第7話;接触

 南は、このところ悩んでいた。自分と、この国と袂を分けた国との関係が原因だ。


 彼女は、ウエスト・Jを憎んでいない。香のような経験や感情もないし、父親の従兄弟が殺された話にも、深い感情移入は出来なかった。

 ただ彼女は、無関心が故にウエスト・Jを憎んでいない。学校で教えられた通り、漠然と『敵国』として捕らえていた。

 それが最近になって、ウエスト・Jに関心を持ち始めたと同時に、悪い印象や過去の出来事だけが聞こえるようになった。


 それでも南は、やはりウエスト・Jや博史の事を憎んだり、悪く思ったり出来ない。美緒の言葉が慰めになった。西側でも被害を被った者、死亡した人がいるはずなのだ。

 南は、香や麗那の友人を不憫に思いながらも、同時に、博史にはどのような経験や過去があるのだろうかと考えた。ひょっとしたら香達以上に辛い経験をし、彼女達以上に相手を憎んでいるかも知れない。

 南はこの考えを止めては思い出し、止めては思い出していた。


 早く、博史から連絡が欲しかった。どんな内容にしろ、色んな事を確認したかった。例え彼が、『イースト・Jの人間は嫌いだ』と言っても理解するつもりだ。それで気持ちを整理させるつもりでいた。

 だが、覚悟した以上に返事は来ない。

 それは、1つの可能性を秘めていた。返事をくれない事が、博史からの返事であると考える事も出来るのだ。

 それでも南は信じた。博史からの連絡は、必ず来ると願った。どう処理すれば良いのか分からない気持ちを、彼の返事ですっきりとさせたかった。『イースト・Jの人間とは話したくない』と言われた方が、むしろすっきりするのかも知れない。


「…博史さん…。」



 週末を迎えた。麗那の店は休みだ。南は部屋でごろごろとしながら、いつものように色んな事を考えていた。


 卒業旅行の写真を開く。繰り返して見るのは、ショッピングモールで撮った写真だ。

 素敵な思い出は、分けるべくして分かち合った人がいる。思い出話を繰り返し、これからもずっと側に感じられる人がいるのだ。

 博史との思い出は…1人でしまい込むには大き過ぎる。貴重な経験でもあった。


 やはり南は、あの時を忘れる事が出来ない。博史から連絡が来る事を待っていた。


 ウエスト・Jと言う国の名前を含めて、話し合える相手は美緒しかいない。だが、その美緒ですら聞き手に回るだけで、あの時の思い出は共有してもらえない。

 『あの鍋料理は美味しかった』と、他人に言う事は簡単だ。しかしそれを自慢したところで、自分が無闇に1人ぼっちになるだけなのだ。

 南は、『あの鍋料理美味しかったね』と言い合える人を求めていた。

 インターネットで検索し、鍋料理に関してもっと深い知識や情報を集めた。だが、それも独りよがりな事だ。美緒と一緒に、あの国のあの食堂であの料理を食べたなら、この気持ちは解消されるかも知れない。そう考えもした。


「博史さんに…会いたい…。」


 だが、この気持ちは美緒が相手でも解消出来そうにない。博史と…自分に優しかった博史でないと駄目なのだ。そう思うと、霧消に博史に会いたくなった。



 次の週末、南は美緒と一緒に、とある場所に出向いた。自分の奢りで、夕食を食べようと誘ったのだ。学生である美緒に対し、アルバイトを始めた南の財布は暖かい。親にはキチンと仕送りをし、初めて貰った給料で贈り物もした。

 2人が出掛けた先は、勿論あの鍋料理を食べられるレストランだ。鍋料理だけでなく、あの国の料理全般を扱う専門店だった。

 南は、最近のモヤモヤした気持ちの原因を知る為に足を運んだ。この気持ちを相談出来るのは美緒だけだ。

 香や雛は誘えない。以前の事を考えると、香は特に誘えない。


「うわっ~!これ、懐かしいね?」

「あっ、これもあの国の料理だったんだ。知らなかった。」

「こう見ると私達、以外と現地の料理、食べてなかったのかも…。」


 メニューを覗いた2人はあの国の料理に関して、まだまだ知らない事が多いと知らされた。旅行した頃が懐かしくなり、もう1度訪れたい気持ちにも駆られた。

 美緒は、南の気持ちに気付いていた。誘われた理由を知っていた。しかし美緒は、この場で博史の名前は出さなかった。相談されるとは思っていたが美緒が望む事は、南が笑って食事が出来る事だけだった。


 2人は例の鍋料理と、4人で食べて美味しいと思った肉料理、そして始めて挑戦する料理を注文した。

 先に出されたのは鍋料理だった。


「?」

「?」


 我先にと手を出した南と美緒は、同じ事を思った。


「あれ?匂いがしないね?」

「本当だ…。あれ程嫌な匂いがしたのに…今日は何の匂いもしない…。」

「でもって……美味しくない…。」


 南が、鍋の近くに鼻を近づていた博史の姿を思い出す。


「ひょっとして、慣れちゃったのかな?」

「えっ?だって私は、1回しか食べた事ないよ?」

「でも、博史さんだって久し振りに食べる料理だったのに、思いっきり匂いを嗅いでたよ?あれだけ店に充満してた匂いだったのに…。」

「あっ…。」


 美緒は南の口から、早速彼の名前が出た事に驚いた。そんな気はなかった南も美緒の反応を見て、落ち込んだ顔になった。


「食べよ!?料理は、まだまだ出て来るんだから!」


 美緒は気を取り直して箸を手にし、南も料理を楽しもうとした。


「……。」

「……。」


 もう1度料理を口にした2人が、また無口になった。やはり、どう考えてもこの鍋料理は美味しくない。初めて食べた人なら美味しいと言うかも知れないが、南は美味しくないと感じた。


「…やっぱり、香辛料や調味料が独特なのかもね…。」


 美緒すらも、味に不満を覚えた様子だ。

 それを聞いた南は、博史が教えてくれた言葉を思い出した。


 鍋料理は諦め、次に出て来た肉料理を楽しむ事にした。しかしそれも、満足出来る味ではなかった。初めて口にする料理も、何処となく物足りなさを感じた。



 2人は食事の後、少し外を歩く事にした。夕食は消化不良に終わった。

 南は店を去る前に後ろを振り向き、その外観を眺めた。インテリアはあの国の雰囲気を醸している様子で、しかしその割には物足りなさを感じる。


「多分、この店は美味しくないんだよ。もっと美味しい店を探そうよ?私が探してみる。」

「一応、ブログでは一番美味しい店って紹介されてたんだ…。」

「…。そっか……。」


 美緒の言葉が逆効果を生む。


「!あのね…」


 しかし南はとある言葉を思い出し、明るい顔で美緒に語り始めた。博史が教えてくれた言葉だ。その言葉を思い出した南は不満だった夕食に、何故か満足が出来た。


「『旅立った…者だけへの特権』?」


 美緒は、南の言葉が理解出来なかった。


「そう!その場所に行って本当の姿を見て、味わって、楽しんだ人だけが得る権利!」

「?何それ?」


 美緒は、まだパッとしない顔をしている。


「駄目だよ、美緒!美緒はこれからこの特権を、いっぱいいっぱい得なきゃいけない人なんだから!」

「??どう言う事?」

「美緒は多分、こんな経験多いんじゃない?海外で美味しい物を食べたりして、今日みたいにそれを帰ってから食べてみたけど、私達の国では何か、本場とは違う味だったり…。」

「あっ…。」


 美緒は、今更のように思い出した。今日のような失望感は、何度も経験している。料理だけでなく、現地で覚えた事がこのイースト・Jでは、間違った習慣として定着している事も知っていた。


「そう言えば…あるある!そんな事!がっかりしちゃうんだよね。そう言う時って。」


 美緒は、自分の経験を南に語った。

 カレーはスプーンで食べると美味しくなく、手で食べた方が美味しい事。ミートソースは、きし麺のように平たい麺で食べるのが正しい事…。その他にも彼女は、色んな事を知っていた。


「そうそう、そんな感じ!」


 南は楽しそうに耳を傾け、多くの経験を持つ美緒に、改めて感心した。


「この店もそうだよ。色んな人が美味しいって言ってるみたいだけど、私達は本場で、本当の味を知ったじゃない?だから、この店は美味しくないって思えたの。私達の意見に不満を持ってる人がいたら、言ってあげれば良いのよ。『それじゃ、あの国で同じ料理食べた事あるの?』って。でも、そんな人に限って『ない』って言うんだよ。経験のない人が、私達に何かを言える権利はないの。特権は、私達だけが持ってるの!」

「あ~、そうか、なるほどね…。それが…『旅立った者だけへの特権』。」

「そう!」


 美緒は特権の意味を理解し、そして、既に多くの特権を手に入れていた。


「私達って、良い経験したんだね…?」

「私は初めての海外だったから、特にそう思っちゃうよ。」

「……。」


 2人はそう語り合った後、もう1度店の外観を眺めた。

 そして、共通の考えが芽生えた。誰に何を言われようが、断言出来る意見だ。


「この店、やっぱり外観も変だよね?」

「うん。変だと思う。」


 2人はそう確認し合い、気持ち良く散歩を始めた。


「ねぇ、南…。」

「?」

「その言葉、博史さんが教えてくれたでしょ?」

「へへ…正解。分かった?」

「さっき自分で言ってたじゃない?初の海外だったって。そんな南が、こんな素敵な言葉を知ってる訳ないと思ってさ。」

「えっ、何それ?酷い~!私だって、色んな事知ってるんだからね!?」

「はいはい。」

「信じてよ~!」



 久し振りに、南の笑顔を見た気がする。

 美緒は、少しずつ後悔し始めた。空港で、博史を目の前にして南の腕を掴んでしまった事を。

 南には、香のような経験もなければ、ウエスト・Jに対する偏見もない。ただ純粋に、博史ともう1度連絡を取りたいだけなのだ。そう考えると、彼女を助けてあげなければならないとも思った。自分は南にとって、何でも相談出来る唯一無二の親友なのだ。


(……。)


 それでも美緒は悩んだ。彼女はずっと、南に隠している事がある。それが、美緒の決心を揺さぶった。



 楽しい時間を過し、2人は帰路に向った。電車は南が先に降り、彼女は自転車に乗って家に向った。

 夜の街を自転車で走りながら何となく、今日にでも博史が連絡を寄越している気がした。伝えたい事もある。彼が言っていた『特権』の話は本当で、それは体験した者だけにしか分からない事と、やっぱり、あの店が世界で一番美味しい店だったと言う事だ。


 途中、南はとある飲食店のショウウィンドウに目が行った。そこには、イースト・J名物である鍋料理の蝋細工が飾られていた。


(この鍋料理も、ウエスト・Jで食べてるのかな…?)


 元々1つだった国である。食文化は、ほぼ同じと考えて正しい。風習も、民族衣装も…昔からの習慣や文化の、ほぼ全てが同じだ。

 だからこそ南には、国が2つになった理由が分からない。それも、戦争をして別れてしまったのだ。一体、何が違うと言って問題が起こり、戦争にまで至ったのだろうか…?



 家に着いた南は、早速パソコンを開いた。いつも行っている作業ではあるが、今日は期待感が大きかった。

 仮に彼から否定的な返事が来ていても構わない。南は少し強くなれた。美緒は、自分の味方でいてくれるのだ。


「……。」


 しかし残念な事に、博史からの連絡はない。それを確認した南は、今日の楽しかった出来事や気持ちが、全て水に流れた気がした。腹も立てた。自分も不精者だが、博史はもっと不精者だと。

 返事は、必ず来ると信じた。決して無視されているのではなく、例え否定的なものだとしても、必ず来ると考えた。博史は面倒見が良く、優しかった。自分が残したコメントに当惑しようが、何らかの返事は寄こすはずだと確信していた。


 時間は既に、午後11時を過ぎていた。

 南は諦めて、床に着く事にした。明日はバイトの日だ。早く休まなければならない。




 次の日、南は目を覚ますと同時にパソコンを確認した。正確に言うと、目を覚ますと目の前にパソコンがあった。パソコンの電源を落とさないまま眠りに就いたのだ。

 諦めるしかないと考えていたが、どうしても返事が気になった南は風呂を済ませた後も、部屋の電気を消した後も、ずっとパソコンと睨めっこをしていた。やがてそのまま眠りに就いてしまい、今日の朝を迎えたと言う訳だ。


 状況を把握した南は、パソコンを閉じようとした。その前に、彼のブログを開いた。

 …それでも返事は来ていない。


「……。」


 南は諦めてページを閉じた。閉じたページの下から、彼の友人のブログが現われたのでそれも閉じた。

 最後に自分のブログを閉じて、パソコンを閉じる…はずだった。


「えっ!!?本当に!?」


 南は目を疑った。ブログに、新しい書き込みがあると知らせがあった。急いでノートブックパソコンを机に移し、モニター画面をマジマジと睨んだ。

 最近更新したページには、何のコメントもなかった。だが、新着のコメント通知が来ていたので、何処かのページに誰かからのコメントがあるはずだ。南は躍起になって、そのコメントを探そうとした。

 すると、『待ち侘び人』と書かれた題目の記事に新しいコメントがあった。彼女にとっては、比較的新しい記事だ。躍起になって探す必要はなかった。


 南が眠りに就いてしまった頃に、そのコメントは書かれた。


『えっ?南ちゃん?』


 たった一言だけ書かれたそのコメントは、間違いなく博史から送られて来たものだった。

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