第3話;もう一つの記念旅行
「博史さんって、よく知ってますね?何回も来た事あるんですか?この国?」
店へ向かう途中、南が博史に尋ねた。
辺りはすっかり暗くなり、昼間と同じ道を歩いても感じるものは違っていた。ネオンが灯り、人の数も多い。道端には数多くの露店が並び、繁華の賑わいを彩う。慣れない匂いが漂い、食べた事がない食材や、興味をそそられるアクセサリーも並べられていた。
南は、卒業旅行を最初からやり直している感覚に陥り、それを今日知り合った、10歳ほど歳が離れている、パッとしない男性と一緒にしている事が不思議だった。
嫌がっているのではない。博史には感謝をしていた。
「……。あぁ…僕?うん…。仕事の関係でね。僕らと取引している会社があって、定期的に会議があるんだ。」
「うわっ!かっこ良い!国際的じゃないですか!?」
現実などこんなものである。世界を飛び回るビジネスマン…。連想される姿は、背が高くて清潔な男性なのだろうが、博史のような、みすぼらしいと思われる人間も少なくないのだ。
「いや…国際的って言うか…僕はこの国にしか来ないよ。他の国の事はよく知らないんだ。」
「それでも素敵ですよ。良いなぁ…。」
南は、美緒の事を思い出した。美緒自身もそう願っているが、南も彼女が、いつか世界を飛び回るキャリアウーマンになるだろうと考えていた。就職先も、そんな未来が期待出来る会社になるだろう。
美緒は編入して、とある大学の国際学部に入る事が決まっていた。そこで将来をキチンと見つめ、なりたい自分になろうとしていた。
「南…ちゃんは、どんな仕事をしているのかな?」
博史が、お決まりの返事をする。
「あ…私ですか…?ちょっと恥ずかしいな。短大を卒業したんですけど…まだ就職が決まってなくて…。」
南は就職を逃していた。当分は、アルバイトをしながら生活するつもりだ。
彼女には、それなりのプライドがある。それは、フリーターではあるがニートにはならない事。食住は親の世話になるが、生活費は自分で稼ぎ、余裕があれば仕送りをしようと決めていた。
ちなみに、雛はニート確定である。裕福な両親は彼女を甘やかしており、さっさと素敵な男性に巡り合って結婚し、幸せな家庭を持つ事を期待していた。花嫁修業だけをさせ、仕事をさせるつもりはなかった。雛は雛で、親の思いを聞き入れる気はなく、ただただ両親に頼って生きて行くつもりだ。
香は就職が決まっているが、美緒のような高い目標はなく、OLと呼ばれる雑用、お茶汲み係として、結婚するまでの数年の間だけ会社に通うつもりだ。結婚願望は強くないのだが、漠然とした考えの中で、そうなるだろうと考えていた。
「ここ…何だけど…どうかな?」
目的の場所に到着した博史は、店の前で再度南の考えを尋ねた。
店は大通りの裏手にある庶民的過ぎる食堂で、現地の人々が、普段着を着て食べに来るような所だ。だから博史は、店に入る前にわざわざ南の確認を取った。
「あっ…。あっ、大丈夫です。構いません。」
返事はしたものの、南は当惑した。勧められた食堂は、慣れない雰囲気が漂っている。家族連れの客も多く、女性同士の客も目立ったが騒がしく、清潔と思われるレストラン、いや、食堂ではなかった。造りも、お世辞にも立派とは言えない。
この国ではごく当たり前にある食堂なのだが、南は言葉を失った。
「…本当に、大丈夫?」
そんな南を見た博史が、もう1度確認を促す。
「はい、構いません。1度は、こう言う所で食事してみたかったです。」
南は博史の気遣いに対して、今度は気を使う事なくそう応えた。
一瞬は戸惑ったが…考えてみると新しい体験だ。1人では流石に抵抗を感じるが、この国に詳しい博史が側にいる。所謂B級な食事は、他の3人と一緒では食べられないと思った。
「それじゃ…入るよ?」
「はい!」
博史の背中に付いて店に入った南は、もう1度戸惑った。この店で良かったのだろうか?と考えた。
入るや否や、道端で嗅いだような匂いが充満している。服に染みて、数時間は取れそうにない強いものだ。
テーブルの上も、やはり清潔とは言えない様子で、食事している客も含め、店全体が乱雑な感じがした。
博史は南の様子に気付けず、久しぶりに訪れた事にテンションを上げていた。
「ここの鍋料理が、とても美味しいんだ。多分、この国で一番美味しいかも知れない。」
席に着いた博史が、少し自慢げに話す。テーブルは安物で、椅子は背もたれがない丸椅子だった。
先ほどまではディープな料理と体験を望んでいた南だが、今になって後悔していた。椅子にも、清潔かどうかを確認してから着いた。
2人は、ビールを1本だけ注文した。
南も博史も、酒量は似ていた。最初の1杯は美味しい。それで喉を潤し、食欲を高める。だが2杯目は遠慮気味になり、3杯目には酔ってしまうぐらいの酒量だ。
「無事に戻って来れた事を祝して、そして、無事に友達と会える事を願って。」
ビールを注いだグラスを持ち、博史が乾杯を求める。
「皆も今頃、美味しいものを食べてます。乾杯!」
南もグラスを持ち上げ、音を鳴らし合った。
口ではそう言ったものの、ビールの温さが気になった。3人は今頃、どんな料理を楽しんでいるのかも気になる。自分達よりも豪華で美味しく、そして綺麗な店の中で食事を楽しんでいるのだろうか?
そう考えると、ここの食堂が嫌いになった…のではなく、負けん気を振りまいた。『絶対、ここで美味しい料理を食べてやる!他の皆に自慢してやるのだ!』そう思って息巻いた。
なかなか気持ちの整理が着かないが、乱雑で騒がしい雰囲気には興味を持っていた。ゴージャスな旅行や買い物も女性としては興味があるが、ワイルドと言える旅にも関心があるのだ。この席には他の3人がいない。それならこの機会を、最大限に生かしたかった。後に店の前を4人で通った時、他の3人から『こんなお店でご飯食べたの!?』と、その勇気を褒めてもらいたかった。
やがて料理が運ばれた。この店は、目の前に置かれた鍋料理の専門店なので、注文した物は早く提供される。
「うわ~!懐かしい!!」
そう言って博史は鍋に鼻を近付け、その匂いを嗅いだ。
南には分からなかった。店に入って直ぐ、不快な気分にさせられた匂いの正体がこれである。必要以上に漂う匂いを今更のように、力一杯に嗅いで楽しむ姿が理解出来なかった。
「さぁ、食べよう!南ちゃんは、好き嫌いない?」
「何でも食べます。大丈夫です。それと、ちゃん付けはやめて下さい。」
更に料理を盛ってくれた博史に、南は注意を促した。匂いは駄目だが見た目は美味しそうな料理を前にテンションが上がり、そうなると、いつまでも他人行儀な呼ばれ方が嫌になったのだ。
彼女も、今年で大人になった。もう子供ではないと言う自覚もある。先ほどはビールも口にした。大人の博史と距離を縮めて、食事会を楽しいものにしたかった。
「はい。本当に美味しいから。」
「ありがとうございます。頂きます!」
博史の皿にも料理が盛られた事を確認した南は元気よく手を合わせ、目の前の料理に挑戦した。匂いは今でも気になるが、腹の虫が泣く事を止めない。
「!?美味しい!!」
それは、お世辞抜きの声だった。
食べてみると、これまでに味わった事がない強烈な味が、舌と脳を刺激する。
博史は、目を丸くして喜ぶ南を見て満足した。そこでやっと料理を口にし、久しぶりの味を堪能した。
「ねっ!美味しいでしょ?匂いはちょっと苦しいかも知れないけど、本当に美味しいんだ。変わってないなぁ…この味。出張が終わって国に帰ると、食べたくて食べたくて仕方がなくなるんだ。」
懐かしい味を堪能する博史は、しみじみと語った。
「えっ?これって、私達の国にはない料理なんですかね?帰っても食べたいな~。」
「……。」
南は、一口だけで料理の虜にされた。
「これは、飲めないビールも進みます!本当に美味しい!」
昼間に不安な時間を過した南は、本当にお腹が空いていた。多分彼女は、何を食べても美味しく感じただろう。そこに、本当に美味しい料理が出されたのだ。もう、食らいつくしかなかった。
「……。」
食欲旺盛な南を前に、箸を止めた博史がいた。
彼は、南の言葉が気になっていた。
「探しているんだけどね…なかなか見つからない。多分、香辛料や調味料が違うんだよ。この国にしかない物なんだろうね。」
博史は、言葉を選んで返事をした。
「良いなぁ…。博史さん、何回もこの店来てるんでしょ?羨ましい。」
「……。これからも、何回でも来るつもり。」
「あっ、ずるい~!」
同じ席で、美味しい食事を楽しむ。酒が飲めない2人は、それだけでお互いの縁を深める事が出来た。
食事を済ませる頃には、今日出会ったばかりの間柄とは思えないほど親近感を覚えるようになった。
「えっ?…知らないんですか?」
「ご免。仕事が忙しくて、テレビとか見ないんだ。」
「本当ですか~?歳のせいじゃなくてですか?」
「!酷いな…。」
「はははっ!冗談です!」
博史との食事は南にとって、本当に素晴らしい時間になったのだが、食事をしている間、ずっと気になる事があった。博史が、話題に付いて来られないのである。10歳ほどの年齢差があるものの、話題のズレは、それを考慮しても余るほどであった。
南は、一緒に旅行に来た3人の事も話した。おっちょこちょいで自由過ぎる雛の性格や、香の面倒見が良い性格、美緒と言う親友がいて、彼女を心の底から尊敬している事など。自分の事も話し、博史はそれに頷いたり笑ったりしてくれた。
「本当に良いんですか?」
「良いよ、高い店じゃないし。それよりも、本当に満足出来たかな?」
「本当に美味しかったです。ありがとうございます。ご馳走様です!」
この席でも、会計は博史が済ませた。南は素直に甘える事にした。
「本当にありがとうございました。博史さんがいてくれなかったら、私、絶対こんな店に来なかったです。」
「たまには、こんな店も楽しいでしょ?」
「はい!とても楽しかったです。」
南が店に入る前に抱えていた不安は既に消えていた。匂いも気にならなくなっていた。
「僕は逆に、こんな店しか入らないんだ。こう言った店の方が、その国の本当の味を体験出来る。外国人向けの食堂は…それはそれで美味しいんだけど、僕は不味くても良いからこんな店で食事して、その国の人が、どんな料理を食べてるのかを知りたい。」
「へぇ~。」
ホテルまでの帰り道、博史は独自の海外生活論を述べた。長たらしいものだったが、今の南にはとても新鮮に思え、教科書で教えられる内容よりも素直に頭に入って来た。
どの国でも言える事だが、住宅地ではなく繁華街にある店は、無難な味を提供する。海外だけではなく、その国の遠方から訪れる観光客にも合わせ、誰でも楽しめる、平均的な味を提供するのだ。
それに比べ裏路地や地元の個人経営の店は価格も安く、美味しい料理を味わう事が出来たりするものなのだ。
「『旅立った者だけへの特権』って思っているんだ。」
博史の授業は続いた。
「例えば何処かの国の、有名な観光地や料理があるとする。でも、そこに行った事もなければ、食べた事もない人が評価するのはおかしいと思うんだ。誰もが美味しいと言う料理を、僕は不味いとも言う。けど、そんな事はないと反論する人は、実はその料理を本場で食べた事がない。自分の国にある店の、自分の舌に合わせられた料理しか食べた事がないんだ。味を合わせたのだから、そりゃ、美味しいに決まっているさ。それを不味いと言えるのは、本当にその土地で料理を食べた人だけなんだ。少なくとも、それをした事がない人からは僕の意見を否定される筋合いはない。彼らは、旅立ちもしなかった人達なんだから。」
「そうか…。なるほど。」
「だから今日の料理も、ひょっとしたら南ちゃんの国で見つかるかも知れない。けど、多分美味しくない。今日のお店ほどはね。他の人達が美味しいと言ったとしても、それよりも美味しい味を知ってるのは、僕と南ちゃんだけなんだ。それが、僕らが得た特権さ。旅立ったからこそ本当の味を知る事が出来たし、何かを言える権利を持ったんだ。」
「皆に自慢します。あの料理が、一番美味しいお店で食べたって!」
押し付けにも似た博史の話を、南は真面目に聞いて同感もした。
「あの料理は、この国の名物なんだ。でも、あの食堂ほど美味しい場所は見つからなかった。他の国なんて、足下にも及ばないと思う。つまり僕らは、世界一、いや、ひょっとしたら宇宙一美味しいお店で食べたかも知れないよ。」
「う…。カメラ持って来れば良かったです…。」
カメラは香の手元にある。南はそれを後悔した。携帯電話すらも国に残したままだ。食べた料理を、記録に残す事が出来なかった。博史との、記念写真も撮れなかった。
彼とは夕方から知り合った仲だが、南にはこの数時間が大切に思えた。卒業旅行の貴重な時間を逃してしまったものの、それに代わる、下手をするとそれ以上の思い出と経験が出来たと思った南は、それを記憶に刻む事が出来ても、記録を残す事が出来ない事を後悔した。
「あっ!もし良かったら、博史さんの携帯で写真を撮りませんか?一緒に…。」
博史が携帯電話を持っていた事を思い出し、南は彼を誘った。
「あ…。残念だけど、僕の携帯は古いタイプで…空港で借りた旧式だから、カメラ機能は付いてないんだ…。」
「そうなんですか…。うわ…残念…。」
「……。」
ホテルはもう目の前だった。残り僅かな博史との時間が、南には残念に思えた。
「あ~っ!南!見つけた!!」
裏通りから玄関口に続く路地に入った所で、逆側から現われた3人組に声を掛けられた。
「ちょっと!!何処に行ってたのよ!?探したんだから!」
雛の大きな声の後に、怒鳴る美緒の声が聞こえた。
南はその声を喜び、3人の元へ走って行った。
「ご免なさい。心配掛けて…。モールで迷子になっちゃった。本当にご免なさい。」
雛と抱き合った南の、嬉しさと寂しかった気持ちが爆発し、そこに申し訳なさも追加された。
そして心の底から安心した彼女は、遂に泣き始めた。
「あ~。南、泣いちゃ駄目!ゴメン!ご免ね…。」
座り込んだ南の側に雛が座り、彼女の頭を撫でてあげた。その後ろで、香は人知れず涙を流していた。
しかし…南との再会を泣いて喜んだ2人は楽しむだけショッピングを楽しんで、夕食も存分に堪能していた。その証拠に、服装はホテルを出た時とは違っている。
美緒を含めて、3人は懸命に南を探した。それでも何処にもいないと言う事は、恐らく南は、ホテルで待機していると決め付け、割り切って今日を楽しんだのである。
やっとホテルに向かった3人はその道中で南を見つけたので、彼女の苦労を知らずにいた。まさか南が、ホテルの名刺やメモすら部屋に置いて来た事実を知らなかったのだ。
美緒も財布係になったなら、交通費ぐらいは各自に持たせるべきだった。
「あ~。そうだった…。ご免、南。苦労掛けちゃったね…。」
落ち着いた南は、皆に事情を説明した。
美緒はすっかり反省して頭を下げ、明日からは、もっとしっかり準備をしようと決めた。
「それじゃ、南はどうやって戻って来たの?」
すっかり涙が収まった香が、冷静になってそこに気付く。
「あっ、モールで皆を探していたら、声を掛けてくれた人がいて…。偶然にも、同じ国から来た人だったんだ。…あれっ?」
再会に夢中になってしまった南は、博史の存在を忘れていた。
香の言葉に辺りを見回したが、しかし既に彼の姿は何処にもなかった。
「えっ?嘘!博史さんがいない…!」
南は、もう1度迷子になった感覚に陥った。
(怒っちゃたのかな…?まだ、キチンとお礼も言えなかったのに…。)
周囲を歩いて回ったが、やはり彼はいない。
南は、自分の不甲斐無さに悲しくなった。世話になり、楽しい食事と貴重な経験を与えてくれた彼の連絡先を聞けないどころか、記念写真の1枚も撮れないまま、お礼の挨拶も出来ないままに、彼がいなくなった事が残念で仕方なかった。
「急いでたか何かで、帰っちゃったんじゃない?」
お気楽な雛が、南の心境も察さずにそう話す。
「……。」
そうであれば良いのだが、彼を怒らせてしまったかもと思うと胸が痛い。
「ところで南、ご飯は食べたの?……?何か…匂うわね?」
美緒が心配しながらも、南の服から漂う匂いに気付いた。
南は、博史と美味しい食事をした事、誰も出来ないであろう経験をした事を自慢するつもりでいたが、博史が側にいない今、何の挨拶もなしに何処かへ行ってしまった今、口にする事が出来なかった。
「さっ、もう帰ろう?博史さんも何かの事情があって、先に帰っちゃったんだよ。ねっ?」
美緒が、心配そうに辺りを見回す南に気を遣い、彼女をホテルへと誘った。
南はまだ辺りを見回しながら、それでも美緒の後を追った。
部屋に戻った南が、今日一日の疲れをどっと感じて、倒れるようにベッドに横たわる。
その姿を見て、美緒が微笑んだ。
「ご免ね。明日からは皆に、メモと交通費だけは持ってもらうようにする。でも一番大切なのは、迷子にならない事だよ?」
美緒は南の側へ座り、彼女の髪を撫でながら少し怒った。
南の予想は的中し、美緒は、自分がホテルに戻って待機していると考えていた。それでも3人は、南を必死に探したと言う。
南はそれを聞かされ反省もしたし、皆の思いやりも感じた。悪いのは自分だった。
美緒とは仲直りする必要もなく、お互いが謝り合い、今日の出来事は水に流れた。
ただ南の心には、博史との別れが消化不良なまま残っていた。
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