『釣糸』

矢口晃

第1話

 お殿様はお城のお庭に作った釣り堀に釣り糸を垂らしながら、一人で考えていました。

(わしはこのまま、戦争を続けていてよいのかのう)

 殿様は、生まれてからもう四十年もの間、ずっと戦争に明け暮れてきました。その間に、何人もの人を傷つけ、何人もの人を死なせてきました。

 それが、今まではとくにおかしいとは思いませんでした。殿様の仕事は、自分の家来や、家来の家族や、お城の周りに集まって生活をする農民や商人の生活を守ることです。そのために、その平和を脅かそうとする敵と刃を交えるのは、正しいことだとさえ殿様は考えていました。世界平和のために、戦争は必ず避けては通れない道だと考えていたのです。

 ところが、昨夜夢を見て、その殿様の考えが少しずつ変わってきたのです。

(ひょっとしたら、自分は正しくないことをしてきたのかもしれない)

 では、殿様は夢の中で、いったいどんな夢をみたのでしょうか?

 それは、こういう夢でした。殿様が、出陣のために準備をして、さあいよいよ馬にまたがって出征しようという時に、もう二十年も前に亡くなっているはずの殿様の父上が現れて、殿様にこう言ったのです。

「おい。戦争などするのはよせ」

 殿様は驚いて自分の目を疑いました。しかし、目の前にいるのはまぎれもなく、死んだ父上その人なのです。

「父上。しかし、私は行かなくてはなりません」

 殿様は、父上に再開できた喜びを少しも顔色に表わすことなく、居丈高にそう言いました。

 殿様の父上は、殿様に反問しました。

「なぜ、戦争に行かなくてはならないのだ」

 殿様は、きっぱりとこう答えました。

「それは、自分の家来や、自分の国の住民の平和を守るためです」

 父上は次第に眉間に力を込めながら厳しい口調で言いました。

「たわけ。そうやってお前が戦争を繰り返すことが、お前の家来や住民の生活を脅かすことになるのだ。それくらいもまだわからないのか」

 殿様は、きりきりと歯ぎしりをしました。殿様の父上はその殿様に休まず言いました。

「お前が戦争をやめれば、世界はもっと平和になるのだ。戦争などもうよせ」

 しかし殿様は、いくら父上にそう言われたからと言って、引き下がることなんてできません。もし今ここで引き下がったら、殿様は周りの家来から、「憶病だ、戦争が怖い意気地なしの殿様だ」と思われて笑われるでしょう。そう思ったら、殿様は絶対に戦争を中止することなどできないのでした。

「父上、しかし私はどうしても戦争に行きます」

「そうか。そこまで言うのなら仕方がない。わしがお前を殺そう」

 父上の言葉を聞いて、殿様はとたんにぞっとしました。しかし父上は冷静さを保ったまま、続けてこう言いました。

「お前のような凶暴な息子を産み育てたのは、わしの恥じゃ。世界の平和が、お前によって乱されて行くのを見るのはつらい。ならばお前をこの世に産み落としたわしが責任をもってお前を斬ろう」

 そう言うと、父上は腰に差してあった鞘から、長い刀をはらりと抜き取り、馬上の殿様に向かって身構えました。

「父上、なにをなさるのです」

 父上は何も答えず、いきなり馬上の殿様に切り着けました。危うく馬から跳び下りて、間一髪のところで父上の刀を交わした殿様は、反射的に自分も腰に差していた刀を抜きました。

自分の命を狙われたら、たとえそれが自分の父親でも、戦って自分の身を守らなくてはいけないと考えたのです。

殿様の父上と殿様の激しい斬り合いが、それからしばらくの間続きました。殿様はその格闘のさなかで、右の肩に浅く傷を受けました。しかしそれよりもさらに深い傷を、殿様は父上の左の胸に負わせました。

殿様の父上は、あっけなく倒れてしまいました。そしてその後、二度と立ち上がることはありませんでした。

殿様はそこでふと目を覚ましました。目が覚めると、外はまだ日の出を過ぎたばかりの時刻でした。夢の中で父上と戦っている拍子に寝違えたらしく、殿様は右の首が痛くて回りませんでした。すぐに漢方医に膏薬を作らせ、湿布の代わりに首筋に貼らせておきました。

 昼過ぎになっても、首の痛みは完全にはとれません。じんじんする首のあたりを気にしながら、釣り堀の端に椅子を出した殿様は、一人でぼんやりと、垂らした釣り糸を眺めるともなしに眺めていました。そして、心の中ではこんなことを考えていたのでした。

(わしは、今まで家来や住民の平和を守るために戦っていると思っておった。しかし実際はちがった。わしは、わし自身の名誉を守るために戦っておった。わしが弱虫だと思われないために。わしが臆病だと思われないために。そのために、家来たちの命を犠牲にして戦ってきたのだ。そんな戦争を、わしはこのまま続けていてよいのだろうか……)

その時、ひとりの家来がものすごい声を上げながら、慌ただしく殿様のもとに駆け寄ってきました。

「殿! 大変でございます」

 殿様はぜえぜえ肩で息をする家来の方を横目で見やりながら、

「いったいどうしたというだ」

 と言いました。家来は焦って落ち着かない様子でこう言いました。

「敵の大群が、城下に攻め込んで参りました。さあ、一刻も早くご出陣の準備を」

 それを聞いても、殿様はすぐにその場を離れようとはしませんでした。さっぱり当たりのこない釣り糸を見つめたまま、しばらく何か思案にふけっているようでした。

 そんな殿様ののんびりした様子に焦れた家来は、もう一度強くこう言いました。

「殿! 敵が攻め込んで参ります。ご出陣の準備を!」

 殿様は、それでもまだ立ち上がりません。それどころか、口の周りにうっすら微笑みを浮かべながら、そこにいる家来に向かってこう言ったのです。

「それでは、城門を開けて敵を迎え入れよ」

 家来は自分の耳が信じられませんでした。城門を開けるということは、敵に降参をするということです。まだ一回も戦わない前から降参をするなど、絶対に考えられないことでした。

「殿! どうかなされましたか。敵の数は我々の数とほぼ互角です。戦えば、苦しいでしょうがきっと勝利できると思います。なのに、どうして戦わないなどとおっしゃるのですか」

 殿様は、家来のそんな言葉に少しも耳を貸さず、穏やかな口調で続けて言いました。

「敵を迎え入れたらな、敵陣の大将にこう伝えてくれ。この釣り堀で、私と席を並べて、ひとつ一緒に釣りでも楽しもうではないかと」

 家来は思わず立ち上がると、それまでよりいっそう大きな声で殿様にこう言いました。

「殿! ご乱心召されたか」

 殿様はそんな家来にそんなことを言われても、ちっとも怒るそぶりも見せません。それどころか、かえってにっこりとほほ笑むと、穏やかにこう言いました。

「いや、ちがう。気を乱したのではない。気を乱していたのは、今までのわしの方じゃよ」

 そう言う殿様の耳に、もう近くまで迫って来ていた敵の軍勢の掛け声が、こだまのように聞こえてきました。

 殿様は、きらきらと日の光を反射する釣り堀に、眩しそうに目を細めました。殿様の垂らした釣り糸は、風の中で、ゆらゆらと揺れていました。

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『釣糸』 矢口晃 @yaguti

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