夢幻の人 - 5 -
奥深くに沈んでいた意識が、覚醒へ向かおうとしている。
そんな微睡みの中、カーテンを引く音が俊樹の耳に届いた。そして冷たい指先が額に触れた時、急速に感覚を取り戻す。
前髪を払うようにそっと細い指が動き、整髪剤で固めた髪を優しく梳かれる。
その心地好さに俊樹は浸っていたかったが、不意に目蓋がぴくりと震えると校医の手は止まってしまった。
そのまま目蓋を上げた俊樹の視界は日中よりも鮮明で、眼の前にあった校医の顔を食い入るように見つめる。
「瑞貴……?」
俊樹は確信を持って、瑞貴と呼び掛けた。すると彼の考えを肯定するかのように校医……瑞貴は口端だけを上げて、「先生と呼びなさい」と云う。
「瑞貴、今までどこで何を……?」
しかし、動揺した俊樹にそんな決まりごとなどどうでもよくて、間を置かずに訊ねた。だが、瑞貴は何も答える素振りを見せずにただ首を横に振る。
「椎名くん、今は先生です。まずは落ち着きなさい」
冷静な瑞貴の言葉に落ち着いていられず俊樹は身体を起こした。だが、視界が真っ白に染まる。
日中と同じ耳鳴りに襲われて頭部を真っ直ぐに保てず体勢を崩したが、すかさず手を伸ばした瑞貴に支えられて事なきを得た。
耳鳴りの不快感に眼を細めながらも身体を支える瑞貴の腕を掴んで、その無感情な瞳を覗く。
「センセー。あのあとどうしたんだよ、みんな心配してたし」
「……あの時は、申し訳ございませんでした」
瑞貴は言葉を探すように僅かに瞳を泳がせて静かな声で謝罪を口にした。
しかし、それで納得できない俊樹はなおも食い下がる。
俊樹はあの日から今までの空白の五年間、瑞貴がどうしていたのかを知りたいのだ。
赤く染まった水の中で冷たくなって、「泣かないで」と笑った姿が俊樹に残された、最後の記憶。
そんな言葉を残して消えてしまった人が、再び現れたのだ。まだ高校生の俊樹が、平静でいられるはずがなかった。
「謝ってほしいわけじゃない。俺は……」
「椎名くん。もう帰らなければならない時間です。今日は、お家までお送りしますから」
「っ話は……!」
俊樹の言葉を遮って瑞貴は淡々と口にした。時間がわからない俊樹はその言葉に反論することはできず、はぐらかされるしかない。
俊樹の沈黙を納得と判断したらしい瑞貴は、力ない拘束からあっさり逃れてカーテンを開ける。
離れていく背中と一緒に視界に入った窓の外は闇が落ちていて、瑞貴の言葉が云い逃れだけではなかったことわかった。
瑞貴は薬品が納められた棚に鍵をかけて、ロッカーへ向かう。そして白衣を脱いでハンガーにかけてしまうと、代わりに荷物を取り出した。
それと机の上にあった学級日誌と似ている冊子を持ってベッドに戻ってきて「起きられますか?」と訊ねる。
白衣を脱いだ瑞貴の姿は、俊樹の記憶の中で重なる部分が多く、返事を忘れてただ見つめた。
「椎名くん?」と呼び掛けられて現実に戻ってきた俊樹はゆっくり起き上がる。ようやく首が据わって安定するようになっていた。
それでも続く重力を失ったかのような錯覚を振り払うべく首を回していると、見覚えのある学生鞄が視界に入る。
「お友達が持ってきてくれましたよ。お大事に、と言付かりました」
俊樹の視線に気がついた瑞貴は、彼の疑問に答えた。俊樹の中にはすぐにそのお友達二人の姿が浮かび、納得して浅く頷くとベッドから降りた。
瑞貴が校医になっていると知っていたのならもっと早くきたのに、なぜ誰も教えてくれなかったのだろうか。
鞄を受け取り疑問を抱えつつ歩き出した俊樹の足取りは、日中とは比にならないほど平常に戻りつつあった。
そのまま昇降口まで一緒に歩き、「すぐ迎えにきますので、ここで待っていてください」と云い残して、瑞貴は職員室へ歩いていく。
その足取りは俊樹と歩いていた時よりも早く、急いでいることが窺えた。
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