第274話 鼠にとって一番許せないもの

 その殺意を込め炎に照らされた冷酷な表情はどこまでも美しく見えた。だからこそ怖く思えた。その綺麗な造形で不釣り合いな体の傷跡が際立っていた。


 ——なんで俺はいま一歩後ろに下がった……?


 本能に近かった。本物の殺意に体が反応しただけだった。

 

 ——俺がビビったっていうのか……?


 だからこそ理解など出来てない。櫻井が放つノイズがなぜそんなに精神をかき乱すかも理解してないからこそ挑発に何度も引っかかる。日常的にそんなものを味わうことなどない。日常で人が人を殺そうとする本物の殺気に触れるなどないのだから。


 ——俺が臆したというのか……コイツに。


「——ッ!」


 弱者の気迫に負けた事実に悔しさで歯を食いしばる。強者であるが故に敗北など許されない。この反逆を許してはいけない。冷静に相手を見つめる。目の前に立つのはなんなのかと。


 ——取るに足らない弱者。コイツはマカダミアに入る素質もない落ちこぼれだ。


 弱者という認識が強者である黒崎を強くしていく。幾重にも排除してきた弱者と変わらないという認識が黒崎に自信を取り戻させる。


 黒崎嘉音くろさきかのんは実力者である。


 ——俺が受験生などに負けるはずなどない。


 学園で三人しか選ばれない対抗戦に選ばれたうちの一人だ。


 ——ましてや落験などという存在にッ!


 冷静さを取り戻した。わずかに震えを許していた体は恐怖することを止めた。だが果たしてそれでよかったのかは誰も分からない。恐怖は本能。それは生き残る為に必要な感覚だ。


 櫻井が無言で黒崎に向かって走り出した。


 黒い波動を纏った剣が振るわれる。弱者の意思を砕く強者の攻撃。


 だが飛ぶ斬撃の一撃目は回避された。


 それは綺麗な避け方ではなかった。転がるようにして身を低くして地に体を叩きつけた。それでも避けた。

 

 黒崎の剣が二撃の構えを取る。


 一撃目を転がり避けた体勢が整わぬ体で足を空回りさせながらも加速させる。血にまみれた体は薄汚い。脇腹の出血が着衣の色を変えている。それでも足掻くようにみっともなくも櫻井は前進していく。


 二撃目は櫻井の肩口を切りつけ鮮血を跳び散らす。


 肩の肉が抉り出された。微かに回避が間に合わなかった。五メートルで回避がやっとの攻撃。それにどこまでも接近していくために回避がとれない。それでも直進を止めることはない。直撃しなければ勢いが止まることはない。


 血を流そうとも構いましない。


 命は尽きていないと――。


 黒崎は三撃目の剣を構える。


 そこで違和感に囚われた。前から突っ込んでくる取るに足らぬ者。それでもその顔は苦痛に歪むこともない。痛みを消し去っているかのように。歯を噛みしめる仕草すらない。攻撃を受けても反応がない。


 こちらを無表情の冷徹な瞳が殺気をもって真っすぐ突っ込んでくる。黒崎の身が寒気に襲われ震えた。


 ——俺はいったい何と戦っている……


 弱者という感覚がそれを遮っていた。これは勇者と力なき勇者との戦いであると錯覚していた。整った顔で無表情を貫くそれは感情を捨てた器であり、人形に近かった。


 ——んだッ。


 だが、その人形は殺意だけは持っている。意思を持っている。だからこそ退けようと三撃目を振るう。鼠の突進を止めるように強大な爪が振り下ろされる。


「なっ、よけッ!」


 黒崎の顔が歪む。わずかな恐怖で遅れた攻撃を見透かす様にそれは黒い波動の隙間に体を這わせる。櫻井は視ていた。


 ——来ると思った。


 攻撃の瞬間だけではない。黒崎という男の本質を裸にするように。僅かな筋肉の硬直を、表情の歪みから取れる感情を、剣を握る手に入る力みを。一つとして情報を漏らさぬようにその眼は相手を見抜く。


 攻撃が来る気配を察知し、攻撃が振り下ろされる前に回避行動に入っていた。


 ——気持ちわるい……!


 黒崎の剣が慌てて次の攻撃の動作に移る。近づかれ過ぎた。もうすでに距離は二メートルとない。三本の爪を躱され懐に差し迫っている。目の前にいるのは何かを捉え切れていないからこそ焦りが生じる。

 

 相手にしているのは勇者ではない。それは英雄でもない。


 だが、櫻井の足は止まることを知らない。右手の拳を振るうために。


 ——走れ……止まるな……ただ前に。


 どこまでも感情を殺した冷酷な表情が黒崎に迫っていく。強者に対する恐怖を消している。恐怖は足を引っ張る感情だと知っている。躊躇することで足もとをすくわれる。生にすがる本能を削り取っている。


 黒崎の理解から外れている。常識ではかっていては捉えきれない。


 ——肉を切らせろ……骨を断たせろ。


 死んでもいいと思っている人間を相手にしている。自分の命を削る覚悟を持っている櫻井という男を見誤っている。他の受験生と同様のカテゴリーで捉えているから見えない。


 分からないからこそ人は恐怖する。


 ——来るなッ!


 懐に入った男の脳天目掛けて剣が振り下ろされた。それは肉を断ち骨に届いた。虎は鼠の進行を許した。自分の懐に鼠が入っている。それを遮るように攻撃を加えたはずなのに立ち止まっている。


「……」


 悲鳴の一つも上がらない。鼠は懐に飛び込む代償に片腕を差し出した。黒い剣が左腕の手首に食い込んでいる。わずかでも代償を少なくするために切れ味が落ちる剣の奥深くを押さえる様に骨を食い込ませている。


「なッ……!?」

 

 虎の顔が理解できぬ恐怖に歪む。代償を払うのが当たり前だという戦い方。何かを成すためには犠牲を払うのが当然だと思う様な行為。対価を払うから寄越せと男は切られた左腕に力を込める。


「クッ……!」


 黒い剣を挟み込んだ体。左腕を引かれると同時に引き寄せられて体制を崩す。急いで踏ん張るように反対の方向に力を入れ剣を抜き取る。切られた傷口から鮮血が上に舞い飛ぶ。


 ——左手をくれてやるから……寄越せよ。


 櫻井はその苦痛に止まることはない。右手の拳がほどかれ櫻井の獲物が顔を出す。体制を崩している黒崎の右側頭部を狙うように体を反転し獲物を動かす。


 ——テメェの鼓膜をッ!


 裏拳の様な体制から獲物を穴に通す様に狙う。黒崎の顔が驚きに歪む。耳の穴をねらう為に掌に隠れるマイナスドライバーを右手に隠し持っていた。それが鼓膜を突き刺す様に力強く振るわれる。


「お前……正気かッ!?」


 間一髪だった。黒い闇でヤツの右手を押さえるのがあとコンマ数秒遅れていたら貫かれていた。その事実が、それを平然とやれる男の行為が、狂気が精神を狂わせる。


 だからこそ睨むようにその男の眼に怒りをぶつけた。


「なんだ……その眼は」


 だが、その男の表情が変わることもなかった。左手首から血が流れ出ていても、肩とわき腹から出血していても、眼が殺意を込めて自分を見透かす。


 異常な瞳の恐怖に硬直する黒崎を前に櫻井は動き続ける。


「覚えとけ……これが」


 右手を闇に掴まれたところを支点に体を浮かせ、


「地獄を見てきた眼だ」


 脳天にお返しと言わんばかりに延髄蹴りを打ち込んだ。衝撃に黒崎の能力が弱まる。その瞬間を見逃さないと言わんばかりに櫻井は絡めとられていた右手を闇から引き抜く。強引な手段による回避行動に右手の皮膚が持っていかれた。


 そして、右腕の血を払いながら飛びのき距離を黒崎と少しだけ開けて立つ。黒崎の精神と表情がノイズに歪む。櫻井の表情は変わらない。何を考えているのかも分からない。


 ——右手は動く……左手も痛みで遅れるがまだ動く。


 機械の様に自分の手が動くかの確認をしているだけ。感情の波が大きく乱されていく。自分が前にしている鼠はどこかおかしいと。


「何を考えてる……お前」


 生存本能を置き去りしたような人形の戦い方。痛みに怯えず犠牲を厭わない異常な戦い方。命を軽んじた戦い方。だからこそ黒崎の感情が理解できないノイズに大きく歪む。


 見透かしたように櫻井は敢えて嗤う。


「俺が考えるのは」

 

 何も知らぬ黒崎の感情をもっと大きく乱す様に。


「シンプルにひとつだけだ」


 それは勇者の戦い方ではない。それは強き英雄の戦い方ではない。強者に怯える者の戦い方でもない。底辺にいる弱者の戦い方。


 虎を倒す鼠の戦い方でしかない。


「たったひとつだ」


 死ぬことを前提とした戦い方。傷つくことなど恐怖ではない。死ぬことすらも恐怖ではない。鼠は虎を前に覚悟など決めている。だからこそ強者である虎に理解などできない。


「テメェに勝つことだけだ」


 鼠にとって一番許せないのは――


 何もせずに、抗いもせずに、恐怖に負けて死ぬことだけなのだから。

 


《つづく》

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