3-5
「あら、懐かしい故郷に顔を出しただけよ?
久しぶりにね。
『手土産』まで持ってきてあげたっていうのに、随分冷たいじゃない?」
わざとらしく小首を傾げ、女性はくすくすと笑う。
「愚かな……貴様はこの国から永久に追放したはずだ。それを忘れるほど老いぼれてはなかろう」
吐き捨てるようにバッハが言うや否や、女性は右手を振りぬき一閃した。
握っていた弓矢は、いつの間にか鋭くとがった剣へと変わっている。
バッハの頬にじわりと血が滲んだ。
しかしそれを気にする様子もなく、彼は女性を冷たく見下ろし続けていた。
「……逃げないのね。好きよ、あなたのそういうところ」
そう言いながら、彼女は嬉しさを隠し切れない様子で微笑んだ。
「いいわ……変わってない、何一つ……! そうよ、こうでなくっちゃ!」
剣はバイオリンへと変化し、女性はそれを胸に抱いてくるくると廻るように踊り出した。
と思いきや。
「あなた、リューリスなの?」
「えっ……」
突如目の前に現れた彫刻のような顔に、ルイは思わず声を漏らした。
なんだ?
何が起こった?
彼女は今の今までそこでくるくると廻っていた。
少なくとも5メートルくらいの距離は確実にあったのに。
呆然とそれを眺めていたはずなのに。
———なぜか今、僕の目の前に立っている。
放心寸前のルイを、バッハが自分のところへ引き寄せた。
「貴様には関係なかろう」
自らが盾となるように女性の前に立ち塞がるバッハ。
直後、ルイの眼前からバッハの大きな背中が消えた。
微笑みながら彼女は言った。
「黙って? 私は坊やに訊いているの」
苦しそうにうめくバッハを目の端で捉えながら、ルイは再び自分の身体が震えていることに気づいた。
氷のように冷え切った恐怖が、喉元までせりあがる。
逃げろ、逃げろ、逃げろ。
この女は危険すぎる。
頭の中で警鐘が鳴り響く。
だというのに、ルイはそこから1歩たりとも動くことが出来なかった。
女性が再びルイの目の前に立った。
目の前に広がる顔は、やはり美しかった。
本当に生きた人間なのだろうかと疑ってしまうほどに。
「ネクタイが青……ということはヴィルトー科の学生ね、あなた」
ルイの首元に目をやり、つぶやく女性。
そして何か考えるそぶりを見せたかと思うと、不意にルイの首に両腕を回した。
想定外の出来事に、ルイは身体を硬直させることしかできない。
女性の息遣いを耳元に感じる。
ほのかな香水の匂いが鼻腔をくすぐった。
それとも、彼女自身の匂いだろうか。
数秒後、ぱっと彼女の身体が離れた。
正確にいうと、彼女の身体が宙に浮いた。
その顔には満面の笑みが浮かんでいた。
ぞくり、とルイの背筋を冷たいものが走る。
美しさと恐怖は同居し得るのだと、その笑顔ではじめて知った。
「また会いましょう、ヨハン。それと……」
呻きながら起き上がるバッハに、彼女はちゅっとキスを投げる。
そしてルイにも、長く含んだキスを投げた。
「…あなたもね」
「だまれ!!」
バッハが怒号をあげ、同時に地面から黒煙があがる。
手のように広がった黒煙が女性を捕らえようと迫る。
しかし煙が届くよりも前に、女性の姿は消えてしまっていた。
揺らいだ空気が、置き土産のようにルイの頬を引っ掻いた。
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