夢幻の人 - 4 -
そのあとも、二人の間に会話はなく、俊樹は熱にうなされながらも回復を信じて眠り続ける。
それから五時間目の開始を告げる音を聞いて、俊樹はのっそりと亀のように顔を上げた。
やはり回復の兆しは一向に見えず、顔色は青を通り越して白くなっている。
いっそのこと早退してしまおうか。考えてみたところで上体が重力に従って机の上にへばりついた。
そんな状態の時にがらがらと扉を開けて入って来たのは歴史教師でありまた担任でもある河島で、彼が教壇に教科書などの持ち物を置くと号令がかかる。
「きりーつ」
椅子を引きずる音や、机が揺れる音とともに生徒たちが立ち上がるが、俊樹は同じことができずにいた。
教室を見回していた河島は教室の後ろで一人だけ立ち上がっていない俊樹に気づいて、視線を止める。
「おーい、椎名ー。起きろー」
茶目っ気のある河島の声かけに、俊樹の体調不良を知らない生徒たちからどっと笑いが起きた。
しかし、俊樹は動けない。生徒たちの笑い声も遠くで聞こえて、まったく身体に力が入らないのだ。
いつもと違う俊樹の様子を疑問に感じたのか、河島は生徒たちの間を縫って彼の席まで歩いて来た。
そして背中に触れる。すると俊樹の体温の高さに驚いた様子でそこから手を離して、軽く肩を叩いた。
「椎名、お前すごい熱だぞ。おい、保健委員、椎名を保健室に」
呼ばれた生徒が立ち上がろうとした時には、既に保健委員ではない水那が立ち上がっていた。が、俊樹は頑なに首を振る。そんなことは、今の彼にとって死刑執行と変わらない。
「無理をしても仕方ないだろう、そんな状態で」
「やだ……あいつんとこ、行きたくない」
噂で聞く養護教諭の姿を思い浮かべた俊樹は、悪寒にも似た震えを感じて最後の力を振り絞った。いつもより重たい頭を上げ、拒む意思を伝える。
「ん? ……ああ、それなら心配ないから安心して行ってこい」と河島は妙な間を持たせて答えた。
何が心配ないのか。普段は生徒たちの立場に立って大体のことは容認してくれる河島の姿が、今日は悪魔のように見えて俊樹は眉を顰める。
しかし、時計を見てもう五時間目が始まってから大分時間が経過していることに気がついた俊樹は、ついに絞首台へ立つ決意を固めて肺の空気をすべて吐き出した。
「……一人でいいから、授業始めなよ先生」
そう云って両手を机につき、そこを支点に立ち上がる。途端に重力を忘れてしまったかのように頭部が後ろに反って、俊樹は体勢を崩した。
河島に支えられて初めて、眩暈を感じたのだと気がついたが、それでも一人で十分だと首を振る。
そして自分ではしっかり歩いているつもりでも、傍からは頼りなく見える足取りでよろよろと歩き出した。
今朝と同じように静まり返った廊下に出ると、空気がひんやりしていてほっと息を吐く。
だがその足取りは重く、階段を下りて昇降口と保健室へ続く廊下の分かれ目に着いた時、ついに俊樹の足は止まった。
このまま帰ってしまおうか、という考えが芽生え始めているが、がくんと頭部が揺れた衝撃を契機に俊樹は気がつく。
そもそもこんな調子では無事に家まで帰れる保証がないということに。
こんなことになるとわかっていればもっと早くに実行していた。数時間の自分を恨みながらその考えを捨てて、俊樹は保健室がある廊下へ足を向けた。
ゆっくり、ゆっくりと。少しでも到着を遅らせようと涙ぐましい悪あがきをする。それでも俊樹は廊下の果てにたどり着いてしまい、眼の前には保健室の扉が見えた。
そこから、動けなくなる。ただこれから執行されるであろう刑の内容を想像してはため息を吐いたり、ノックをしようとしては手を下げたりと落ち着かない。
そして頭を抱える。これは痛みからなのか、それとも自身に降りかかる悲劇を嘆いてなのか。
しまいには寒気に襲われ始めた俊樹は、自分の体力の限界を感じて眼をつむる。
もう覚悟を決めるしかない。そんな決意を感じさせる眼で無害な扉を睨みつけながらゆっくり、叩く。一回、二回。
出て来るのは鬼か蛇か。それとも死神に鎌でばっさりと切りつけられるのか。
体調不良とは別な理由で心拍数を上げながら、永遠と思える五秒あまり、俊樹は養護教諭の判決を待った。
「はい、お入りください」
返ってきたのは、女性の声。噂では養護教諭は中年の、言葉は悪いが『オヤジ』というあだ名で呼ばれる人間のはずだ。
やわらかく、甘い声は噂を元に俊樹が想像していたものとはまったく違っていた。
それどころか聞き覚えがあるような気さえして、また心臓が暴れる。
まったく壮絶な覚悟は何だったのだ。中から聞こえた声の穏やかさに拍子抜けした俊樹は、ぎこちない動きで扉を開けて室内にいるであろう養護教諭の姿を探した。
眼についたのは棚の前でよくわからない液体が入った瓶を整理している人物の後ろ姿で、その背中には緩く束ねられた艶やかな黒髪が揺れている。
身体に合わない白衣はその人物の細作りさを際立たせていたが、同時に不格好な印象も感じた。
そして、薬品を納めたのか養護教諭らしき人物は振り返る。その動きは時間感覚が狂ったのかと錯覚するほど、俊樹の眼にはゆっくりに見えた。
ふわりと。空気に乗って届いた懐かしさを感じる甘い香りに俊樹が気を取られているうちに、養護教諭は彼の前に立っていた。
より強くその匂いを嗅覚で感じていると、冷たい指が手首に触れる。
熱を持った身体にその温度は心地好く感じられた。俊樹は懐かしい匂いの持ち主が気になって視線を向けるが、養護教諭の頭は随分下にある。更に俯いているためか前髪で顔が隠れていてはっきりと見えない。
「ベッドまで、歩けますか?」
腕時計に視線を落としたまま訊ねた養護教諭は、先に俊樹が感じた通り、華奢だ。身長も平均より高い彼の胸の辺りまでしかない。
それでも俊樹が頷いて答えると、力が抜けた彼の腕を自分の肩に乗せて、腰に腕を回して支えながらゆっくりと歩き出す。
ここまで一人で歩いてこられたこともあり問題なくベッドまでたどり着いて「ゆっくり横になりますよ」と支えられながら清潔なシーツに身体を預けた。
その時、俊樹は初めて養護教諭の顔をはっきりと認識する。
「……え?」
疑問符は、思わず俊樹の口を吐いて出た。それを不思議そうに見下ろす養護教諭と、しばらく言葉もなく見つめ合う。
この懐かしい匂いの持ち主が大人に成長した姿だと確信できるほどの面影が、養護教諭にはあった。
日本人が持っていない肌の白さに、小さな輪郭。それにやわらかで艶やかな黒髪一本をとっても、似ていない要素を探す方が困難に思われる。
はっきりと確信を持っているのに、俊樹の唇は空回りするばかりで、言葉が出てこない。
瞬きをしたらおぼろげな存在が消えてしまいそうで視線を逸らせずにいると、扉を叩く音がこの雰囲気を破った。
止まっていた時間は動き出して、養護教諭はふっと視線を扉へ向ける。
「すみません、楽にして待っていてくださいね」
白衣のポケットから体温計を取り出して、俊樹に手渡すとそのままカーテンを引いて離れていった。
云われた通りに身体から力を抜いて、体温計を脇に挟んだ俊樹は眼を閉じる。
間違えなく、ずっと探していたあの人だと。熱に侵された脳裏に懐かしい人と、養護教諭の姿を重ねた。
なぜあの人がいるのか、噂の養護教諭はどこへ行ったのか。
疑問が更に俊樹の熱を高めていくが「生きていて、くれた」と口許にかすかな安堵を刻んだ。
そう待たずに電子音が鳴り、結果を見た俊樹は顔を引きつらせる。視覚に与えられた情報は衝撃的で、見間違えではないかとその数字を見直していると、養護教諭が戻って来た。
「計れましたか?」
衝撃に固まっている俊樹の手から体温計を取って、表示を見た養護教諭は大した驚きも見せずに、用意していた氷枕を彼に見せる。
早く恩恵を得たくて重たい頭を上げると「少し冷たいですよ」と氷枕が置かれて、俊樹はすぐに体勢を楽にした。
熱が吸収される心地好さに安堵の息を吐く。その傍らで養護教諭は引き出しから一枚の用紙を取り出して、記入を始めた。
「三十八度一分ですね、お熱はいつから出ていましたか?」
「たぶん、朝から」
「となると朝ご飯もお昼ご飯も食べていませんか?」
病院で聞くような内容を訊ねながら記入を続けている様子を、俊樹はじっと見つめている。その視線に気がつかないまま養護教諭は問診を続けた。
「食欲ない」
「そうですか……だから朝礼であなたのことを見かけなかったのですね」
用紙から顔を上げた養護教諭は、俊樹のたんぽぽのような髪を見て首を傾ける。
「別に、いつも出てない」
決まりの悪さでついぶっきらぼうになってしまった言葉に養護教諭は僅かに眼を見開いたあと、「そうですか」と微笑を浮かべた。
「では私のことをご存知ありませんよね。本日から臨時で校医を勤めています、朝香です」
自己紹介を済ませた養護教諭もとい、校医は再び視線を用紙に向けて、「あなたのお名前と学年も教えていただけますか」と訊ねる。
じっと、俊樹は朝香と名乗った校医を見たまま、答えた。
「一年三組の……椎名、俊樹」
俊樹の視線のためか、名前を書いていたボールペンを持つ校医の手が僅かに揺れて、途中まで整っていた文字が歪んだ。
しかし直すことなく記入を終えた校医は改めて俊樹を見つめて「椎名くん、ですね。覚えましたよ」と額に手のひらを乗せ、うっすらと笑みを浮かべた。
「少し眠ってください……眼をつむるだけでも楽になりますよ」
固められた前髪を撫でる指先が心地好く、段々と目蓋が重くなってくる。その様子を見た校医がカーテンの向こう側へ姿を消したところで、俊樹の意識は途絶えた。
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