第252話 正解はこっちだよねッ!
学力試験の教室に鉛筆の音と息遣いが響く。止まることなく黙々と手を動かしている。フラフラとして流血しながらもその意思は止まることはないと。それを試験官は心配そうに見つめていた。
高畑にとって櫻井を動かすものが何かは分からない。
その強固な意志はどこから来ているのか。瀕死の状態でそうまでして彼が得たいものとは何か。執念じみた何かが感じられる。それは名誉や栄誉を求めている人間の欲とは違う。
そうしなければならない何かに怯えるようにも見える。
一度止まってしまったら動けなくなるようなギリギリの危うさがある。
「あっ……」
堪らずに高畑の声が漏れた。目の前で数学を解いてる男の解答用紙に血が落ちた。それは彼の導き出した答えを邪魔するように色変えて櫻井の動きを止まらせた。
血がにじむ答案用紙が彼の道を否定するように打ち消している。
「すいません……新しい答案貰えますか」
「は……い」
櫻井は知っている。こんなものに意味はないと。学力試験などは合格の結果に結びつかないと。獣塚から聞いて知っている。それでも櫻井は手を抜かなかった。新しい答案に書き写していき、血で染まったところはまた一から解き直す。
血を垂らさないように何度もふき取りながら必死に取り組んでいる。
「……」
静かな教室で高畑は今にも問いかけたい想いを抑えていた。
——なぜそこまでするの……。
高畑だって知っている。この学力試験に意味はないと。
——なんでそこまで出来るの……。
櫻井の手は止まらない。一つ一つちゃんと考えながら答えを出して行く。選択式の問題でもすべての選択肢を消去法で消していき最後の一つを選択している。
その姿に高畑はかける言葉を飲み込むしかなかった。
『私が危ないと思ったら終わりにします。それでいいなら』
危ない状態だということも分かっている。だが止めることは出来ない。
——何が君をそこまでさせるの……。
見たことがなかった。こんな姿の人間を。どれだけの情熱を持ってしても誰もが立ち止まる。必ず限界は来る。それでも今の櫻井を見ているとそれすらも否定してしまいたくなる。
止まるはずがないと。この子は止まることができないのだと。
「ちょっといいかな」
だから見守ることしかできないと悟った高畑は席を立ちあがった。
「は……い?」
不思議そうに見上げる傷だらけの男の前でスカートのポケットから一枚のスカーフを取り出した。それを櫻井の頭に回していく。そしてハンカチで顔の優しく血をふき取った。
それで笑顔を向けた。
「また血で答案用紙を汚したらいけないからね」
櫻井はただ不思議そうに半分閉じている瞼の隙間から覗いている。頭に巻かれたスカーフが視界に入る血を防いでくれている。幾分か楽になったような気がする櫻井は静かに返した。
「ありがとうございます」
弱弱しく消えそうな声だった。だが一言一句聞き逃さなかった。
「どういたしまして」
ちゃんと言葉に返した。そしてエールを送る。無茶をする受験生に。
「あとちょっと頑張ろうか」
櫻井は静かに頷いて返してきた。そしてまた集中して試験に望んでいる。止まることの無い動きで着実に答案用紙を埋めていく。そのリズムはわずかに止まったり動いたりする。それは真剣に考えている証なのだろうと高畑は耳を澄ます。
次々と答案用紙を渡しながら、彼女は時計を気にしていた。
——彼は最後の受験生。
櫻井が終わればすべての学力試験が終わる。その時間は一番遅いの明白。だからこそ時間が気になってしょうがない。櫻井が問題を解くスピードは速い。それでも時は動いている。
着々と百枚の切符は配られ続けている。
——彼はどう見積もっても間に合わない。
マカダミアの受験にある問題。意味の無い受験というものになっている。彼の努力は無駄になる。これだけはどうにも出来ない。それは櫻井も分かっているはず。どんなに頑張ろうとも最終の滑り込みなど間に合う訳も無いと。
それでも高畑の前にいる受験生は諦めていない。
高畑の胸の内がざわついている。それはしょうがないことでしかない。それでも目の前で見せられたら何かを考えずにはいられない。実力主義の世界で起こる現実でしかない。
用意された残酷な結末でしかない。
——私は何もできない……。
いち教師などにそれを変える力などない。ましてや高畑はまだ若い。そんなことを言える立場になどない。この不条理をおとなしく受け入れるのが利口だともわかっている。
これは仕方のない結果として受け入れるほかない。
「次の問題をください……」
「はい」
だが、分かっていても認めずに、仕方ないとしても受け入れずに、抗い続けることは醜いことなのだろうか。愚かの事なのだろうか。叶わない願いに命を尽くすのはダメなことなのだろうか。
狂っている行為なのだろうか――。
櫻井の狂気の執念に高畑の常識が狂わされていく。バグのように侵食している。その残酷なまでに悲痛な姿を見せつけられて心を殺していることは正しいことなのか。
「お疲れさまでした、櫻井はじめくん。これで学力試験は終わりです」
全ての答案用紙を埋めた櫻井を前に高畑は教師としての立場を全うする。今にも泣き出しそうになるのを抑えて穏やかな表情を保ったまま最後の受験生を労う。櫻井は頭に手をあてた。
「これありがとうございました……すげぇ楽になりました」
櫻井はそれに頭につけてもらったスカーフを外して高畑に返す。そのスカーフは櫻井の血で染まって色を変えていた。そっとそれを受け取り手に握って高畑は話を続ける。
「勉強は好き?」
学力試験という意味の無い行為に本気で取り組んだ男に聞いてみた。
「嫌いでは……ないっすよ」
櫻井は疲弊した顔で答えた。それがどこまでも愚かな行為であろうとも。
「そう……」
高畑は上を見上げて涙をこらえた。この答案に価値などない。これはまるで意味を成さない。ここで彼が費やした時間は無駄だ。彼がここまで乗り越えてきた試験は無駄な時間だ。
これだけ傷つこうともそれは何の意味も無いものになる――。
「櫻井くんは受験をまだ続けるの?」
だからこそ聞かずにはいられなかった。瀕死になってまで受験を続けるその生徒に向けて。悲しい未来が待っているのがわかっているのに、どうして頑張ると問うように。
高畑の眼が潤んでいる。それに櫻井は自分のせいだと分かるからこめかみのあたりを掻いて返す。
「続けますよ」
言葉と声はどこか弱くともその意思は変わらない。
「終わらない限り」
瀕死であろうとも諦めることはない。それに意味がなくとも止まることはない。
「わかりました」
その想いを受け取り高畑は答案用紙を手に櫻井に別れを告げる。
「次の実力試験の時間を確認してくるから、櫻井君はここで休んでいて」
指示を出して教室を後にする。その場にいるのはこれ以上は無理だと悟った。今にも泣いてしまいそうだったから。その不条理に押しつぶされそうだったから。
彼女は教室から外れた廊下の隅で答案用紙を手に座り込んだ。
「……」
手に持った答案用紙。それは無価値なもの。分かっている。それでも彼の努力の跡が残っている。眼で追っていけば分かる。作ったのは自分だから。
「正解……」
こんなものは間違っている。だからこそ声が震えて涙が出てくる。
「正解……正解……正解」
一個一個の問題を見ていればわかる。丁寧に丹念に解かれている。涙が止まらなくなった。声が上手く出せなくなってきた。
「
その狂気の愚行は心を抉ってくる。嫌というほどに無駄な努力を見せてくる。それに言い知れぬ悔しさがこみ上げて来る。どうしてと問いたくなる。声を出すことが出来ずに震える口を必死に押えた。
「うぐっ――!」
嗚咽が漏れそうになり口にスカーフを押し当てた。言葉を出せなくなった。
——正解、正解、正解、正解、正解。
答案用紙に落ちていく涙が滲む。それでも丁寧に確認していく。
——正解、正解、正解、正解、正解……。
彼の努力をひとつも見落とさないように。
見届けるように。
にじむ瞳が左右に動き続け止まった。
——正解ッ……。
「………………」
全ての答案用紙に目を通して彼女は頭を壁につけた。その時には涙も震えも止まっていた。何が正解なのか分からない。櫻井はじめという受験生は間違っている。
こんな受験の仕方は間違っている。
「間違ってるよね……」
高畑は立ち上がり、
「正解は――」
そして泣き腫れた眼で廊下の先を見据えた。
「こっちだよね!」
彼女は心のままに走り出す。その行為は間違いだとしても正解に思えたから。
彼女の足はその解を求めて力強く動き出した。
《つづく》
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