進化論

 あいつは、宇宙人だ。


 彼は、そう思いながら眼の前に立つ理解不能な思考回路の持ち主から視線を逸らした。

 その視線は手元の本へ落とす。聞こえない振り、見えない振り、とこころに強く念じながら。

 がたっ、と物静かな人間が多い図書室では理解不能の宇宙人が椅子を引いて座った音がやけに響く。

 気にしない、自分はただのミジンコだと。肉眼で見えるはずがないのだと、文字の上に眼を滑らせた。

 宇宙人はこの空間の利用目的を理解していないようで本を読む自分の生態を観察しているように見える。その表情はひどく朗らかでまったく嫌悪とか、敵意を感じさせない。

 気にしないと云っているのに。結局彼は宇宙人が気になって仕方がない。思えばあいつは宇宙人なのだ。その未知な生体では顕微鏡がなくてもこの姿を認識できるのだ。間違えなく宇宙人は、自分を見ている。

 いくら卑屈になってみたところで、まったく動かない宇宙人の視点が、彼の想像を否定してくれない。


 「……何か、用でしょうか」


 彼は眼が悪かった。それは顔を隠すような長い前髪が影響しているのか、はたまた読書のし過ぎなのか。考えたこともないのでわからないし、どうでもよかった。

 黒縁の眼鏡に、長い前髪が彼の印象をとても暗く見せている。実際に、彼は本が友達を地でいく人物なのでその認識は誤りではなかった。


 「はい。でも俺のことは気にせず読書を続けていいですよ」


 対してさすがは宇宙人。その顔には欠点というものが備わっていない。飴色の髪に、色素が薄い茶色の瞳は宇宙人の印象をとても柔らかなものにしていて、整った顔立ちでも人間味を与えている。

 そうやって、人間を誑かして人体実験でもしているのだろうか。彼はぼんやりと文字を眺めた。すでに、内容なんて理解していない。


 「あなたは僕に何を求めているのですか」


 「邪魔してしまいましたか?」


 宇宙人は疑問に疑問で返して来た。しかしそのことには悪気を感じていないようで、人好きのする笑顔を浮かべながら首を傾げた。


 「いいえ。でも今日はもう帰ります」


 「これから予定があるんですか?」


 本を閉じて立ち上がると宇宙人も鏡のように立ち上がった。その鏡に映っている宇宙人の方が何倍も優れているが。

 宇宙人の言葉は理解出来ない。彼は答えを返さずに歩き出した。すると宇宙人は慌てた様子で走り出す。そして机を挟んで反対側にいた彼の前まで来た。

 静かな図書室では些細な音でもとても響くのだ。静かにしてもらいたいと彼は思う。ただでさえ人目を引く宇宙人が近くにいるだけで視線を向けられている錯覚を覚えて堪らないのだ。


 「よかったら一緒に帰りませんか」


 宇宙人なのだから慌てなくともこのくらいの机難なく越えられたのではないか。やはり宇宙人であることを知られるのはよろしくないのか。彼はそんなことを考えながら宇宙人の横を通り過ぎた。やはり宇宙人語は理解できない。


 「待ってください」


 手首が温かい。宇宙人の手は滑っていて冷たいのかと思えば、実際そんなことはなかった。彼は宇宙人に捕らえられた。実験されるのだろうか、しかし何も成果は得られないと思う。

 彼は振り返って宇宙人を見上げた。こちらから見ても不鮮明な視界だ。あちらからは何も見えないだろう。

 しかし顕微鏡並みの視力を持っているらしい宇宙人は彼の眼を見た。そして笑った。「一緒に帰りましょう」と。

 帰る先は火星か、それとも未発見の惑星か。彼は宇宙人に連れられて図書室をあとにした。




 「あなたは何者ですか」


 学校の敷地を出るまで黙って歩いていた彼は宇宙人に訊ねた。


 「それって、俺に興味持ってもらえてると思っていいですか」


 また、宇宙人は疑問に疑問で答える。高等な生物の会話はそう云うものなのだろうか。下等な自分にはなんて理解のできない会話法なのだと、彼は自身を卑下した。

 未だに手首は宇宙人に拘束されている。下手に逆らって跡形もなく消されては堪らない。

 否、別にそれはそれで構わない。元々誰にも見えない生物なのだから今ここで宇宙人に消されたところで、誰にも迷惑なんて掛けない。


 「あ。すみません、痛かったですよね」


 くい、と腕を自分の方に引き寄せると宇宙人はぱっと手を離した。何だ、テレパシーは使えないのか。このまま火星でも土星でも月でも連れて行って好きにしてくれたらよかったのにと、彼は落胆した。


 「あなたはどこに帰るんですか」


 「俺は学校からちょっと遠いんですよ、電車で二駅隣の街まで帰ります」


 ようやく宇宙人から答えを得られた。なるほど、その二駅隣に宇宙人の基地があるのか。きっと未確認飛行物体がよく目撃されるのだろうと、彼は知らない街を想像する。


 「嬉しいです。ずっと話してみたかったんですけど中々声かけられなくて」


 宇宙人は物好き。彼は脳内辞書に記載しておく。今日は宇宙人に関する項目が書き加えられていく日なのだと思った。


 「あなたは、何者なんですか」


 再び、同じ質問をしてみる。もっと宇宙人の項目を埋めてみたいと思って。


 「一応同じクラスなんですけど……知りませんか?」


 宇宙人は困った顔をする。その辺りのパーソナルデータは知っている。もっとそれ以外の、情報が欲しい。宇宙人としての、彼の情報を。


 「どうして、僕なんかに構うんです」


 宇宙人は誰からも好かれている。教師からも、クラスメイトからも、他学年の生徒からも。動物も、植物も、空気も雨も太陽も。すべてが宇宙人を愛していると彼は思う。

 それなのに、誰にも見えない自分を構う理由がまったく見当がつかない。


 「あなたに興味があるんです」


 宇宙人はその高等な頭脳で自分の会話レベルに合わせてくれるようになったのか、質問に答えが返ってくるようになった。さすが、宇宙人。


 「どうして」


 「どうしてでしょう、でもとても気になるんです」


 それは、一般的な生物よりも劣る生きものがぽつりと教室の隅に存在しているからだろうか。自分のことなど誰も気にしない。見えないものを、気に掛けることなど不可能なのだから。教師からも、クラスメイトからも。他学年の生徒からも。動物も、植物も、空気も雨も太陽も。すべてが自分を知らないと彼は思う。それは、家族にいたっても。

 彼の家族だからと云って、みんな同じではない。量産型に属する人間だ。彼だけが、違う。なぜか違う。


 「僕が人間になるには早過ぎたんです」


 生命は海から生まれて、今日まで進化してきた。それはこれからも。そして繰り返している。生まれて、死んで。他の養分になって、また生を受け直す。


 「僕はまだミジンコ程度の存在です。人間なんて重過ぎる」


 理解できない。誰も彼もの言葉が暗号のように耳を通過する。


 「あなたみたいに優れた生きものじゃないんです」


 宇宙人は、偉大。ミジンコは、矮小。細胞分裂の数が、遺伝子の数が。否、そんな当たり前のことさえ宇宙人には低次元なことかも知れない。


 「そんなことありませんよ」


 宇宙人の言葉は、多解釈できる。一つの言語で様々な意味を持っている。自分にもわかるような単純な言語を使用していない。


 「俺なんてそんなにすごくないです。買い被りです」


 宇宙人は困った顔をしている。そんな顔さえ美しいと云うのに、何が劣っていると云うのか。


 「そんな不思議な考えを持っているあなたの方がすごいと俺は思います。もっと、あなたのことを知りたい。言葉を聞きたいです」


 今度の言葉は理解できた。しかし、理解と納得はまた別物だ。


 「なぜ。僕の何を知りたいんですか。何が面白いんですか」


 宇宙人の考えを、低次元な脳で理解できると思うことがおごりなのか。


 「その言葉、思想。そして」


 宇宙人の手が、鬱陶しいほど長い彼の前髪を掻きあげた。鮮明になった視界に眼を疑う。そこにはこの世のものとは思えない美しい顔があった。それは宇宙人の顔だ、当たり前だと認識するまで時間を要したほど、透明な視界で見た宇宙人の顔は美しかった。


 「この綺麗な瞳。ずっと、見てほしかった」


 動悸が、激しくなってくる。止めてくれ、止めてくれ!

 こんな事は初めてだ。彼は理解を超える自分の身体の異変に呼吸を忘れた。

 宇宙人に、今度は身体ではなくこころが捕われた。動けない。眼が離せない。意思が奪われて、何も考えられなくなる。


 「あなたはとても綺麗です。そうですね、あなたの言葉を借りるときっとミジンコから進化して人間になったばっかりなんです」


 すらすらと宇宙語で話されても耳の後ろへ通り過ぎていく。なのに、動悸が激しくなる一方で、とても目頭が熱い。何の、前触れだろう。


 「そんなあなたがずっと気になっていました。今日話してみてもっとあなたを知りたくなりました」


 ぽろっと。最初の雨に気付いた時のような希少さ。頬を温かな雫が伝う。次から次へと、それらは彼の頬を潤していった。


 「友達に、なってくれませんか」


 初めてかけられた言葉に、心臓が止まりそうだった。宇宙人が友達のミジンコ。ミジンコが友達の宇宙人。どちらにしたってひどく不釣り合いなのに、心臓が激しく動いているためかとても温かくなってきた。

 あいつは何度も人間を繰り返して、いつか宇宙人に進化した。今度生まれ変わる時は神様になってしまいそうなほど、あいつはとても貴い存在に感じられる。


 「……はい」




 また、宇宙人の項目が増えた。宇宙人の友達はミジンコ。

 そして宇宙人はいつか、神様になる。

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