水の夢 - 10 -
昨日ランドセルを放り投げて出掛けたことを母に叱られたため、今日はきちんと部屋に置いてから病院に走った。
瑞貴がいる場所はわかっている。今日はエレベーターで一気に十階まで行き、昨日と同じ非常口に近い病室に入った。彼女がいるのは何階なのだろうか。エレベーターでは十階が最上階とされているはずだ。
しばらく待ってみた。それでも誰も来る気配はなく俊樹は病室を出て、非常扉を開ける。階段を上り、昨日瑞貴がいた病室の前に立った。
昨日のことは夢ではなかったようだ。明かりが点いていることに安心して扉を開ける。
室内から漂う瑞貴の匂い、ベッドの上で静かに眠っている姿は、童話で見た姫君のようだった。
「瑞貴……」
昨日と違い、今日は時間がある。だから傍にいたくて歩き出した途端、瑞貴は飛び起きた。思いきり眼を見開いてこちらを見ている。顔色は青ざめていて、その表情は何かに怯えているように見えた。
「み、ずき……」
しばらく瑞貴は自分の身体を守るように抱きしめたまま、視線を向けていた。しかし不意にその表情が驚きに変わって、首を傾ける。
「と、しきくん……?」
ひどく掠れて細い声だったが確かに、瑞貴は俊樹の名前を呼んだ。その事実は、今まで諦めずに探し続けたことが無駄ではなかったと、確信を与えてくれた。俊樹は院内であることを忘れてベッドに向かって走り出す。
「み、ずき……瑞貴!」
ぼろぼろと理由のわからない涙が次から次へとあふれ出してきた。傍へ行き身体に触れる。ひんやりとしていたが生きている人間の温度で、俊樹は更に涙を流した。これは安堵の涙なのだと悟る。
「会い、たかった……っ」
ぴくりと。瑞貴の身体が揺れた。何かあったのかと顔を上げると、とても困ったような表情を浮かべている。それでも頭部に乗せられた手のひらは優しく、宥めるように撫でてくれていた。
しばらくしゃくり上げていると感情の昂りが落ち着いてくる。よかった、と云うように瑞貴はぎこちない笑みを浮かべて俊樹の頭から手を下ろした。
その手首が視界に入って、俊樹は愕然とする。
「瑞貴、身体調子悪いの?」
手の甲には過剰と思えるほどのテーピングがされていて、そこから伸びる管は点滴に繋がっていた。そのただでさえ痛々しい状態に加え、手首は子供の俊樹より細くなっている。これらを見れば当然の疑問だ。
「……大丈夫、だよ」
眼を細めて瑞貴は緩く頭を振った。けれどはいそうですかと納得できる状態ではないと。子供でさえ理解できる有り様だった。俊樹は無意識に非難を込めた眼で彼女を見上げる。
「嘘吐くなよ。じゃあ何でこんなとこにいるの?」
「…………」
瑞貴は何も答えない。唯一感情が垣間見える瞳も閉ざされていては、何も読み取ることができなかった。
「……みかさん、元気?」
再び瞳を開けた時にはわずかに微笑みさえ浮かべていて。瑞貴は疑問に答えてくれる気はないのだと悟った。
「元気……だけど瑞貴のこと心配してる」
昨日、瑞貴をこの病室で見つけたことは母、みかには云えなかった。教えたら安心させることができたというのに、なぜか。
「……俊樹くん、もうここに来てはだめ」
「やだ!」
考える前に口が動いた。瑞貴は眉を顰めて、瞳は切実さを訴えていたがこれだけは譲れない。
「俊樹くん……」
困ったような、甘えたような声で名前を呼ばれて少しだけぐらついた。しかし俊樹の決意は固い。それを感じ取ったのか、瑞貴は細くため息を吐いた。
「……では、これだけはお約束して?」
瑞貴は二つのことを条件に挙げる。
瑞貴がここにいることを誰にも云わないこと。
それからきちんと勉強をすること。
俊樹は二つ返事で承諾した。そんなことで瑞貴に会えるのなら何の障害でもない。
そしてやはりみかに云わなくてよかったのだと安堵したのだった。
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