夢幻の人 - 12 -

 「……センセー」


 完全に他の人間の気配がなくなった室内。俊樹は先ほどの剣幕が嘘のような優しい声で名を呼んで、足音を立てずにベッドに近づく。

 途端に強く香った甘い匂いと、乱された衣服から覗く艶かしい肌があまりにも眼の毒で。俊樹は必死に視線を逸らしながらシャツのボタンを留めて、着衣を正した。

 そのまま視線を戻して瑞貴を見る。すると先ほど視線が合ったのは気のせいだったのか、その瞳は天井を映しているが、実際は何も見ていないようにも見えた。

 そしていつも背中で纏められている長い黒髪が羽根のようにシーツの上に広がっていて、不謹慎だがとても綺麗で眼を奪われる。


 「……、……ぃ」


 不意に、瑞貴の唇が震えた。しかし乾いた喉に阻まれて言葉にならないようだ。聞き返すことをせず黙って様子を窺っていると、もう一度同じように唇が動く。


 「ご、めん、なさい……、いい子に、な……、ら、ゆるして……」


 言葉として認識できた内容に、俊樹は驚きを隠せずに眼を見張った。

 何度も謝罪の言葉を繰り返しながら、瑞貴は胎児のように身体を丸める。それから震える腕でぎこちなく頭部を覆って湿った呼吸を繰り返した。

 その姿は何も見聞きしたくないと云っているように感じられて、俊樹は共有しているだろう記憶の断片を脳裏に浮かべて腹立たしい気持ちを必死に噛み締める。

 俊樹は何も云わずに瑞貴の様子を見守りながら、内面の葛藤を感じさせない手つきで、無防備な背中を撫でた。

 最初は恐怖からかびくりと全身を震わせたが、ゆっくりと何度も繰り返しているうちにふっと身体から力が抜けて、震えが緩和されていく。

 丁寧に撫で続けて完全に落ち着いたと感じられるようになった頃、寝返りを打って仰向けになった瑞貴とばっちり眼が合った。


 「——俊也……?」


 瑞貴が呼んだ自分以外の名前に俊樹は瞠目して言葉を失う。苦々しい思いを感じた俊樹は瑞貴の視界から逃げ出した。背中からも手を離して、そのまま顔を覆う。

 今眼の前にいるのは自分なのに、どうして、と。

 その一方で、虚ろだった瞳が色を取り戻してくると驚きからだろう、瑞貴はすぐさま起き上がって辺りを見回した。落ち着きのない様子で寝乱れた髪を撫でながら、傍に立つ俊樹を無防備な表情で見上げる。

 一連の動作を見ていた俊樹は、自分に衝撃を与えたひと言を瑞貴は覚えていないと思えて、僅かながら心を鎮めることができた。

 しかし瑞貴の方は、ここに至るまでの経緯を思い出したのか、表情はだんだんと影をまとっていくように見える。


 「椎名くんが、彼らを……?」


 無言で頷くと瑞貴の眉尻がすまなそうに下がった。その視線は俊樹の手によって整えられた衣服に向けられていて、先ほどちらりと視界に入った白い肌を思い出した彼は咄嗟に口許を覆う。


 「お恥ずかしいところを……申し訳ございませんでした」


 瑞貴はいつも通りの微笑を浮かべたかったのだろう。だが、上手くいかず涙を堪えるような表情を浮かべて、シーツに視線を落とした。


 「怖かったでしょ、センセーは謝んないでよ」


 その姿が頼りなく見えた俊樹は、先の邪な考えを振り捨てて、そっと瑞貴の表情を隠している長い黒髪に触れる。

 その髪を背中に流して整えながら撫でていると、眼に見えるほどの強張りを、あらわになった面に見せた。それでも気まずさが勝っているのか、瑞貴は俊樹のされるがままになって、眼を伏せている。


 「……あ」


 不意に冷静になった俊樹は思い出した。ここに入室した時の状況を。

 開かれたカーテンから見える被害者の無惨な姿を視界に入れたあと、再び視線を戻す。すると瑞貴も扉があった場所を見ていたようで、不思議そうに瞬きを繰り返していた。

 俊樹は何を云われるかと、様子を窺う。必死だったとは云え、ただ事では済まされないだろうと。


 「……ふっ」


 ところが、叱られるか、呆れられると思っていたのになぜか瑞貴の口許は緩んでいく。

 そして今までの微笑が嘘のように口許を押さえて本当におかしそうに、声を上げて笑い出した。

 いったいどこが笑いどころなのか。ただわかるのは相も変わらずまったく理解できない笑いのツボの持ち主らしいと云うことだった。

 つい先刻までの瑞貴と、今の瑞貴は別人だと思われる変貌を目の当たりにした俊樹は、開いた口が塞がらない。

 それでもあの時のように変調を来さなくてよかったと。俊樹の安堵のため息は、瑞貴の笑い声に掻き消されたのだった。

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