第19話;つかの間の旅行
食堂には、早い時間に訪れた。開店して間もないので人気もなく、また、漂うはずの強烈な匂いもしない。店のエンジンは、まだ温まっていないのだ。だからと言って美味しくない訳ではない。
料理がテーブルに出されると3人は顔を近づけ、漂う匂いを力いっぱいに嗅いだ。そしてお互いの顔を見て笑いあった。この食堂は、いつまでも思い出に残りそうだ。
「ところで博史さん、ナイトバザールに行けば、あれと同じ服が見つかるんですか?」
一杯目を早々に平らげた美緒が尋ねる。
本来なら今晩は、南が迷子になったショッピングモールで買い物をした後、対岸にある港から、船に乗ってナイトクルーズを楽しむ予定だった。それを諦めてバザールに向かう事にしたのだ。博史が、求めている服を購入出来るバザールを知っていると言う。
また買い物を済ませた後は、博史が勧める場所に足を運ぶ。
「博史さんは、あの花が何の花か知ってますか?」
今度は南が尋ねる。彼はブログを通じて、刺繍の模様を知っていた。
博史は、その花が何の花かを知っていると言う。
「えっ!本当ですか?あの花の名前って、何ですか?」
「何処を探しても見つからないんです。麗那さんの店にも、あの花は扱ってなくて…。」
今度は美緒と南が、同時に博史に話し掛ける。
「あの花の名前は…オリーブだよ。」
「オリーブ?オリーブって…あのオリーブですか?」
「オリーブの実は知ってますが、花までは知らなかったです。」
「で、博史さんが知ってるバザールに行けば、あの花の服があるんですか?」
「いや、多分あのデザインは見つからないよ。オリーブは、この国では人気がないと思う。」
博史が説明する通り、この国ではオリーブの花は人気がない。枝になる花なので花束の素材としても扱いづらく、花自体が小さい事が理由だ。
「えっ?見つからない?それじゃ、どうしてバザールに行けば手に入るって言ったんですか?」
「刺繍を入れてくれる店があるんだ。そこで、オリーブの刺繍を入れてもらえば良いよ。」
「あっ、なるほど!そう言う方法もありですね。私はてっきり、オリーブの刺繍があると思ってました。」
「あるかも知れないけれど、僕が知る限りオリーブは人気がないから難しいと思う。それなら刺繍を入れてもらった方が早いと思うんだ。多分、麗那さんのお祖父さんも僕が考える方法で服を作ったと思うよ。」
「なるほど…。そうですよね。」
「刺繍を入れるのには時間が掛かるから、先ずは服を買って、それを刺繍店に預けた後、僕が勧める場所で時間を潰して、帰りに受け取る事にしよう。」
「なるほど!そうしましょう!」
南は美緒に視線で確認を取った後、博史の提案を受け入れた。
「それじゃ、オリーブの花は…麗那さんのお祖父さんの国で人気があったのかな?」
安心した南だが、どうして刺繍のデザインがオリーブだったのかが気になった。
「……。」
博史は2人が首を傾げる姿を見た後、悪戯な笑顔で話した。
「僕は知ってるよ。何となくだけど…。何故、オリーブだったのかが分かる。」
「えっ?本当ですか?やっぱり麗那さんのお祖父さんの国で人気なんですかね?」
「はははっ。僕は、お祖父さんの祖国が何処かも知らないよ。」
「そう言えば…私も知りません。」
恥かしそうに返事をする南を見て、美緒は隣で大笑いした。
「でもそれじゃ…どうしてオリーブの服をプレゼントしたんですか?」
しかしそうなると、隣で笑う美緒にも理由が分からない。
「麗那さんが服をくれる時、刺繍を懐かしそうに見てたんです。博史さんの話だと…オリーブが人気がないんだとしたら、多分他に、思い出に残る何かがあると思うんです。」
南はその時の、麗那の感慨深げな姿がどうしても気になった。あの刺繍には、オリーブの花には、何か特別な意味があるのだと思っていた。
「人気がなかったとは言えないけど…僕は、オリーブの服をプレゼントした理由が、何となく分かるんだ。」
「え?それじゃ、教えて下さいよ。博史さん、何か勿体ぶってる気がします。」
「うん、勿体ぶってるよ。」
「え~!どうしてですか~!?」
「ははは。その答えは、麗那さんに確認してみて。多分、僕が考えている事で合っている。」
悪戯な返事に頬を膨らます南に、それでも博史は最後まで話してくれなかった。
「あ~!美味しかった!やっぱり、この店が一番かも!」
頬を膨らました南であったが、食事は楽しく済ませた。
「良いの?麗那さんに告げ口しちゃうわよ?」
「えっ!?あっ…。その…。」
「はははっ。冗談だよ。」
しかし美緒からも悪戯な態度を執られ、口を尖らせて店を出る南だった。
店を出る頃には、食堂の客も増えていた。その騒がしさを背景に記念写真を撮った3人は、博史が知るバザールへと向かった。
博史が連れて来たバザールは、2人が初日に訪れた場所と同じだった。人混みが多かったので充分な見学が出来なかった。出来たとしても、まさかここに刺繍を入れてくれる店があったとは、知り由もなかっただろう。
早い時間だったので、買い物はさっさと終える事が出来た。貰ったものと同じような生地と色の、刺繍が入っていない服を購入し、それを刺繍店に持ち運ぶ。
夕食代を払った博史は、服と刺繍代金は2人に払わせた。プレゼントしたいと言うなら、出しゃばるべきではないと考えたのだ。ただ、2時間程度で仕上げるには追加料金が必要だと言われたのでそれを払い、まだ会った事もない麗那に、自分からもささやかなプレゼントが出来たと喜んだ。
南が残念がったのは、貰った服のデザインを刺繍店に見せられなかった事だ。デザインは頭の中にあるので、それと同じ服を探そうとしていた。店からすれば、見本や実物もなく同じデザインに仕上げる事は出来ないのだ。
南は美緒の記憶も借りて刺繍が入る場所と花の数や大きさなどを伝え、仕上がりが望んだ通りになる事を祈った。
ともあれバザールで目的を果たした3人は、博史が勧める観光スポットに向かった。
博史はオリーブの話だけでなく、次に向う場所も秘密にしていた。その場所は、バザールから遠く離れていないと言う。
「うわっ~!!綺麗!」
最初に声を上げたのは美緒だ。この国に2度も足を運び、色々な場所で夜景を楽しんだが、案内された場所に満足した。誰も足を運ばない、穴場的スポットだったのだ。
ここは、とある丘の高台に用意された展望台だ。無料で利用が出来、近くにあるバザールを見下ろせる。
高い位置から見下ろす展望台とは違い、夜景の中を行き交う人々の姿が確認出来た。
「もっと背が高い山やビルから望める夜景スポットもありだけど、僕は、このくらいの距離が一番好きなんだ。高い場所からなら広く多くを見渡せるけど、このくらいの高さの展望台は、夜景だけじゃなくて人の動きもが見えるから、物凄く有機的なものを見ている気がするんだよ。高い場所からの景色は…綺麗なのは認めるけど、何処か無機質で…。」
「分かる気がします。私、こんな場所から夜景を見た事なかったです。人を近くに感じるし、建物の様子とかもよく分かって、良いと思います。」
「そう言ってもらえると安心するな。気に入ってもらえたなら嬉しいよ。」
「……。」
南と博史の会話を聞きながら、美緒は何か考えていた。迫り来るほどの臨場感がある夜景に、博史が見つめる世界を理解した気がする。
何処かの国に目を向ける時、その国の自慢や有名な建造物、富を象徴する高層ビルを見ていては、本当の姿は見えない。
高い場所から見える風景が国の豊かを語るなら、この場所から見える世界は南と美緒が訪れた場所のような、人の暮らしや底辺を目の当たりに出来る。
本当に知るべき姿は、ここにあるのだ。
夜景を堪能した3人はもう1度バザールを訪れ、少しだけショッピングを楽しんだ後、例の刺繍店へと向った。
刺繍は完成しており、南は仕上がりに満足出来た。
ホテルまでは、タクシーで戻る事にした。その代金も博史が出すと言う。甘え過ぎていると思った2人は、何かお礼をさせてくれと伝えた。
すると博史はホテル周辺の屋台で食べ物を購入し、部屋のテラスで夜食を楽しみたいと提案してきた。
2人は顔を曇らせた。昨日、同じような夕食を取った事が理由ではなく、余る程の買い物をして、次の朝に残った物を捨てた事を反省していた。
話を聞いた博史は、そこで珍しく怒った。
「貧しい人達の事を考えて、贅沢な買い方をした事を反省するのは間違っているよ。それは自己満足や優越感、彼らに対しての同情にしかならないんだ。食べたいなら買えば良いし、残したかったら残しても構わない。但し、残した物は次の日に食べなければならない。捨てる事は、貧しい人達とは関係なく、やってはいけない事だよ。」
「……。」
博史の言葉は年寄り臭い説教にも聞こえるが、2人は反省した。そして今日の昼に、彼が教えてくれた事の意味を理解した気がした。
ただ、この後目の当たりにした博史の食欲には驚かされた。
「寝る前に、お腹がいっぱいじゃないと眠れないんだ。」
「……。」
「……。」
買い物を終えて、テラスで夜食を食べ始めた博史がそう語る。
沢山食べてくれる事は嬉しいが、その量が尋常ではなかった。夕食も充分に堪能した博史が、2日前に購入した量と、同じほどの夜食を口にしたのだ。
南は、彼の体格が横にも大きい理由を知った。寝る前に食べると、必要以上に太ってしまう事は万国共通である。ウエスト・Jでも常識だ。
それでも、3人は酒を交えながらの楽しい時間を過ごした。
やがて寝る時間になり、満足した博史は2人にお休みの挨拶をして、自分の部屋へと戻って行った。
「…凄かったね…?博史さん。そりゃ、横にも大きいわ。私、驚いちゃった。博史さん…夕食も食べたのに、よくあれだけ食べたね…?」
「……。」
博史が出て行った後、2人は同じベッドに寝転がった。
南が博史の食欲の凄さを話題に出すと、美緒は黙って考えた。
「私、思うんだけどさ…。博史さんの食欲は…多分、生い立ちに原因があるのかも…。」
美緒は博史の姿を見て、祖父の昔話を思い出していた。
「お祖父ちゃんが、昔、同じような事言ってた。昔は食べる事にも困ったから、お腹いっぱいになれた事があんまりなくて、いつも空腹に苦しんでたって…。」
「……。」
「軍隊に入った時には、良い物は食べられなかったけどキチンと食事が出来て、それが幸せだったって。」
「……。」
美緒の祖父は貧困を理由に軍隊に入隊した。最低限の生活が保証されているのだ。
やがて戦争が始まると、彼は戸惑った。同じ国の人間を殺すと言う事に疑問を抱いたのだ。
西側は、必要以上の被害を出さない事を前提に戦争を起こしたが、そのような誓いがなくとも危害を加えるつもりはなかった。ただ家族や全ての西側の人達がまともな食事を取れるようにと、軍人としての役目を遂行した。
「お腹いっぱいになって眠れたら、それが人生で一番幸せな時だったって…。私が小さい時に、そんな話を聞かされたの。」
「……。」
「多分、西側に…残った博史さんの家族は…戦前以上にご飯を食べられなかったのかも…。それがトラウマになって、今でもあんな風に、寝る前にいっぱい食べちゃうんじゃないかな…?よく考えれば、私のお祖父ちゃんも同じ事してた気がする。」
「……。」
美緒の考えは合っていた。
今は食べる事に困らない博史だが、苦労した幼少期の経験が体から離れず、特に楽しい時間を過した日には、腹をいっぱいにして眠りに就く事が多い。
彼は満腹と言う状態に、他の人以上に幸せを感じるのだ。
南は美緒の言葉に、彼の生い立ちを思い出した。訪れた寺院の人々や、ホテルの周辺で物乞いをする人々を指して、同じような過去があると言っていた。
裕福ではないが、南は食事に困るような生活を知らない。勿論、周囲にもそのような知人はいない。だから南は、博史がこの国の貧困な人々と同じ暮らしをしていたと言う事が、実感として湧かなかった。
そして南はまた、『特権』の話を思い出した。自分はやはり、過去の苦しみを持つ人達と同じ立場で話したり、彼らを理解したり出来る人間ではないのだと考え、そんな自分が嫌になった。
美緒も自分の家族の苦労を想像し、暗い表情になっていた。両親から聞かされた話はないが、恐らく2人も幼い時は、同じ経験をしていたのだと考えた。
「……。」
「……。」
2人は今日の博史に、戦争の被害を体験した者の姿を見た気がした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます