第251話 その消えそうな灯が照らす先を誰もが見たいと願うから
櫻井が歩くたびに血が滴り落ちる。乾ききることはない。止まらないように流れ出す真っ赤な命の雫。それでも朱色はどこまでも紅く命の輝きを映し出している。
「……」
「……」
会話などない。獣塚の背中を狭くなる視界で捉えてただついていく。こんなところで終わることを認めないと。終わってたまるかと。意思だけで苦痛も絶望も抑え込んで重たい脚を引きずる。
「そのままやると死ぬぞ」
「……あ……ん?」
獣塚が後ろを振り返らずにかけた言葉。それに櫻井は眉を顰めた。忠告だと思う。その状態を続ければどうなるか分かっているのかと。血が止まらないことへの恐怖はないのかと。
だが、
「上等だ……俺を殺せるもんなら」
櫻井は嗤っていた。
「殺してみろよ……」
櫻井の挑発するような返し。獣塚の忠告は無視された。それでも彼女は苛立たない。もう怒る気がない。むしろそう来ると分かっていた節さえある。だからため息を窓に向けてひとつ付いた。
「お前はどうしてその状態で動ける」
獣塚の問いに答えは返ってこなかった。激しい息遣いだけが聞こえる。どういう覚悟をしてくればここまで出来るのかが分からない。何を目的としているのかも獣塚には分からない。
だからこそ、獣塚は櫻井がなぜそこまで出来るのかと根源を知りたかった。
「その出血量はとうに三分の一を超えている。二分の一を超えたらお前死ぬぞ」
それは事実だ。人体の構造上体格によって保有量は変わろうともそのデットラインを超えれば死ぬ。櫻井を回収に向かって危惧していた時間はとっくに抜けている。出血性ショックを起こしいてもおかしくない状態。
だからこそ、獣塚は櫻井がどうして立っていられると聞いている。
櫻井は小さく鼻で笑った。獣塚の興味が何なのかは分からない。それでも動けている理由は他にはない。くだらない理由。どうしようもなくおかしい理由でしかない。
だから櫻井は鼻で笑いながら答える。
「昨日たっぷり輸血してきたから問題ねぇ」
想定していない虚を突くような答え。その答えに獣塚を足を止めて櫻井の方へと振り返った。その姿は笑っていた。どれだけのダメージがあろうとも笑っていた。へとへとのボロ雑巾のような姿で笑っていた。
「はぁー……ちっ」
その姿と答えにため息と舌打ちで堪えようとしたが獣塚も笑ってしまった。どうしようもなく抑えきれなかった。獣塚の心が揺さぶられた。
「いるかー、そんな受験するやつが」
友好的に獣塚は話しかけた。櫻井を見て呆れたような微笑みを向けている。それに櫻井も笑って返している。獣塚の理解が進んだ。この櫻井という男はどうしようもなく呆れたやつなのだと。
だからこそ櫻井に真実を伝える。
「受験人数は一万近い」
それは第三の試験会場で教えたことだ。
「ここまで来れたのはたった千人しかいない」
九割が道半ばで諦めた。それでも残っている。櫻井が言った言葉を借りるように皮肉を込めて微笑んで教えたやった。それでもお前は残っていると。九千人を抜いてきたのだと。
「その千人の中で、お前は――」
獣塚は試す様に笑いながらも櫻井を指さす。
「最低の千番目だ」
それが事実だと。合格者は百名しかでない。それが現実だと。だが声には期待が込められている。それは試験会場で罵倒したものとは真逆のもの。獣塚の心が変えられた。
「だけど、お前は」
知ってしまった。櫻井という男の悪足掻きを。こんな絶望的な状況ですらヤツは笑っていられる。恐怖や不安などがないように。壊れて狂っている。それに何より眼が気に入った。その眼は変わらなかった。
最初あった時と同じようにヤツの眼は保たれていた。
——死んでない。コイツの眼は諦めてなどいない。
その意思に負けた。気持ちよくも完敗だった。止めることもできないことを受け入れられた。この男は止まらない。
「残った千人の中で」
だからこそ賞賛するように告げる。お前は他の奴らとは違うと。試験官の獣塚が見た中でその部分は誇っていいと。
「一番狂ってるよ」
櫻井は閉じそうな視界でも笑って返す。獣塚はその様子に安堵の笑みを浮かべて背中を向けて案内を再開する。連れていってやると。
「ここからはアタシの独り言だ」
櫻井に向けての独り言。それは助力だとしても、道理として一人の試験官が肩を持ってはいけないというルールがある。そのスレスレを狙う様な行為。
静かに着いてくる受験生に試験官は語る。
「マカダミアの受験に於いて学力試験は何の意味も持たない」
それは内部だけが知る情報。ここまで来たお前だから教えていると。けして目を見ない姿勢を取っている。これは独り言で戯言だから聞いとけと。
お前は不正は何もしていないと。
「実力試験の為の準備時間を確保するためのものでしかない」
次の試験は無意味だと告げている。何の意味ももたらさない。
「だから、回答など埋める必要ない。速攻で終わらせて構わない」
頑張ったところで何の役にも立たない試験だから。
「次の実力試験の為に少しでもいいから体を休ませろ」
歩きながらも情報を役立てろと先輩は送る。基礎体力試験と実力試験こそが本試験。その間に挟まれる学力試験に時間を使うなということ。実力試験が重要なのだと獣塚は言葉少なくも櫻井という受験生に情報を流した。
そして話し終えて数歩したところで、学力試験の会場に着いた。
扉を静かに開ける。
「最後の受験生です、高畑先生お願いします」
「えっ!」
凛々しく立つ獣塚の後ろにいる死にそうな受験生に席を立ちあがって驚く高畑。慌てて櫻井の方へと駆け寄っていった。
「これは無理ですよ!」
学力試験以前の状態。死に体のさま。どうみても受験を続行することは容認できないと高畑はオロオロしている。その姿に獣塚は櫻井を見やる。
「無理だとさ?」
その声はどうすると聞いてるようなもの。そして、返ってくる答えもわかっている。この受験生はそんな忠告は幾度なく聞いてきた。
「無理かどうかは俺が決める……」
フラフラになりながらも答えはいつでも強気。その姿に獣塚はほらなと微笑んでいる。高畑はそんな二人のやりとりを理解できずにオロオロ見ている。
獣塚はそんな高畑に視線を向ける。
「先生、コイツはイカレテるんで止められないんですよ。気絶するまで受けさせて現実を教えてやるのが一番の薬です」
「え、でも……」
「最後までやることしか興味がないんですよ、わかるでしょ高畑先生?」
獣塚が教室の時計を顎で指す。もう時刻は大分過ぎている。最初の学力試験が始まってから三時間以上は経過している。それでもリタイアせずにここまで来たのだと。そこまで時間が掛かっていること、この瀕死の状態でわかる。
「出し切らないとこういう輩は後悔するんですよ」
どんな思いで此処まで辿り着いたのかということは高畑にもわかる。その受験生の眼と自分に向けられている殺気が物語っている。止めるんじゃねぇと。
「最後の受験生です、どうかお願いします」
「えっ……」
獣塚が丁寧に頭を下げてきたのに高畑の意思が揺らぐ。
「頼む……」
かすれる声で、よろめく体で、横の男も頭を下げようとした。だが足元が覚束ない体は斜めに倒れそうになる。危ないと瞬間的に思考が働く。倒れる櫻井を支えようと高畑は急いで一歩を前に出した。
だが、その手が届くことはなかった。
「頼むよ……」
堪えた。よろけそうになろうとも堪えた。倒れそうな状況でも堪えた。自分の足で意思で立っている。そして頭を下げて懇願している。
高畑を考え込むように目を伏せて櫻井に告げる。
「私が危ないと思ったら終わりにします。それでいいなら」
櫻井の顔が上がる。そして静かに頷いた。分かったという意思表示。受けられるのなら何でもいいと。獣塚は高畑に引き渡して扉に体を向ける。櫻井の横を通り抜けるときに音を落とした。
——頑張れよと。
獣塚が退出した。
「ここに座って下さい」
高畑は櫻井の願いに負けて彼を近くの席に座らせる。
「それでは学力試験を始めます」
問題用紙がそっとテーブルの上に置かれた。それが櫻井の次の戦いの始まり。
「……」
高畑の試験開始の声を女僧侶は扉に寄りかかりながらも聞いていた。
「私も頑張ってくるから」
それは櫻井に落とした音の続き。もうやることは分かっている。櫻井が次の試験に移ったことで獣塚は廊下を歩きだす。ヤツにまだ戦う意志はある。ならばその意思をかなえてやると。それは三葉たちと同じ意志だった。
向かう所は決まっている。
「お前はこんなところで終わっていいやつじゃない」
変わらぬ結末を変える意志が伝番していく。櫻井という男の命を燃やした愚行の熱が広がっていく。どこまでも弱弱しい存在であろうとも放つ熱と輝きは伝わる。
そして、それは獣塚の眼に強い意思を宿す。
「イカレテるお前の道を私が切り開いてやる!」
その消えそうな灯が照らす先を誰もが見たいと願うから、試験官たちは動き出す。
《つづく》
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます