、式神はずっと彼の胸ポケットに住んでいた。
【ボクは君のおかげで初めて海を見たんだ】
一緒に海まで行った。どこまでも遠くへ行けるようになった。
【だから、大丈夫】
それを知っている神だから彼にいう。
【君はもう一人でも歩いて行ける】
ずっと一緒にいたけど、強くなった君の傍に居られなくても、
君は一人で大丈夫だと。君は一人で生きていけると。
【さぁ、僕の命に意味を頂戴】
神は少年に願う。少年の願いの為に命を使ってくれと。
【ボクはその為に生まれてきたんだから】
神は自分が生まれた意味を少年に言った。
【君を絶望から――為に】
だからこそ少年の右手は力強く握られる。それは銀髪の陰陽師によって作り出された存在。それは銀翔の力で動いていた。そして銀翔から使命を与えられていた。
――さよなら……そして……
そして、いま少年の力で生かされている。だから少年は神に願いを込めて激しく拳を振るう。それが彼の望みであるならばと。それが彼の生まれてきた命の意味になるのならばと。
——今までありがとう、シキッ!
その命に意味を描くように。
振るわれた拳は神を砕いた。ガラスの破片のように金色の光が飛び散った。それは神の命の輝き。少年の涙は横に軌跡を描くが、その顔は決意を固めていた。涙はその横に流れたものだけだった。
「
命を告げようと絶望を切り裂くように大声を上げた。そして右腕を闇に向けて突き出し掲げた。それは生きると誓いを込めたものだった。
「
九つの文字で少年は神に誓った。何があろうと前に進むと。その力は今は弱くとも生きると決めた。だからいま目の前にある絶望を払ってくれと少年は力強く願う。
「
それは陰陽術の初歩。九つの字に誓い目の前にある厄災をはねのける為の
彼の前にある絶望を払う為に――。
神はその為に彼の元へと遣わされたのだから。
その神の受けた
それでも最後に神は願った。少年にはその声は届かなくとも。
【君の間違った願いの先がどうなるのかはわからない……それでも】
それでも神は心で願った。自分が見せた世界のような幸せが彼の先にあることを。彼が歩く道がどうか絶望だけのものでないことを。
【君がいつか誰かと心から笑える日が来るといいと願うよ】
櫻井という少年が誰かと笑い合える日が来るようにと。
【君のことを理解してくれる友達が出来たらいいと願うよ】
櫻井という歪んだ少年を理解してくれる人が周りにいてくれるようにと。
【本当の君の事を好きになってくれる子が現れるといいと願うよ】
だから神は最後に願うのだ。
【君が進む先にいつか、君が君でいられる場所があることをボクは願うよ】
自分の命を使って少年の行く先が希望で満ちていることを願ったのだ。
《つづく》
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