第273話 苦痛も何も知らぬ強者の言葉など弱者にとっては耳障りでしかない

 血だまりが途切れている。赤い水たまりを最後にその男の気配はない。黒い剣士は自分の能力で作られた剣を構える。ここがヤツの限界。


「かくれんぼの時間は終わりだぜ……」


 能力を込めた剣は禍々しく黒い波動を波打つ。次にその姿を見た時に一瞬で勝負を決めるつもりだ。感覚を研ぎ澄ましヤツの気配を探す。風が吹きぬけ草木を揺らす。


 虎は鼠を恐れなどしない。自分の武器に自信があるからだ。


 その爪は鼠を引き裂くことが出来る。その牙は鼠を喰らうことが出来る。その圧倒的な力は鼠を潰すことが出来る。恐れるわけもない。恐怖を覚えるべきは狩られる側だ。絶対的な強者を前に小さく弱い存在こそが体を震わせて脅えるべきだと。


 ―—早く出て来いよ……さぁかかってこいよ……。


 その場で視線を動かし獲物を探す。


 ——ダメだ……頬が緩んじまう……堪えろ、堪えろ。


 その快楽にも似た感情が表情に出ないように取り繕う。


 愉悦だ。圧倒的な力で相手を潰すのは快感に近い。自分の力を証明する瞬間は麻薬にも等しい。自分が虎としての自覚を持てる瞬間は弱者を刈り取る時。取るに足らない存在など自分の力を証明する存在でしかない。


 鬱憤を晴らすための力の誇示だ。


 ——あの、お前の眼が気に食わなかったんだ……。


 弱者の反逆など許すわけもない。その鼠が自分に向けた殺意の輝きを忘れない。その色を消し去りたい。


 ——その眼を絶望に染めてやるから……。


 剣を握る手に力が入ってしまう。その爪と牙を振るう瞬間を待ち望んでいるから。身の程知らずな夢を見た代償を払わせてやりたい。櫻井の希望を見た眼を喰らいたい。


 ——早く、早く……出て来いよ。


 強者は緊張感などなく他者の夢を喰らう高揚を抱く。


「アッ!?」

 

 森に間抜けな声が響いた。それは鼠の声。何かに失敗したような動揺を表す発声。位置を知らせるように出された音。

 

「そこかぁああああああああ!」


 虎の研ぎ澄まされた感覚が捉える。声のする方向に数分の狂いものなく黒い波動の爪を叩きつける。樹々をへし折り荒々しくその声を出した対象を切り伏せる。その物体は真っ二つになり宙へと舞い上がった。


「またか……」

 

 その物体は鼠ではなかった。それは物体ではなく物質だった。携帯電話が二つに切られ宙を舞って落ちた。録音機能による誘導。樹に括り付けてタイマーを仕掛けていたもの。


 それに虎は動じることなどない。


 この程度のことを鼠はやってくると知っているから。


「だが、近くにいるな」


 携帯が出した音と反対方向で草木をかき分け走る様な音が聞こえる。必死に逃げているのか枝をへし折るようにして何かが動いている。力に怯えたような速度で逃走をはかる反応。

 

「逃げられると思うなよ」


 黒い剣士の視界が櫻井の影をとらえた。ヤツの衣服の一部が木々の隙間から覗いている。その逃げ去る背後に爪が尖れる。剣を構えて腰を落とした構え。黒い波動を放つ姿勢を整えた。その爪は背中を喰らう切り裂く刃となる。


「ちっ……これもダミーか」


 真っ二つに切れたことで黒崎には分かった。強度が足りない。この程度の斬撃一つで二つに分かれるなどという受験生はマカダミアにはいない。大木に自分の上着を着せロープで振り子のように動かしたものだった。


 だがその数刻が鼠にとっては重要だった。


「もう逃げねぇから安心しろよ、先輩」


 チリチリと燃えるような音が山に響ている。


「ノコノコと出てきて何のつもりだ?」


 黒崎の視界に鼠が姿を現した。

 

 その上着を脱いだ櫻井はライターを片手で軽快に回している。そのライターでつけられた火は瞬く間に広がり櫻井と黒崎を包み込むように炎の円を描いた。


「油でも巻いてたのか……」


 異様な燃え上がり方をしている。線でも引かれたかのようにラインに沿って燃焼が起きていた。まるでそこは決闘の場所と言わんばかりの舞台。火により行く手を遮っているリングが出来上がっている。


「乾燥した季節だからよく燃えますよね。上着が無くなって寒かったからストーブ代わりにちょうどいい。先輩は鎧来て熱そうだから脱いだ方がいいんじゃないんですか?」


 ヘラヘラとした態度は以前変わりなかった。それでも黒崎は返さなかった。櫻井の肌着一枚の姿に目を細めていたからだ。袖の短いシャツだからこそわかる。暗闇に火が灯り明かりがついたことでハッキリわかる。


 両腕に見るに堪えない傷跡が残っている。


「なんだ……あの傷は……」

 

 水晶玉で見ている武田も同様に眼を歪める。無数の傷跡。自傷行為の痕でもある。だがそれ以外にも櫻井の生きてきた世界を物語るように傷が残されている。


 それは鼠が過ごしてきた世界の一部でしかない。それでも無数の傷跡が悲惨な過去を写しだしている。その傷は剣術などの武でつけられたものではない。急所を狙ったものではない。


 それがわかるからこそ一人で華奢な体を震わせる。そして妹の裾を小さくつまんだ。あれは恐怖の痕だとわかるから。


「三葉……」

「かずねぇ……?」


 一葉にはあの傷痕がなんなのかが分かる。人が仕掛けた悪意によるもの。武器でもなくそれは悪意でしかない。人を嵌めるためのもの。傷跡が無数に広がるのは殺意だけの代物でしかない。相手を確実に殺すためではなく傷を負わせることを目的としたものだから。


 あれは罠による傷痕だと、罠に秀でた一葉だからわかる。


「イヤな予感がする……」

「かずねぇ?」

 

 そして、イヤな予感は続いている。水晶玉を見つめる心配そうな瞳が潤む。


 このタイミングで櫻井が姿を現したことが。その燃え盛る火が円を描くことが。それは準備されたもの。そこは鼠の住処。携帯もダミーの大木も罠の一部でしかない。


 乾燥した枯葉を巻こうともそんな綺麗に炎が円を描くことなどない。事前にガソリンや灯油などを巻いて置かなければそんなことにはならない。

 

 これは櫻井が用意した罠だ。だからこそ、一葉をイヤな予感が襲う。


「お前は一体何をしてきた……?」


 黒崎の傷跡に対する問いに櫻井は過去を思い出す。


 そしてヘラヘラとしていたその表情は感情を失った。


「地獄を見てきた」


 数え切れない絶望を見てきた。死にたいと思うほどの絶望を味わった。


「本当の絶望を見てきた……」


 だから殺意がその眼に宿り黒崎に向けられる。お前らとは違うと。


「だからこそ言わせてもらう」


 違いを知った。その境界線はどこまでも残酷に敷かれていることを知った。住んできた世界が違う。見てきた世界が違う。抗った絶望の質が違う。


 だからこそ、どこまでも冷徹で冷酷な表情を突き刺す。


「お前如きが俺の絶望になる?」


 『絶望』が何かと何も知らぬものが語ることが琴線に触れる。


「ッ……」


 明確に突き刺さる殺意が黒崎を一歩引かせた。鼠の眼に映る殺意に気迫が籠っている。虎は知らぬ、鼠が見てきた汚い地獄を。日の当たる大地に暮らす者には想像すらも出来ないだろう。


 日の光も届かず暗く、人の狂気が垂れ流しにされていた汚い世界など。


 苦痛も何も知らぬ強者の言葉など弱者にとっては耳障りでしかない。命を狙われたこともない命の危険を感じたことも無い虎という生まれつきの強者から、常に命の危険にさらされた来た弱く醜い存在の鼠へおくられる言葉など戯言だ。


 だからこそ、鼠は虎に見せつけるように命を賭けてきた眼を光らせる。


 ありったけの殺意を込めて


「——笑わせるな」


 櫻井という弱者は黒崎という強者を一蹴する。



《つづく》

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