第9話;鍋料理
次の日の朝、南は違和感と共に目を覚ました。口元と枕が、何故かカピカピになっているのだ。
昨日の夢は覚えていない。だから南は、口を開けて寝てしまったと思った。しかし何故だか、お腹が妙に空いている事に気付いた。朝食を食べても物足りない。
そして思い出した。昨日、夢の中で博史と出会った事を。
南は美緒にメールを送った。博史から返事が来た事、そしてこれからも、連絡を取り合える事を。
美緒からの返事はなかった。恐らく、学校で忙しいのだろう。
テレビのニュースでは終戦46周年を迎えた昨日、各地で大々的な追悼式が行われていた事と、西側を非難するデモ行進があった事を伝えていた。南はそれを見ながら、ウエスト・Jでも同じ事が行われたのか気になった。
バイト先に向かい、麗那と挨拶を交わす。
暗い印象がなくなった南に、麗那はほっと溜息をついた。
「今日もお仕事、頑張ろうね?」
「はい!」
元気な挨拶を交わすと、2人はいつものように仕事に精を出した。
その週末、南と美緒は約束を交わしていた。約束通り、もう1度あの鍋料理を食べようと言う。今回は、美緒が探し出した店に向かう。
「ねぇ、南…。」
「うん?」
週末の午後、2人は昼食の時間から落ち合っていた。
「博史さんと連絡取れたって言ってたけど…それから連絡は続いているの?」
美緒はメールを受け取って以来、返事を返していなかった。
南は自慢げに、それからのやり取りを教えた。内容は他愛も無いもので、博史がどんな仕事をしているのか?南はどう過しているのか?のような近況報告だ。
まだ知らない者同士なので、深い質問は出来ない。暗黙の了解のように、2人はお互いの国や過去の出来事に関係する質問をしなかった。
ただ、最近の話題や流行の話になると、やはりお互いの距離の遠さを教えられた。
しかし、美緒にはまだ話せない事もある。それは、博史の祖父の事だ。自分は許す事が出来ても、他の人は嫌がるかも知れない。特に香には話せない。
親友の美緒にはいつか話そうと思っているが、今はまだ勇気がなかった。
「ところで、どうして博史さんは南の事、避けてたのかな?」
美緒が、核心を突いた質問を投げ掛ける。南は、『彼は本当に忙しかった』とだけ話した。
勘が良い美緒である。何を隠しているかは分からないものの、南の嘘に気付いた。しかし責める事はせず、受け流す事にした。
昼食後、2人は買い物に向かった。
「迷子にならないでよ?」
美緒が南をからかう。
「迷子になったら、博史さんが助けに来てくれるかな?」
南はそう返事した。彼女にとって、こんな冗談を言える相手は美緒だけだし、また、そう言えるようになった理由は、自分の気持ちを整理出来たからでもある。もう、彼との連絡には、何の気兼ねも要らないのだ。
「うわ!これ、あっちで見た!」
「え、何なに?」
「あっ、南は知らないか…。南が迷子になった時、雛が買ったものだよ。」
「あ…。」
買い物途中で、2人は興味深い店を見つけた。卒業旅行で訪れた国の、雑貨を売っている店舗だった。美緒はそこで、見覚えがあるアクセサリーを目にした。
手芸品で、リストバンドのようなものだ。香も欲しがったのだが、気に入った色は1つしかなく、雛に弱い香は譲ったらしい。
「そうだったんだ。」
「これ、雛が買ったのと同じ色してる。香に教えてあげたら、喜ぶかな?」
「……。だったら私、香にプレゼントする。」
「えっ?南が?」
「お給料貰えるようになったし、考えてみれば、香に就職祝いを渡してもなかったから…。」
「就職祝いにしては、ちょっと安過ぎない?いくらなのかな、これ?」
「…。高いじゃん…。」
物価が安い現地では抵抗ない金額だったが、いざイースト・Jで同じものを買おうとすると、その価格は10倍近くにまで膨れ上がった。
「何か、勿体ないね?」
「良いよ。だからって、わざわざ現地まで行って買う訳にもいかないし…。」
「そうだね。就職祝いって言っても、大丈夫かも知れない。」
「うん!」
今は忙しい時期だが、4人で会う日は遠くないだろう。かなり遅めの就職祝いになってしまうが、香が喜んでくれると思った。
その日の食事会は…これまた満足出来るものではなかった。以前の店に比べれば良い方なのだが、匂いからして本場の物と違っていた。あの、嫌気が差すような匂いがしないのだ。
2人は、店に入って直ぐにあの匂いがしない限り、そのお店で出される例の鍋料理は美味しくないものだと断定するに至った。
そして美味しくない料理を前に、2人の優越感は更に強くなった。
「それじゃ、また今度~!」
「今日はありがとう!」
次に会う時は、4人で会おうと約束した。香へプレゼントも渡さなければならない。
場所は、以前に集まったカフェレストランにする事にした。4人が会うには位置的に一番都合が良い場所であり、何よりも思い出の場所だ。あのレストランなら、例え不味い料理を出されても美味しく食べられる。それだけ愛着がある。味ではなく、懐かしさや思い出を調味料にして食べるのだ。
美緒が先に電車を降り、南はそこから4つほど先の駅で降りる。
今回の路線は、途中で麗那の店の近くを通る。南はそれを探しながら、今日の食事を思い出していた。
果たしてあの料理は、ウエスト・Jでも食べられているのだろうか?例えあったとしても、以前ほど美味しい店はないのだろう。だから博史は、あの店に向かったのである。
南が西側へ向かう事は出来ない。博史も然りだ。それでも彼女は、イースト・Jで一番美味しい鍋料理を探し出せたら、博史が勧めるウエスト・Jの店と食べ比べがしたいと思った。
翌日、南はバイト先に向かい、いつものように元気な笑顔で働いていた。今日は何と、麗那の家で夕食を食べる事になっていた。彼女の家は、店の2階である。
元々気が合う仲だが、2人は終戦記念日から更に仲良くなっていた。祖母と孫までの関係はないものの、南は核家族で暮らしており、麗那には娘もいないので、少しずつそのような関係に近づいていた。
「さて…私は先に、2階に上がって夕食の準備でもしようかね?今日は、腕を振るうよ!」
「それじゃ、店の片付けは私がやっておきます。」
「ああ、よろしく頼むよ。終わったら、シャッターを閉めて上がっておいで。」
「はい!」
今日は、早めに店を閉める事になっていた。
「…?」
掃除をしていた南は、2階から降りて来る匂いが気になった。その匂いに覚えがあった。
シャッターを閉め、神棚の隣にある、2階に上がる階段から麗那の家に向った。
南は1度だけ、2階にお邪魔させてもらった事がある。終戦記念日の日、麗那は南を2階に招待し、2つの国が1つだった頃の写真を見せていた。古い写真ではあったが、思い出の写真ばかりだった。中には娘を失った友人と、その夫の写真もあった。彼女達は、本当に昔から仲が良かったのだ。
階段を登り切った南は扉をノックをして、それでも返事がないので仕方なく扉を開けた。
「!!」
扉を開けた瞬間、強烈な匂いが南の鼻を刺激した。
それと同時に麗那の、少し大きい声が聞こえた。
「南ちゃん、早く扉を閉めておくれ!匂いが下まで行っちまうよ!」
「あっ…はい!」
姿が見えない麗那が、いつもと違う声を出したので南は驚き、急いで扉を閉めた。
「…この匂い……。」
「さぁ、こっちへお入り。ちょうど、食事の準備が出来たところだ。」
麗那が奥の方から現われ、南を台所へと手招きする。
台所に入ると、匂いは更に激しさを増した。しかし南の鼻はその匂いを嗅ぎたがり、お腹は急激に減り始めた。
「母親直伝の、伝統鍋さ!美味しいよ。」
麗那が鍋をテーブルに移し、その蓋を開けた。
出された料理を見て、南は驚いた。それは博史と食べた、昨日もその味を求めて食べていた、あの国の料理だ。
「ちょっと、匂いがきつ…」
「うわっ!麗那さん、この料理作れるんですか!?」
匂いが酷い事を南に伝えようとした麗那は、彼女の大声に口を閉じた。
南の大声は、台所中に鳴り響いた。
「おや…南ちゃん。この料理を知ってるのかい?」
「知ってるも何も…大好きです!この料理!」
「あらら、それはまた…珍しいね?イースト・Jでこれを食べる人間は、私だけだと思っ…」
南は麗那の言葉も半ば、鍋に鼻を近付け、一気にその匂いを嗅いだ。
その姿を見て、麗那は大笑いした。
「はっはっはっ!本当に好きみたいだね!?なかなかいないよ?それだけ鼻を近付けて匂える人は!」
「あっ…。へへへ。」
恥ずかしいと思った南だが、そんな自分がおかしく思え、麗那と一緒に大笑いをした。
「ところで麗那さん。これは、麗那さんの故郷の料理ですか?」
麗那が入れてくれた1杯目の皿を、がっつくように平らげた南は尋ねた。
「この料理かい?故郷の味とは言えないかもね…。それでも、母親の得意料理だったんだよ。」
南の質問に、麗那は2杯目の皿を盛りながら自分の生い立ちを話し始めた。
麗那の生い立ちと血筋は、少し複雑だ。
彼女の父方の祖父は当時の有名な貿易商で、イースト・Jや周辺の国々を忙しく飛び回っていた。かつては3カ国に自宅を構える事もあった。
とある国で麗那の祖母と出会って結ばれたのだが、彼女の祖国が、南が卒業旅行で訪れた国だった。祖母は祖父の国へと移住し、麗那の父を授かった。
麗那の父も祖父の会社で、同じく世界中を飛び回った。彼はイースト・Jを訪れ、麗那の母に出会った。そして母も同じく、祖父の国へ移住し麗那を授かった。
幸せに続くと思えた暮らしだったが、彼らの栄光にも少しずつ陰りが見え始めた。祖父の国で、戦争が勃発したのだ。
激しさが増すに連れ事業は縮小の一歩を辿り、それを機会に平和で、事業が続けられると思った東側、つまり麗那の母の祖国へ移住して来たのだ。
麗那の血筋は、半分がイースト・J、そして1/4が祖父の国、残りの1/4が祖母の国から伝っているのだ。
この料理は祖母から母へ、母から麗那へと伝えられた料理であった。
「この料理はね、香辛料と調味料が肝心なんだよ。」
また麗那は、この料理の秘訣を教えてくれた。
香辛料は、祖父の代からの繋がりで購入出来るルートを知っていた。海外からわざわざ購入する香辛料もあるそうだ。そして調味料は、とある魚を発酵させ、そこから滲み出た汁が必要だと言う。所謂、魚醤である。その調味料と香辛料が絶妙なバランスで出会った時、この味と、そしてこの強烈な匂いが誕生するのだ。
具材には時として肉を使い、時として魚介類を使う。今日の具材は、奇しくも博史と南が一緒に食べた豚肉が入っていた。
「この料理、麗那さんのお祖母さんの国の料理です!私、数ヶ月前に卒業旅行で行ったんですよ。そこで、これと同じ料理を食べました!」
「おや、そうだったのかい?それは知らなかったね。そうかい…お祖母さんの国の料理だったんだ…。南ちゃん、ありがとね。私は今頃、それを知ったよ。」
「本当に美味しいです。この料理!この料理をもう1回食べる事が出来て、本当に嬉しいです。」
「そうかい、そうかい。そう言われると嬉しいね。丹精込めて作った甲斐があったってもんだよ。ありがとうね。」
「こちらこそです。私の方がお礼を言わなきゃ!」
麗那も南のお陰で、この料理が誰の故郷のものなのかを知った。それまでは、祖母の代から伝えられて来た料理…。それだけしか分からず、しかし、それだけで充分だった。
彼女の祖父や父親は世界中を飛び回っていたが、戦争で殆どの財産を失った後に生まれた麗那は、他の国の事を知らない。移住して以来、イースト・Jから出て行く事もなかった。
それでもこの料理は祖母の時代から、変わる事なく受け継がれていた。どうやらこの料理には、それほど人を魅了する何かがあるようだ。
「これで、イースト・Jの代表は決まりだ!」
「うん?何の事かね?」
「えっ?あ…へへへ。」
南は昨日考えていた、ウエスト・Jとの料理対決を麗那に語った。
「あらら、それは光栄だね。私が、イースト・Jの代表って事かい?でも南ちゃん、それは褒め過ぎじゃないのかね?」
「いいえ、そんな事ありません!私は食べたんです。博史さんが教えてくれたあの国で、一番美味しい店で、この料理を食べたんです。そこの味と同じくらい美味しいです。」
「博史さんって、あの…ウエスト・Jの?」
「あっ…そうです。実は卒業旅行で、あの人とこの鍋料理を食べたんです。」
「ええ?どうやって?卒業旅行に、彼もついて来たって言うのかい?」
麗那には事情が把握出来なかった。博史の話は聞いてはいたが、出会いの経緯は知らされていない。
「そうかい…。それから博史さんと連絡が繋がらなくなって、今になってやっと会話が出来るようになったんだね?」
「会話と言っても、メールですけど。彼はウエスト・Jの人なんで、会ったりも、電話したりも出来ません。」
「…そうかい。」
麗那はそこまで聞くと、感慨深く鍋の底を見つめた。
「でも…不思議なもんだね…。」
彼女は幼少時代から余裕がなく、内戦と、その後の混乱の中で人生を送って来た。外の世界に出る事もなく、いつしか歳を取り過ぎて、それを知る術もなかった。
「……?」
南は、不思議だと話した言葉の意味を待った。南はまだ、何が不思議なのかが分からなかった。
「…ウエスト・Jには行けないけれど…他の国に行けば、ウエスト・Jの人に会えるんだね…?」
「……。」
「そうなると、私達を引き裂いているものって…一体何なんだろうね…?」
麗那の言葉は核心的で、南の心に深く残った。
「今日は、本当にありがとうございました!麗那さんの料理、とても美味しかったです。ご馳走様でした!」
「遅い時間まで、無理させてご免ね。明日は、少し遅い時間に来ても構わないよ。今日はゆっくりお休み。それじゃ、気を付けて帰るんだよ?」
「はい!おやすみなさい。ありがとうございました。」
「本当に、気を付けて帰るんだよ?」
楽しい時間と、懐かしい鍋料理を堪能した南は、時間が経った事もすっかり忘れていた。
時間は既に、夜の12時前だ。親には麗那の家で食事をすると言ったものの、こんな遅い時間になるとは思っていなかったし、楽しい時間が、遅くなると言う連絡を入れさせる事を忘れさせた。
南は自転車に乗って店を後にし、1つ目の角を曲がったところで親に連絡を入れた。
だが誰も電話に出ないので、帰路を急ぐ事にした。
家に帰ると、母親が寝ずに待っていた。怒っていないが、帰りが遅い娘を心配していた。父親は、既に寝床に就いていた。
「こんなに遅い時間まで、何処に行ってたの?心配したわよ。南、ひょっとして嘘をついて、悪い友達とでも会ってたんじゃない?」
「違うよ。遅くなったのはご免。でも、電話しても誰も出てくれなかったよ?」
南が電話した時、父は既に眠っており、母はトイレに入っていた。
「?南…あんた匂うわよ?何、この匂い?本当に、麗那さんの家でご飯に呼ばれたの?」
母親は嗅いだ事もない、悪臭とも言える匂いに南の話を疑った。
南は母親に答えた。
「この匂いが…麗那さんのところでご飯を食べた証拠だよ…。」
その日の晩、南は早速博史にメールを送った。遅い時間だったが、送らない訳にはいかない。
メールを送るにあたって残念だったのが、突然目の前に出された料理だったので、感動の余り写真を撮り損なった事だ。南は、バイト先の店主がこの料理を作ってくれたと、あの食堂と同じくらい美味しかったとだけメールに書いて送信した。
『いつか、味比べをしよう』とは書けなかった。
写真を撮らなかった事が残念で、信じてもらえない気もしたが、それでも南はメールを送って彼からの反応を待った。
南は今日も、博史と鍋料理を一緒に食べる夢を見るのだろうか…?
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