第20話;屋台で鍋振る女性

 部屋の電気を消した南だが、眠りは訪れなかった。ずっと、博史の事が頭から離れなかった。

 眠れないと思った南はこっそり部屋を抜け出し、彼の部屋に訪れた。


「えっ?南ちゃん、どうしたの!?」


 既に眠っていると思われた南の訪問に、博史は驚いた。そして扉の向こうの彼女が、悲しい顔をしている事に気付いた。


「美緒ちゃんと、何かあった?」


 何も分からない博史は南を部屋に入れ、落ち着かせる事にした。


「……博史さん…。」


 ソファーに座ると、南は泣き出した。


「私は…私は、どうしたら良いのか分かりません。博史さんの事や、美緒の事、麗那さんの事や香の事…自分がどうやって皆と接して行けば良いのか…分かりません。」

「あっ……。」


 南が泣き始めた原因は分からないものの、博史は気持ちを察した。

 そして焦った。彼女の言葉に、自分の名前も入っているのだ。まだ自分と言う存在が、南を苦しめているのか?それが心配になった。


 博史は、南が強くなったと思っていた。南自身もそう考えていた。

 だが彼女は改めてこの国を訪れ、傍観ではなく実感として国の実情や貧困に苦しむ人の姿を見た。


「私はやっぱり、皆とは違います。戦争の苦しみや悲しみを知りません。分かってません。博史さんが今でも引きずる、体に染み残った経験は、私が理解してあげようとしても、出来ないくらい大きくて…。」

「……。」


 今の言葉を博史は理解出来ない。先程見せた食欲は、過去の苦労が原因だと言う自覚がないのだ。下手をすると、人は皆、寝る前に満腹でないと眠れないと考えるほどなのだ。

 ただ、南の苦悩は理解していた。出会ってからこれまでの間、博史はずっと彼女を心配しているのだ。



「…少し、外に出ない?」


 良い返事が浮かばない博史は南を外に連れ出し、散歩をしようと誘った。

 寝間着を着ていた南は博史に服を借り、彼について外に出る事にした。


 外に出て、南は大通りが眠らない街である事を知った。人混みは少ないものの、深夜の1時を過ぎた今でも露店の照明は辺りを明るく照らし、多くの車が目の前を通り過ぎて行った。

 2人は大通りに沿って歩き出し、明るい街並みを見学した。露店では店員が一生懸命に料理を作り、買い物客と値段交渉する姿が見かけられた。


「……。」


 博史は足を止め、南に質問を投げ掛けた。

 バス停のベンチに腰を下ろすと、通りの向こう側の露店に、熱心に炒め物を作る女性店主の姿が伺えた。


「南ちゃん…さっきの話だけど……」

「……。」


歩き始めて10分、やっと2人の間で会話が行われた。南は涙を見せなかったものの、まだ暗い表情のままだった。


「僕は…僕の過去や苦しかった経験を、南ちゃんに押し付ける気はないよ。それを分かって欲しいと言うのは僕の我がままであって、南ちゃんの人生とは、全く関係がないものなんだ。」


 博史の言葉に、南は残念がった。彼女にとってその言葉は、博史との距離を示す言葉にしか聞こえなかった。


「過去は過去だよ。それに捕らわれて生きてはいけない。僕のお祖父ちゃんは、それで自分の命を絶った。お祖父ちゃんなりに考えての事だったと思うし、楽になれたのなら、僕はそれで良いと思う。」

「……。」

「けど、僕はそんな生き方を、過去に捕らわれるような生き方を望んでいない。会社に就職して、仕事を頑張って、もっと前向きな生き方がしたい。」

「……。」

「それでも僕は悩んだ。…君と出会ってしまったから…。」

「……。」

「君に会うまでの僕は、イースト・Jに対して何も関心がなかったと思う。ただただお祖父ちゃんの時代から負って来た懺悔だけを感じていた。漠然とね…。でも、君に会った時、その懺悔は恐怖に変った。イースト・Jの君を、怖いと思ってしまったんだ。」

「……!?」

「だから僕は君を、2回も避けた。それまではイースト・Jに懺悔をしながらも、羨ましいと思った事もあったし、多分、恨んでもいたと思う。でも君に会った瞬間に、その思いは懺悔だけになった。羨ましいと言う気持ちはなくなって、君のような人を、僕のお祖父ちゃんやウエスト・Jの人は殺してしまったのだと思った…。」

「……。」

「君もそうだったと思うけど、僕は最初に君を見た時、ウエスト・Jの人だと思った。でも実際は違っていて、君はイースト・Jの人だった。正直、ショックだったよ。イースト・Jでも同じ言葉を話して、同じ顔つきをしていて…。自分から言わない限り、どちらの国の人なのかは分からないんだと気付いたんだ。」


 南は博史の言葉に、ショッピングモールでの出会いを思い出した。


「そしてウエスト・Jに帰った後、色々考えたんだ。何故、僕らは戦争を起こしてしまったのか…?戦争にまで発展した理由は何なのか…?似ていると言うより、同じと思える人達同士が、どうして争い合ったのか?僕は気になって仕方がなかった。そして結論に達した時、僕の懺悔は深く大きい物になってしまった。『やっぱり、人を殺めてしまったのは、戦争を始めてしまったのは、僕らの過ちだった』って。そう結論が出たんだ。」

「……。」

「どんな理由であろうが、戦争を起こして人を殺めるのは良くない。」

「…でも、イースト・Jがウエスト・Jを苦しめたのが、戦争の理由じゃないですか…?」


 南はそこで博史の話を止めた。質問とは違う返事をくれる博史が気になり、また、自分を責め始めた彼を止めたかった。彼がこれ以上に過去を背負ってしまえば、自分との距離がもっと遠くなると思った。

 しかし博史は、止める事なく話し続けた。


「そう…。イースト・Jにも問題があった。」

「!」


 南はその言葉に驚いた。彼が、東側にも問題があったと話したのだ。ずっと自分の懺悔だけを話していた博史が、そのような言葉を口にしたのだ。

 自分の国を悪く言われた南だが、むしろそれを嬉しく思った。彼が自分を責めてくれる事で、過去を背負える気がしたのだ。


「イースト・Jにも問題があったし、そして、ウエスト・Jにも問題があった。でも一番悪いのは、自分と他の人を比較しようとする、人間の恐怖心にあると思うんだ。」

「??」

「誰かが自分と他の人を比べて、人よりも足りない何かを感じたり、何かを持っていると思ったりする事自体が、人間を狂わせると思うんだ。足りないと感じた時は相手に対して劣等感を感じて、それが発展すると人を恨んでしまう。逆に誰かよりも多くを持っていると感じた人は他の人達を見下げて、それが酷くなると差別したりするんだ。」

「……。」

「人はそうやって、誰かを恨んだり蔑んだりする事で、自分の立場をはっきりさせようとする。優越感を得て、そこに安定を感じる…。それがいけないんだ。」


 そこまで言うと博史は、道路の向こう側に見える屋台の主人を指差した。


「あの人を見て、南ちゃんは何か感じるかな?」

「…あの人を……ですか?」


 南は博史が指差す方向を向いて、白い湯気を立てて鍋を振り回す女性の姿を見た。

 その姿は、ただただ懸命に美味しい食事を提供しようとしている、母親のような女性に見えた。


「僕は、そんな南ちゃんが好きだよ。僕は君が、そのままであって欲しいと思う。」


 南の返事に博史は微笑んだ。

 南は息を飲み、顔を少し赤らめた。


「多分…他の人はあの女性を見て、見下げると思うんだ。こんな遅い時間に、しかも屋台で鍋を振り回している女の人を、きっと周りの人は悪く捉える。まともな勉強も出来ずに、人が嫌がる仕事をしていると考えるはずだよ。」

「……。」

「勿論、あの人を見て、『仕事があるだけ羨ましい』と思う人もいるだろうね。でも、そのどちらも良くない考えだと僕は思う。自分よりも上か下か、それを考える事自体が他人への警戒心であり、恐怖心なんだよ。そしてそこから優越感や劣等感が生まれて、それが大きくなって行くと、やがて人は争いを始めると思うんだ。」

「……。」

「僕は、誰かをそんな目で見ない南ちゃんが大好きだよ。覚えてくれてるかな?僕は、君に救われたんだ。」

「……?」

「君は、他の人と違って誰かと自分を比べたり、卑しい心で人を探ったりしない。人の裏の部分を見るんじゃなくて、表の部分…前向きな部分を見る目を持っている。そう思うんだ。」

「……。」

「だから前にも言ったと思うけど、僕は君が、他の人が持つ過去の苦しみや過ち、怒りを背負おうとしている事には、余り賛成出来ない。そんなものを抱えたところで感じてしまうのは劣等感や優越感、怒りや憎しみ、悲しみでしかない気がするんだ。」


 南は思い出した。もっと博史や美緒を理解出来るように勉強すると話した時、やはり彼は道を示してくれたのだ。

 確かにあの時以来、雛の考えは大きく変ってしまった。イースト・Jの人々を可哀想だと思いながら、その気持ちがウエスト・Jへの怒りへと変ってしまった。南はそれを思い出し、博史の言葉を理解した気がした。


「南ちゃんが、僕らと同じ立場に立とうとしてくれる気持ちは嬉しいよ。でもね、その事が人によっては、必要ない同情だと感じてしまえる時もある。そうなると、恨まれるのは南ちゃんなんだ。」

「……。」


 そして続く博史の言葉に、南は香の事も思い出した。就職祝いを渡そうとしたあの日の事を反省した。香にとってプレゼントは、彼女を惨めにするものにしか見えなかったのかも知れない。

 良かれと思った事が、仇になった。


「……。」


 南は下を向いた。自分は何も分かっていないのだと、だから皆と距離を縮める事が出来ないのだと思い始めた。


「だから南ちゃんが、過去を背負う人達の苦しみを知ろうとする事に、僕は反対だよ。今日の君を見て、尚更そう思う。それが出来ないと言って泣いてしまった時点で、君の努力は必要ないものだと思うんだ。君が悲しいようでは意味がないし、何の解決にもならない。」

「でも…このままじゃ私は、美緒や博史さんの気持ちを理解出来ないじゃないですか?」

「……。」


 南は反論した。博史の言葉は、『君とは住んでいる世界が違う』とだけ聞こえる。南はそうではなく、彼らと同じ立場に立つ事を望んでいるのだ。

 反論を聞いた博史は嬉しくもあり、悲しくもある表情を浮かべた。


「その気持ちはありがとう。でもね、それはやっぱり出来ないと思う。」

「どうしてですか!?もっと博史さんや美緒の事を理解したいのに…。」

「……それじゃ南ちゃん、その為に誰かを殺したり、知ってる誰かを殺されても良いのかな?」

「!?……それは…。」

「嫌だよね?でも、そうでもしない限り、やっぱり誰かの苦しみなんかは理解出来ないと思うよ。」

「……そんな……。」


 突然過ぎる惨い言葉に、南は言葉を失った。


「今の言葉は、酷いと思ったんじゃない?」

「………。」

「ねっ?そう感じたでしょ?だから…南ちゃんがそこまでして、誰かを理解する必要はないんだよ。」

「でも、それじゃ私が納得出来な…」

「南ちゃん…。」


 主張をぶつけようとする南の言葉を遮り、博史は少し大きな声を出した。


「僕が、さっき言った言葉を信じて欲しい。僕は…君に救われたんだ。」

「……。」

「僕らのような人間に必要なのは、過去を一緒に背負ってくれる人じゃない。ひょっとしたらそれは、同情にしかならないかも知れないし…。僕らに必要なのは過ちや苦しみを気にしない、今の僕らをそのままの姿で見てくれる人が必要なんだ。」

「……。」

「自分の価値観だけで他人を判断したり、上か下かを考えたりしない君が、僕らみたいな人を救ってくれると思う。」

「…今の私が…ですか…?」

「知ろうとしたり、分かろうとしたりしてくれる事は嬉しい事だよ。だけど、それは無理な話だと思うし、する必要もない事なんだ。僕らや僕らの国が分かり合おうとする時、必要なのは過去の清算じゃなくて、優劣で判断しようとする目線でもない。お互いの良い部分を理解して、尊重し合える姿勢が必要なんだ。それが…南ちゃん、今の君が持っているものだと思うんだ。」

「……。」


 通りの向こうでは料理を終えた屋台の主人が、通り行く人々に声を掛けていた。

 南は、博史の言葉を理解した。道標になって欲しいと望んだ時、彼がくれた返事の意味を悟った。

 涙を止めた南は、もう少し自信が持てるようになっていた。


 人にどう接すれば良いのか?これまでは不安を抱いていた。

 しかし博史が既に、見本を見せてくれている。彼は貧しい人々の暮らしについて、少し冷たく感じる発言をしていた。しかしその言葉の裏には、今教えてくれた意味が隠れているのだ。

 南は同情し過ぎた。生活に困る人々を見て、可哀想だと思った。しかしそれは、無闇に彼らを傷つけてしまう感情なのだ。博史は彼らの姿を見て、活力を得られると話していた。貧しいながらも懸命に生きる彼らを、博史は前向きに評価していたのだ。


「……。」


 部屋へ戻る前に、南はもう1度、道路の向こう側で懸命に働く女性を見た。こんな遅い時間に仕事をしている姿が苦労に見えるが、客に美味しい料理を提供しようと精を出している姿にも見えるのだ。遠くでよく見えないが、女性は汗をかきながらも、笑顔で鍋を振っているような気がした。

 南も、活力を得たのだ。博史が話してくれた事を、練習したり実行したりする必要はない。南は既に、それが出来ている。



 帰り道で南は笑い、博史と楽しい会話を交わした。目に映る風景が、少し変って見えもした。


「博史さん、あれ買って下さい!美味しそうに見えます。」

「買うのは良いけど、残しちゃ駄目だよ?」

「は~い!」


 露店の前で南はせがみ、熱帯地域の、美味しそうな果物を買ってもらった。




『ブロロロロンッ!』


 ホテルの正面玄関まで戻った時、背中で大型のトラックが何台も通り過ぎる様子が伺えた。


「何ですかね?あのトラック?」

「本当だね。物凄い数のトラックが走って行ったね?多分、近所で大きな工事が始まるんじゃないかな?この国は、まだまだ発展途中だし…。」

「なるほど、そうですよね。」


 酷い騒音に振り向いた2人は、何気にそんな話を交わした。

 南は思った。大きな工事が始まると言う事は、この国はもっと豊かになるのだ。それは貧困な人々を救う手段でもあり、工事現場では仕事を手にした人々が懸命に働き、お腹いっぱいにご飯を食べる事が出来るのだ。


 南は大きく安心し、部屋の前まで来てくれた博史と別れ、部屋に入った瞬間に睡魔に襲われた。

 どうにか果物を冷蔵庫に入れると、南はそのままベッドに倒れ込んで眠りに就いてしまった。

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