今回は死生観の内、「死」について。


「死」とは何ぞや。


一つの答えとして、私は思う事がある。


『「死」とは永遠の孤独を入手する事』


死んでしまったら、後は、ずっと一人ぼっちになる。


それくらいの覚悟は必要なのかもしれない、と。


確かに、死ぬ事で今、自分が苛まされている苦痛からは、逃れる事も出来るのかもしれない。


しかし孤独を苦痛に感じる様だと、死んでから、より苦痛に苛まされる事にもなるのではないか。


因みに、私は孤独は、そんなに辛くはない。


というか、これまでも、ずっと孤独ではあったからねぇ。


今まで友人なんて一人もいないし。


親はまだ健在だけど、親は自分で作った人間関係じゃないからね。


ちょっと、別に考えなければならないと私は思っている。


だから、現実に自分で作った人間関係は一切に無い。


今、ネットでは幾らか繋がりがある方はいるけど、ネットだけの繋がりでは高が知れているよね。


そう考えると、私は本当に孤独だなぁ、と。


そして正直、孤独が辛くないと言ったら嘘になるのかもしれないけど、孤独じゃなくなる事も怖くはあるんだよね。


だから、私は「死」に向かわざるを得なくなったのかもしれない。


ある意味、それが当然に思ったりもするんだよね。


でも、今は「死」に向かう事も諦めてしまった。


そして改めて思う。


「死」とは結果だと。


そして「生」は過程だと。


「生」については別に詳しく書く予定なので、此処では「死」について。


「死」は結果にしか過ぎない。


そして「死」は現実。


「死」は究極のリアリズムの様に思ったりする。


今、死んでいなければ、それが現実。


今、死んでしまっていたら、それが現実。


そして、その現実からは、誰も逃れる事は出来ない。


しかし人間は、そんなに強くはないので、逃げたくもなる。


それが時に、人を「死」へと向かわせたり。


時に、憎しみに身を委ねる事になったりもする。


そして死ぬ事が出来ずにいる私は思う。


「死」は自ら求めても仕方がないものだと。


憎しみに身を委ねても、何の解決にもならないと。


「死」は望もうとも拒もうとも、いずれは必ずやってくる。


唯一、命あるもの全てに対して、平等に与えられる結果。


唯一、命あるもの全てに対して、平等に降りかかる結果。


受け取り方はそれぞれでも、例外は存在しない。


「生」が命である一方、「死」もまた命なのである。


例え不本意な「死」であっても、その結果を変える事は出来ない。


要するに、「死」にロマンを求めては、いけない様に思うのです。


「死」は、ただただ現実を受け止めるべきではなかろうか。


それが自らを憎しみから解放し、命を尊ぶ事にも繋がる様に思うのです。


「死」は孤独であり、結果である。


それが私の「死」に対する考え方。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る