好きな食べ物

【一部の嫌いなものを除く全て】


じゃあ、嫌いなものは何なのか。


それは、秘密(笑)


個人的な付き合いの中で親しくなれば、お話をする事もあるかもしれません。


それよりも、私なりに、この事を書く事で伝えたい事がある。


それは、菜食主義に代表される様な偏食主義に対する疑問。


私は他に「雑食主義」という創作に関するエッセイも書いているが、実際の食事に関しても「雑食主義」であったりもする。


肉類も野菜も魚介類も加工品もみんな好きなんだよね。


幾つか、苦手な食材はあるけれど、それだって出された場合は無理をしてでも食べる。


満腹以外で自分に用意された食事を残す事はない。


時には他人が残したものまで食べる事だってある。


あくまでも、選択出来る場合は、それを選択する事は無いだけの事。


理由は単純に勿体ないからなんだけど、それが大切だと思うのです。


我々の食事になって我々のエネルギーになるものは、全て元々、命であったもの。


生きているのは決して動物だけではないと思うのです。


植物にも命はあると思う。


そんな多くの命が私という一つの命を支えてくれているのだ。


しかし菜食主義者は動物性タンパク質を摂らなかったりする。


勿論、それが味覚による好き嫌いの事であれば、何もおかしいとは思わない。


でも、菜食主義者の中には、動物の肉を食べるのは、その動物が可哀相だからと言う方がいたりもする。


それが、どうしても私には納得がいかない。


動物は可哀相で植物は可哀相じゃないの!?と。


そして可哀相だと思うのであれば、尚更に有り難く頂くべきだとも思うんだよね。


勿論、これは私の考えにしか過ぎないし、だから私は「雑食主義」なんだけどね。


だから決して、私の考えを押し付ける気はありませんが、どうにも不可解でならないのです。


何故、植物は可哀相じゃないのか。


何故、特定の動物が可哀相なのか。


可哀相かどうかで考える事にも疑問を感じたりもします。


我々人間に限らず、命は全て連なっている。


多くの命を犠牲にして、一つの命が育まれていく。


その命が次の命へと繋がっていく。


そうやって歴史を積み重ねて、進化を繰り返してきたのではないか。


そんな中で人類だけが突出した知能を獲得し、人間は食物連鎖の中で頂点、いや、別格ともいうべき存在になってしまった。


その事で思い上がっている様に思うのです。


だから他の種の生命を可哀相などと思ってしまう。


でも、人間も他の種の生命も命として、何ら変わりはないのではないか。


生まれ出でた生命を維持し育んでいく為には、多くの犠牲が必要にもなるだろう。


勿論、人間だからこそ、その犠牲に対して可哀相と思ってしまうのかもしれない。


でも、可哀相だからと言って、食べる事を否定してしまっては、その尊い犠牲に対して失礼な様にも思ったりする。


我々人間一人一人も自然の中の一員に過ぎないのではなかろうか。


決して別格ではなく、他の命を見下していい訳でもないだろう。


その様な意識がもっと必要なのかもしれない。


その為にも、我々人間も食物連鎖の中に戻る事も、考えなければならないのではないか。


火葬という習慣を限定的なものにして、出来るだけ自然葬をする事で、我々の命も他の命の肥やしとなるべきと私は思ったりもする。


それが、食を通じて命を繋いでいく事を、より理解していく事にも繋がるのではないか。


味覚による好き嫌いは仕方がないにしても、主義による命の選別は命に対する冒涜の様に思ったりもするのです。


それに色々なものを食べた方が色々な味を楽しめるんだよね。


余計なお世話かもしれないが、偏食の方はその楽しみが減ってしまう。


私はそっちを可哀相に思ってしまったりする(苦笑)

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