3話

 なるほど、それこそ職場の新人が嬉々として話していた。ネット上に殺人映像が流出されていると。私自身はその映像を見たことがなかったが、薄暗く、古臭い日本家屋が舞台だと彼は語っていた。


 とすると、私はそのスナッフマンとやらに、選ばれたということだろうか。次の被害者として、私を殺した映像を世間に流す。宣戦布告なのか、そうであるとすれば誰に対するものなのか。スナッフマンも私と同じで、日々に意味を見出せない人間なのかもしれない。


 とは言え、狂人は狂人だ。


 共通項がひとつでもあったとして、急に身近な存在になるわけではない。狂っている人間のことは狂っている人間しか理解できない。明確な線が私とスナッフマンの間には引かれている。常人と狂人。被害者と加害者。その言葉は何でもいいが、私は、蠢く階下の狂人とは、別の生命体だ。彼の餌食になるつもりはない。


 と、思っているはずなのに、蝋燭を握ろうとした手が、止まる。

 このままここで殺されたとして、誰にも発見されないのであれば、私は死して尚意味のない人生を送ったことになる。


 だが、犯人がスナッフマンであれば、話は変わってくるのではないだろうか。


 殺されたとしても、ただ朽ちていくわけではない。

 殺人の映像がネット上に流されれば、何度も何度も、再生される。そう、再生だ。

 どれほどの時間かはわからないが、私はその映像の中で殺されるまでは、生き続ける。息をし、身体を動かし、悲鳴さえ上げられる。それは、思い出というちゃちなものに縋るよりも、ずっと価値のある死ではないだろうか。


 葛藤があった。

 ここで蝋燭を取ることをやめスナッフマンの犠牲者となり延々と殺され続ける一方で生かされ続けるそんな終止符か、蝋燭を手に薄い勝機に賭けスナッフマンを撃退するか。


 私は半歩ずつ、引き摺るようにして下がった。

 そして背中がそこにたどり着くと、勢いよく、押入れの襖を開く。

 階下の狂人が、歩みを止めるのがわかった。探るように間が空く。


 押入れの中には、武器になるようなものは何も無かった。荒廃により出来た隙間から潜り込んできたらしい落ち葉や、虫の死骸が点々と落ちているだけで、あとはひとつとして形はない。蝋燭の明かりが届かない暗闇が、ガッパと口を開けて私を見ている。


 失敗かどうか、わからない。

 ギッギッ、と階段を踏み鳴らす階下の狂人の手に、握られているものはなんだろうか。


 途端に恐れが胸中を満たす。甘んじるべきではなかった。悔やんでももう遅い。二歩三歩あれば届く距離に別の蝋燭があったが、身体は微塵も動いてくれない。足音が近付いてくる。それは、人の形をしているのだろうか。死ぬ。死んでしまう。


 ガラリと勢いを付けて開いた扉の向こうには、豚の覆面を被った痩せぎすの男が立っていた。手には鈍い光を放つ包丁がある。男はそこから身じろぎせず、私を見ているような気がした。私も、彼から目を離すことが出来なかった。緊張し圧迫された脳で考えられることと言えば、覆面をしている以上、この薄暗闇では私のほうが目が利くという、それだけのことだった。


 距離は五歩程度。膠着状態にある。彼の脇を走り抜けることが、私に出来るだろうか。抜けられたとして、その先はどうする。一階部分の窓もここと同様に塞がれている可能性が高い。だとすれば玄関だって何かしらの方法で内側から容易に開かないようになっていることだろう。逃げ道はあるのか。逃げられるのか。一時しのぎでしかないのか。


 様々なことが頭の中を駆け巡った。緊張状態に違いはなかったが、今度は妙に頭が明々としている。身体は動くか。


 右往左往していた様子だっただけに、男には迷いが垣間見えた。殺すか、殺さないか。その迷いかどうかは判然としない。何せ相手はすでに一人殺している人間だ。その可能性は酷く低く、余りに希望的である。


 包丁を握った右手が僅かに動いた。柄を握り直している。殺すなら一思いに一刺しで済ませて欲しかったが、それが出来そうなほど、手馴れた様子もなかった。

 潜り抜けるならば右手側からだろう。包丁のほうへ自ら向かってくると思わない、その虚ろを抜ける。


 出来る。

 出来るはずだ。


 身は屈めず、体当たりするイメージで。

 畳を蹴ると思ったよりもスピードが出た。男はおっかなびっくりして身体を仰け反った。両手が上がる。包丁を取りこぼすことはなかったが、隙は生まれた。一歩一歩、蹴るようにして走る。男の右肩にぶつかる。よろけるようにして二人ともが部屋の外へ出た。すぐ右手に階段が見える。半ば転がって駆け下りる。左手は台所、右手に玄関が見えた。だが、扉の前には大きな段ボール箱が置かれていた。空では、ないだろう。身体を翻し台所のほうへ駆ける。錆びていてもいい、武器が欲しい。背後でドタドタと階段を駆け下りる音。家具はうらぶれたダイニングテーブルだけだった。椅子は脚が折れて崩れていた。目に付く戸を全て開けたが、それらしいものはない。発見できたのはこれみよがしに置かれた数台のカメラだけである。続きになっている洗面所のほうへ行って、しまった、と思う。


 行き止まりだ。

 奥には風呂場しかない。擦りガラスの向こうは何も見えない。

 ここしか、ない。

 もうすぐ後ろに男が迫っている。


 内開きのドアを開けてすぐに背を押し付ける。間もなく追い付いた男がそれを容赦なく叩いてくる。開けさせるわけにはいかない。開けられたらそこで終わりだ。乾いた風呂場の床に足の指を突き立てるように、ぐっと力を込める。


 男は無言のまま拳を何度か打ったが、しばらくしてそれを止めると、こちらを見据えたまま静かに腰を下ろしたようだった。そうされてしまうと当然、換気用程度の窓に体が通るわけもなく、風呂場から逃げられるような口はない。万事休すとはまさにこのことだろう。きっと男は両手で包丁を弄び、恐怖に打ち震える私を想像して今か今かと狩りの時間を待ちわびている。或いは動きも少なく悲鳴も大して上がらなかった今回のビデオの出来を評価しているところかもしれない。その際、もし及第点に満たなければそのまま廃棄されるのだろうか。殺されるにしても、無意味になってしまう。それだけは避けたい。


「あなたは」


 久々に出した声はかさついて心許なかった。どれくらい眠っていたにせよ、どれだけ心が動こうと、今が寝起きに違いはなく、愚かしい自らの声音が記録に残るのであれば恥ずかしいと、思考においても愚かさを上塗りする。せめて視線でカメラを探さないのが僅かな抵抗と言えた。


 扉の向こうでは包丁に落ちていた首をもたげるような衣擦れの音がした。豚の覆面をしているのだから自由は利きづらいのかもしれない。


「何者なんですか」


 なぜ私を拉致したのですか、というのと、二つ浮かんだ疑問のうち、こちらを持ち出したのには訳があった。

 いかにも嬉々として、我がことのように語らっていた新人の言葉のうち、豚の覆面、というワードはひとつもなかったのだ。より正確に言うなれば、カメラの位置を把握しているからかスナッフマン自体の姿は僅かに後ろ姿が映るかという程度で、顔の別も、男女の別さえも付きにくいと言っていた。


 二階の畳部屋に踏み入らなかったのは、そうした、カメラに映らないようにという事情からだったのかもしれない。しかしでは、ほかの場所はどうだったろうか。台所で、彼は確実に自分の姿を映したはずだ。映らないようにと気を遣っている様子はなかった。それとも、編集するからいい、と楽観的に考えているのだろうか。それにしても、大仰な豚の覆面は自分本来の顔よりも格段に大きく、フレームインする確率も上がる。どうせ殺す相手、どうせ映らない顔なのに、豚の覆面をわざわざこしらえる。それはどうにも、支離滅裂な状況と思えたのだ。


 スナッフマンとは、その程度の輩に過ぎなかったのか。

 スナッフマンとは、あなたの名称なのか。

 階下の狂人よ、あなたは何者なのだ。


 扉の向こうで、スウと息を呑んだような気配があった。覆面を剥いだのか、バサバサと髪を振る音。

 そして、

「そのままでいい」男は低い声を漏らし、「昔話を聞いて欲しい」

 語り出したのである。

「それは世界で私だけが感じる孤独だった」

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