アンモナイトが眠る海
紅波 珠花
退化論
彼女は自身の消失だけを願っていた。
世界ごと、消えてしまえなんて。子供らしく残酷で、無責任なことは願わずに。
ただ、自身の存在。関わった人間たちの記憶からも消失。
跡形もなく、彼女が生きていた事実すら虚偽とされるほどの、完全な消失だけを。
強い夏の陽射しが、屋上で紫煙を燻らせている彼女を照らしていた。
くっきりと。足許から伸びる影が、彼女の存在を描き出して、その青白い面に失意の色を加える。
携帯灰皿に吸い殻を押し込んで、小気味のよい音を立てて閉めた。深く、憂鬱を孕んだ二酸化炭素を吐き出す。それには毒の名残である白が混ざった。
つまらない。下らない。彼女の眼に映る世界にはまったく目新しいものなど存在せず、色褪せている。
それは、手垢がつくほど読み込ませられた物語の展開を、自然に理解しているような。未曾有の大惨事さえ予め定められている、と惑わされてしまうような。
それすらも超えて。自分はこの世界の神のような存在で、心髄を掌握しているのだと慢心するしかない、既視感尽くしの世界だった。
生憎と、彼女は無宗教で輪廻転生なんてものは信じていない。
単調な時計の針のように同じところを廻り続けている。メビウスの帯なんて高等な次元ではない。と云うのが、彼女による解釈。
斯くして彼女にとって生きていることは、同じ物語を強制的に演じさせられているような憂鬱でしかないのだ。
明敏な脳を鈍らせるためにまた煙草を取り出す。彼女がいる屋上は時折強い風が吹いていたが、オイルライターは怯むことなく煙草の先に火種を落とした。
深く息を吐く。この呼吸に、すべてが伴えばいいのに。魂なんてものが身体を離れて、機械のようになってしまえばいい。
つまらない世界に、感情なんて高等過ぎた。それだけのことに過ぎない。
「きゃっ!」
一際、強い風が吹いて灰が空に舞うのを視界に入れる。もの憂いな彼女の瞳にはそれがやけに儚く尊いものに見えた。
しかし同時に自分以外の人間の気配に感傷を捨てて、半分ほど残っていた煙草を灰皿に隠す。
「あ……」
急に現れた少女は彼女と同じ制服に身を包んでいた。あくまで優等生の仮面をまとおうとする彼女だったが、証拠隠滅を完成させるには時間が足りない。
「あ、あれ……ええー!?」
高くて元気な少女の声はいやに鼓膜を震わせて不愉快だ。
彼女の不良行為に対して、大袈裟なほどの身振りで驚きを露にしている少女に、「何かの間違えよ」なんて台詞を吐いてみたところで、白々しいことこの上ないだろう。
「学園一のしゅーさいで、さいしょくけ、け、けんけん……?」
「才色兼備と、仰りたいのかしら」
「そう! けんけんぱじゃなくて、けんび!」
蕩けそうなほど緩く、少女は笑う。反応がいちいち大きく、栗色の髪を結う髪飾りにはかたつむりのような、よくわからない生物。総合的に見て、この学校に通う年齢ではないと思わせるほどの幼い印象を、少女に感じた。
「いんちょーがふりょー。わー!」
彼女の云い分も聞かずに決めつける少女の言葉。だが、まったく邪気を感じさせない言動は彼女を苛立たせることはない。
ただ、物珍しいと。魅力的なものを求める瞳で、少女に見詰めるだけだった。
「いんちょーも人間だもんね」
少女の言葉は当たり前のことを云っているだけなのに、その言葉はやけに新鮮な輝きを持って、彼女に響く。これは不思議な感覚だった。
「まー。あたしと違っていんちょーはいっぱいの人にいっぱい期待されていっぱい大変だろうけど、百害あって一文無しだよ」
「……百害あって一利なしと仰りたいのかしら」
当たらずも遠からずな少女の間違えを訂正する彼女の口端は、緩やかに吊り上がる。
「あれ、そうだっけー?」
「ええ。でも私はその害が欲しいの」
少女は納得できない様子で、首だけに止まらず上半身を傾けた。彼女は吸いかけの煙草が入っている携帯灰皿に視線を落として、ぽつりと吐露する。
「えー? なんで?」
今度は反対に上体を傾けた少女を視界に収めて、彼女は眼を伏せた。
「私は……眠りたいの」
「ふみんしょーってやつ?」
「……そうね。眠れないの。もう疲れてしまったのに」
上体を真っ直ぐに戻した少女は高い位置で結われた髪を揺らして、彼女の前まで小走りする。
幼い体つきの少女が、逆に成熟が進んでいる彼女を見るためには自然に上目遣いになり、保護欲をそそられた。
「ええー。お医者さん行った?」
「いいえ……お医者さまには治せないの」
「不治の病?」
「ええ……」
彼女は空を見上げる。恐ろしい深海の色よりも淡い、鮮やかな蒼を。
地層の中で、海底で。生きたまま死んでいる化石のように。
彼女は、眠り続けたいのだ。
「難しいことわかんないけど」
古生代に思いを馳せていた彼女に、少女はまた蕩けそうな笑顔を見せる。
「きっと偉い人たちが勉強していんちょーの病気治してくれるよ」
「……そうだといいわね」
ありもしない、夢のようなことを。少女は実現できることのように口に出すから、彼女は柔らかな笑顔を浮かべて同意した。
「だいじょーぶ! 世の中まだまだ判明してないことの方が多いんだから。つちのことか徳川のまいぞーきんとか」
「……ええ」
彼女の声が細かったためか、少女は励ますようにその場で跳ねる。
しかし少女が例に挙げたものは、解明されていないことと云うよりは都市伝説。作り話に明確な答えなんて、どこにもないのだ。
彼女はとろんと。眠たそうな瞳で少女を見詰めた。
「あと、アンモナイト!」
「……化石の?」
「ううん。生きてるの」
「いいえ。中生代終わりの大量絶滅で恐竜と一緒に滅んだのよ」
「だって鮫が生きてて、アンモナイトがいないなんておかしいよー」
支離滅裂で、筋の通らない少女の理論は止まらず。彼女はそれ以上の論争を諦める。
なぜそれほどまでにアンモナイトの絶滅を認めないのか。彼女の興味はそちらに移って口を閉ざした。
「アンモナイトはどこかの海のふかーいとこで生きてるの。だって」
世界はまだわからないことの方が多いから。
心髄を掌握したつもりの彼女でさえ眼を向けたことも。また、少し考えたところではっきりと否定が出来ない少女の言葉に、ただ狼狽する。
だって、見飽きた世界にもまだ判らないことがあったから。
「見つけたらあもちゃんって名前つけるんだー水槽で飼えるかな?」
「見つかると、いいわね」
あまりにも無垢な少女が眩しくて。彼女は感嘆の気持ちを込めた言葉を掛ける。こんなにも純粋で、美しい心を彼女は知らなかった。
「えへへー。ありがとう、いんちょー」
綿毛のように柔らかな少女の髪を撫でて、額にキスをする。少女は懐かしい、干したての布団のような。日向ぼっこをしている猫のような、とても温かな匂いがして、鼻の奥が痛くなった。
「いんちょー笑った。えへへー」
少女は彼女の優等生の仮面を見破っていたようだ。久しく浮かべていなかった心の底からの笑顔に、彼女自身が一番驚く。
気が付けば彼女の世界は色褪せていた。つまらなくて、下らなくて。新しいものもなく、感動もない、平坦な毎日。
繰り返す毎日に飽きて、生きているのか、死んでいるのか。当たり前のことすらわからないほど、鼓動は緩やかだった。
直線寸前だった鼓動が、強く脈打つ。
化石の中で、ゆっくりと目を覚ました。
まだ、生きている。海の深淵で藻屑と消えかけていたところを、少女に拾い上げたられたことで息を吹き返したような。とても新鮮な気持ちだった。
アンモナイトは生きている。静かに、蒼然たる海底で。
私は、神様になんて、なりたくない。
この純粋な少女のために、退化したい。
少女の海を穏やかに揺蕩う、アンモナイトになりたい。
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