夢幻の人 - 13 -

 「はあ……どうしましょうね、私が壊したことにしておきますけれど」


 そう、ひとしきり笑った瑞貴は云う。すぐにまた笑いのツボを刺激されたのか笑い出した。


 「な……っありのままでいいじゃん」


 納得のいかない俊樹は、すぐにその意見を却下する。


 「そうなると、あの子たちのことを話さなくてはいけなくなります」


 必死に笑いを堪えながら話す瑞貴とその内容があまりにも不釣り合いで、俊樹は眩暈を感じながらも不機嫌さを露にした。


 「庇うのかよ」


 「だって、子供たちに襲われた上に椎名くんが扉を壊しっ……」


 客観的に見てもただならぬ出来事を、瑞貴はさも愉快な笑い話のようにしている。

 それでは先ほどまでの危うい姿は何だったのかと。俊樹は違和感を抱かずにはいられなかった。

 ただ、一度笑い出したら中々収まらない笑い上戸だと云うことは変わらないようだと、俊樹は現実から眼を逸らしたい思いに駆られる。


 「では、私が鍵を無くして扉を……っ」


 瑞貴にとっての笑いのツボは扉を壊したことなのだろうか、それとも壊したという単語なのだろうか。


 「センセーには絶対壊せないって」


 瑞貴の壊れっぷりにあの頃はどうやって対処していたか。このままでは笑い死にかねないと刹那の現実逃避から戻ってきた俊樹は髪をくしゃっと乱して考える。


 「あ……血が」


 ぴたりと瑞貴の笑いが止まった。こんなことで死なれなくてよかったと俊樹は自分の手に眼を向けたが、大したことがない傷だとわかるとすぐに視線を外す。


 「手当てしましょう、棘が刺さっていたら大変です」


 「平気だって、そんなへましないよ」


 云いながらすでに乾いた血を舐めても瑞貴は首を振ってベッドを降りた。

 薬品棚へ向かう背中を眺めつつ、いつまでもここにいると変な誤解を招きそうだと俊樹もベッドを降りようとした。しかし、シーツの上にシュシュが落ちているのを見つけると動きが止まる。

 これに瑞貴が必死に抵抗した痕が見えた気がして、俊樹は一発くらい殴ってもよかっただろうかと思いながらシュシュを拾った。

 そしてベッドを離れて手近な椅子に座ると瑞貴も隣に座って、傷口を丹念に確認したあとアルコールを含ませた脱脂綿を傷口に当てる。


 「別にいいって云ってんのに」


 「だめです」


 その表情は先ほどまで大笑いしていたとは思えない真剣なもので、こびりついた血も綺麗に清められて仕上げに絆創膏を貼られた。


 「じゃあさ、センセーが鍵なくして、たまたま通りかかった俺が壊した。これでいいんじゃない?」


 嘘には半分の真実を混ぜると現実味を帯びる。俊樹は百歩譲ってあの生徒たちを庇うことに協力する意見を述べた。


 「でも……椎名くんも怒られてしまいます」


 「別にいいって」


 叱られるのは日常茶飯事なので、まったく気にせず俊樹は返した。

 しばらく瑞貴は考え込んでいた様子だが他にいい案が思いつかなかったらしく、俊樹を見る。


 「わかりました。それではすみませんが椎名くんのお名前を借りますね」


 「共犯者だね」


 この一件の全貌は俊樹と瑞貴しか知る者はいない。

 その秘密を共有することを俊樹は共犯と云い、悪戯を企てる子供のように笑った。

 それに釣られるように、瑞貴も造りものめいた微笑ではない本当の笑顔を浮かべて頷く。

 善は急げと立ち上がった瑞貴の髪が揺れたのを見て、俊樹は反射的に細い手首を掴んだ。

 他からかかった力に瑞貴は従って再び座り「どうかしました?」と小首を傾ける。


 「髪、解けてるよ」


 云われて初めて気がついたようで瑞貴は髪を簡単にまとめて、片手で白衣のポケットを探り出した。そんな瑞貴の背後に立った俊樹は手櫛で髪を梳いて、綺麗に整えてやる。

 そして先ほど拾ったシュシュをまた解けないようにしっかりと髪に巻きつけた。髪を下ろした瑞貴は無駄に艶っぽさを増すから、あまりのこの姿を他の人間に見せたくない思いが俊樹にはある。

 一方瑞貴は自分の髪から手を離して、落ち着かない様子で視線を彷徨わせていた。


 「……自分ででできますよ」


 ぽつりと。拗ねた子供のような瑞貴の声が届いて、俊樹は表情を緩ませる。きっかけは最悪だが、少しずつあの頃の瑞貴が戻ってきているような気がして。


 「センセーの髪細くてやわらかいから。ちゃんとやらないとすぐ解けるよ」


 俊樹はさらさらと滑り落ちる瑞貴の髪を弄びながら言葉を返した。

 そんな俊樹の言動に瑞貴は不服そうではあったが「ありがとうございます」と礼の言葉を述べて、立ち上がる。


 「よし。じゃあ河島のとこに行くか」


 それから共犯者2人が職員室へ出向き、瑞貴は俊樹の担任教師であり生活指導も受け持っている河島に事情を話した。すると、河島は先ほどの瑞貴のように豪快に笑い飛ばす。


 「え……?」


 「この人、これが普通だから」


 瑞貴はひどく動揺していた。しかし、慣れている俊樹はなおも笑い続けている河島を指差して、呆れたようにため息を吐く。


 「ね。大丈夫だって云ったでしょ」


 ぱちぱちと忙しなく瞬きを繰り返す瑞貴が不憫で、俊樹は「そういうことだからよろしく」と河島に声をかける。そして返事を聞かないまま瑞貴を連れ立って職員室をあとにした。

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