共鳴

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あのとき、僕の背中には、ごつごつとした鈍い感触が、一定の間隔を置いて広がっていた。しかし、それは僕にとって、歩くことをやめる理由になるほどの違和ではなかったから、そのまま、構わずに歩を進めた。だがその違和は、徐々に強度を増し、ゆっくりと僕の平常心を掻き乱していった。そのとき僕は、それを気にしないように努めた。世界は僕の平常な顔を望んでいるからだ。いや、正確に言えば、平常な顔をしていないと世界に置いて行かれるのではないかと危惧したからだ。不安と恐怖に苛まれ、全身が重く、苦しい。肩で息をする。汗が頬を伝い、アスファルトに垂れるのを、茹だるように頭を垂らし、見届けた。その瞬間、前方に、黒く大きな塊の存在を予感した。恐る恐る目を上げると、そこには、煙のように薄く、それでいて金属的な硬質のある黒い塊が、視界一面に立ち塞がっていた。僕は慄然とした。そしてその塊は、僕に向かって津波のように押し寄せてきた。僕は立ち尽くす間も無く逃げた。よろけながらも懸命に逃げた。その塊の表面はごつごつとしていて、僕は、これは先刻の背中の違和の原因と同じものだろうと直感した。呑み込まれたら命は無いだろうと思った。しかし、塊の、津波の如き勢いは衰えるところを知らず、その塊の猛威の指先は、ついに僕の背後を捕らえた。痛い――そのとき僕は、全身で痛みを味わった。それはただの痛みだった。歩くことのできない痛み。平常な顔ではいられないほどの痛み。僕はその場で頽れ、気付いたら、黒い影に覆われていた。


あのときから僕は、黒い影の中に居る。眠る前などに考える、社会はスクリーニングシステムであり、その基準は、あの理不尽な恐怖の黒い塊に、出くわすか出くわさないかだ。そしてあの黒い塊に出くわしてしまった人間は、否応無く社会から振るい落とされる。僕は、自分が何故そうなったのかは、いくら考えてもはっきりしない。いや、そんな問いに対する答えなど存在しないようにも思われる。だが、耐えがたい痛みによって、社会から排除されてしまったことは事実だ。僕は、そう考える度に溜息を吐いた。


僕は孤独だった。こんなはずじゃなかった。誰かに認められたかった。話し相手がほしい。そう思い立つと、僕は駅前へ向かった。靴に足を入れながら思った、前、靴を履いたのはいつだろう。

駅前は、家路を辿る学生や社会人で溢れている。僕は南口の広場に向かった。気取ったような歌声が聴こえてきた。二人組の路上ミュージシャンが、誰でも聴いたことのあるようなヒット曲をカバーしている。僕は無性に腹が立った。僕は孤独な人間を探し求めた。すると、目立たない端の方で、アコースティックギターを掻き鳴らしながら、ふらふらと叫んでいる青年を発見した。彼の姿は狂人そのものだった。独り叫ぶその青年のオーディエンスは、誰一人としていなかった。僕はこの青年に、孤独のオーラを感じた。あの狂人と話がしたい。僕は青年に近寄った。

「あっ、どうも、こんばんは……」

蚊の鳴くような声が出た。青年に伝わったかどうかは分からない。これはとうとう、自分はコミュニケーション障害を自覚する他ないな、と気落ちしかけたところ、

「どうもありがとうございます、聴いてくれて」

青年は頭を下げた。自分より幾年か年上で、堂々としていて、以外にも穏やかそうな様子だった。

「あの…… ちょっといいですかね」

「はい、いいですよ」

「あの、あなたは、何故、ここで歌っているんですか?」

「何故って、黙っていられないからですよ」

「はあ……」

僕は安堵した。青年は完全に孤独だと確信した。この人なら、話し相手になってくれそうだ。青年がその場に座り込んだので、僕も後に続いた。

「だって、世界は太っているし、麻痺している。中身の無い袋、ただのブヨブヨしたシワシワの入れ物だ。単細胞生物そのものだよ。そんな世界に騙されて苦しんできたんだから、復讐するしかないでしょう?」

復讐、と僕は心の中で反芻した。僕は青年に、絶対的な心強さを感じた。

「なるほど…… あの、ちょっと聞いてほしいんですけど、あの、僕は自分が、本当に、この世に生きる人間の中で、最底辺に生きているような気がするんです、もう、生きていけないんじゃないかって、死ぬしかないんじゃないかって思うんです……」

「うん」

「だから…… これからどうやって生きていけばいいのか分からなくて困っているんです」

僕は、自分自身の生死の選択すら揺るがす甚大な苦悩を、正確に吐き出した。

「俺はね、」青年は一息つくと、「世界に出口が、つまり救いが無くてね、どこまでも孤独で、もう耐えられないと思って、死んでやろうか、殺してやろうか、っていう精神状態だった時期が、つい最近まであったんだよね。自殺するか殺人を犯すか、ってね。そして、それを同時に達成できる自爆テロがいいんじゃないか、そうすればウィキペディアにも載れるし、世界を席巻できる、なんて考えたりしたんだよね。でもやっぱり、心の底では死にたくなかったし、こんなことで人生が終わってしまうのは御免だと思ったんだ」

青年はそこまで言うと、スプライトを一服した。

「で、その頃は毎日のように泣きたくなったりして、溜息ばかりしていたんだけど、そんなときに気付いたんだよね、溜息は叫び声になるんだ、ってね。世間には、『溜息よ歓声になれ』みたいな、薄っぺらい言葉が溢れているけども、溜息が歓声になることは無いんだよね。つまり、溜息は個人的なものだから、溜息の主が同調することは無い。歓声とは同調して始めて起こりうるから、溜息で歓声など起こるはずが無いんだよ。そして、じゃあ、溜息とは何になるのかを考えたときに、それは、自分にしかできない孤独の反動、つまり叫び声になるんだと分かったんだよね。で、今歌っているのも、その溜息を叫び声として現しているっていうことなんだよ」

「それが、歌うことが、あなたにとっての復讐ですか?」

「まあ、復讐というか、やめたら自分じゃなくなるから、続けるしかないもの、と言った方が正確だね」

僕は地面を見据えながら、続けるしかないもの、と反芻した。沈黙の間、自分にとってのそれを考えてみたが、見つからなかった。いつの間にか、夕陽は姿を消していた。僕は青年の方に身体を向け、

「やめたら自分じゃなくなるから続けるしかないもの、っていうのを見つければいいんですね」

「そう、これが、どうやって生きていけばいいのか分からなくて困っている、っていう質問に対する俺なりの答えだ」

「ありがとうございます、今日僕は、精神的に狂っていたんですが、あなたのと会話は、精神科に行ったときに処方された精神薬より断然効果がありそうです」

僕らの中に、別れのムードが立ち込めた。僕は、このまま青年と別れるのが惜しかった。立ち上がりながら青年が、

「俺の曲の音源を聴きに、是非家へ来ないか?」

僕は心の中で歓喜した。


青年の部屋は、至ってシンプルだった。無駄な装飾品という装飾品が一切無かった。青年は部屋に入るなり早速、iPodのプレーヤーを操作した。

「これは2年前に初めて作ったやつ」

僕は聴き入った。ヴァイオリンの大海のような伴奏の中で、せわしなく飛び跳ねる、悲しげな、悲鳴のような、乾いたギターの狂気の旋律。そして渾身のシャウト。

「この曲はどういうときに作ったんですか?」

曲が終わると僕は思わず質問した。青年は、

「ある日、この部屋に居たときに、外の騒音がうるさくて、イライラして耳を塞いでいたんだ。すると、その騒音は大体聞こえなくなったんだけど、耳を塞いでも聴こえてしまう音っていうのがあってね、それはカサカサとした、金属同士が擦れ合うような音だったから、それが自然とギターが奏でる旋律に聴こえてきて、そして俺はその自然の音楽に、耳を劈かれて、心を引き裂かれたんだ」

青年は語りたがっているように見えた。青年は続けた。

「それでもう、慌てて宅録機材を買って、そのまま録音した。YouTubeにもアップしているよ。

騒音って、音楽で言えばマイナー調だと思うんだよね。だって、決して心地良くは無いんだからね。でもだからこそ悲鳴が、叫び声が似合うんじゃないかな。だから、叫び声は、マイナー調、つまり悲しみの中にしか浮かばない、なんていう風にも言えるだろうね」

青年は、思いついたように改めてプレーヤーを操作した。

「人間イコール新種の猿、って考えると、人間が人間である所以は、悲しみを感じることができるということ、この一点だけのように思えるんだよね。これは『悲しき新種の猿』っていう曲」

青年は僕にとって、救いの英雄だった。僕は今、非日常の衝撃を味わい続け、それに陶酔している。時間の流れを感じない。

「きみ、親を悲しませたくないんでしょう?」

曲を一通り聴き終えると、青年はあっさりとした口調でそう僕に訊いた。

「そうですね」

「それでも、どうしても悲しませてしまう。そして、自分はクズだ、ゴミだ、って罪人意識に苛まれる。でもね、そんなことは無いんだよ。だって、どうしても社会でうまく生きて行けそうにないんでしょう?」

「まあ、はい」

「だったら仕方が無いじゃないか。無理して、自分を偽ってまで自分を変えなくても良いんだよ、社会から外れたままで良いんだよ。地位的には最底辺でも、充実して生きられるかどうかが重要だと思っている。これで、きみに言いたいことは全部言ったよ。遅くなったね」


翌日、起床すると、僕の頭の中には、見たばかりの夢の記憶が鮮明に浮かび上がっていた。僕は、その一コマ一コマを注意深く辿っていった。

その部屋は、黒い影に覆われている。転がってきたのか、自分から取り寄せてきたのか、若しくは誰かからプレゼントとして贈られてきたのか、何故だかは分からないが、古びた絵画が足下にある。僕はすかさずそれを拾い上げた。その絵画の中では、暗鬱な表情を浮かべた少年が、窓の外を眺めている。僕は「可哀想だな」と、同情と悲哀の混じった呟きを零した。同時に胸が痛んだ。それは彼の抱えている痛みと同じものだったに違いない。すると次の瞬間、少年が溜息を吐き捨てるのを見た。その溜息は、僕の胸の中の痛みの鼓膜と共鳴して、僕はそれを叫び声として聞くと、それをそのまま、僕の喉が叫び声として現した。少年は踊り出していた。踊りにならない踊りだった。僕も暴れ狂うように踊り続けた。夢はそこで終わった。

《ああ、絵画のきみの抱く寂しさは、ぼくの痛みとして、今まさにきみを通して、解き放たれたのだ! きみの悲しみの事情などぼくは知らないが、僕らは出会った瞬間に、救いを求め合った!》

僕は小さなメモ帳に、そう衝動的に記した。そして、救いに至るまでの物語が切り拓かれるのを感じ、それを書き始めた。これをやめたら自分じゃなくなるだろう。だから、続けるしかないだろう。それは、世界にとっては溜息程度にしか残らないだろうが、残る残らないなど、どうでもいいではないか。

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