第2話;迷子

 目的地に到着した。美緒は、誰よりも無事の到着を喜んだ。

 ショッピングモールは港沿いにあり、バスから降りると潮の匂いが漂った。それも異国の匂いがした。


 4人は港を見学しながら記念写真を数多く撮り、予定以上の時間を過ごした後、ショッピングモールで昼食を取る事にした。

 幸いにも英語のメニューがあり、美緒と香の努力で、どうにか美味しい食事を堪能出来た。


「おいっし~!」

「香の、ちょっと頂戴!」

「あ、駄目!それは私が食べる~!」


 初めての海外での食事に舌鼓を打ちながら、いつもの会話を楽しんだ。


「さっ、それじゃ買い物に出掛けますか!?」

「そうしますか!?」


 食事を終えると早速4人は、モールへ足を運ぶ事にした。食事中に、ガイドブックに載る店舗をチェックしていた。

 初日にお土産?と思われるかも知れないが、彼女達は自分の買い物をするつもりだ。経験豊富な美緒からの提案だった。この国の物価は安く、服でも何でも気軽に買えるのだ。また、気候が違うので、この国に合った服装が望ましい。

 彼女達が持ち込んだ荷物は、意外と少ない。それに比べカバンは大きかった。自分の土産として服を買い揃え、旅行中に着用するつもりなのだ。


「これ良い!これ欲しい!」


 買い物になると、今度は美緒が忙しくなった。この国なら例えショッピングモールであっても、露天店舗のように値引き交渉が出来る。彼女はそれなりの英語力で店員と交渉を続け、そのテンションを上げ続けた。これも、旅行の楽しみなのである。


 洋服を買うつもりだったが、アクセサリーも気になると言った雛が、香を誘って違う店舗へと向かった。30分後に元いた場所に集合する約束をし、2人は、いや、雛は香を引っ張って何処かに走り去った。

 雛がいつもの調子ではしゃぎ始めたのだが、美緒よりも英語が堪能な香が側にいるので問題ない。美緒と南はそう判断した。


「もうちょっと!他の店ではもっと安く売っていたわ!」


 初めて訪れた店舗で、美緒は嘘をつきながら値段交渉に奮闘した。

 いつもと違う美緒を見るのも一興だったが、退屈を覚え始めた南は、隣の店舗を覗きに行った。

 そこには、南が好む服が取り揃えてあった。


 夢中になってしまった南だが、欲しい物に目星を付け、財布係である美緒の下へ戻った。


「あれっ?」


 しかし、そこに美緒はいなかった。

 店内を隈なく探したが、それでも美緒は見当たらない。南は不安になり、駆け足で周辺の店舗に美緒の姿を探しに向かった。


「美緒~!何処にいるの~!?」


 それでも美緒は見つからない。

 南は何を思ったか美緒を諦め、雛達が向った店舗へと走り出した。


 その時、美緒は試着室にいた。

 本来ならば集合場所で待っていれば良かったのだが…不安に駆られた南は、正しい判断が出来なくなっていた。海外で迷子になる怖さは、当人にしか分からないのだ。

 携帯電話は、この国の空港で借りていた。しかしお互いが連絡を取る為のものではなく、家族に連絡する為のものだったので1台しか借りておらず、美緒が管理していた。

 1台しかないので、仮に南が預かっていたとしても意味がない。しかし、すがりたい藁も失った南の不安は、更に大きくなった。


(どうしよう…。このままじゃ私、本当に迷子になっちゃう…。)


 誰も知る人がいない、言葉も通じない場所では、人混みの多さが不安を煽る。

 空港で1人いた時と比べ物にならない不安を抑え、南は雛達が向った店を目指した。


 しかし、雛と香が見当たらない。それどころか、2人が向かった店も見当たらない。


(…。どうしよう…。本当にどうしよう…。)


 路頭に迷い、正しい判断が出来なくなっていた南だが、やっと元居た場所で落ち合う約束を思い出した。


(ここ…何処だろう?)


 急いで戻ろうとした南だが、既に迷子になっていた。美緒と居た場所すら分からなくなってしまったのだ。


 ショッピングモールは、2つの建物から出来ていた。南はこの時、美緒達がいる建物の、隣の建物に足を運んでいたのだ。雛達が見つからないのも当然だった。

 2人が向かった店の場所を探そうと、モール全体の案内図を確認した時、南はそれに気付いた。


 南は急いで元いた場所を確認し、そこに走って向かった。

 だが、3人の姿はなかった。

 定員の顔を覗く。美緒を見なかったか?何処に行ったのか?と確認したいが…残念ながら英語が話せない。私、フレンド、何処、その程度しか思いつく言葉がなく、自分が迷子だとも表現出来なかった。


 南は、その場で腰を落としそうになった。目尻には、既に涙が溢れていた。

 しかしそれで解決する訳でもなく、ずっと胸を圧迫する不安が南を苦しめた。


 南は、藁にもしがみ付く思いで、昼食を取った食堂へ向った。そこで誰かが待ってくれている気がした。

 だが、それも叶わない望みであった。

 楽しいはずの旅行が、いや、1時間ほど前までは楽しい時間を過していたのが、一瞬にして不安に駆られるだけの状況になってしまった。


 南はもう1度、美緒が買い物をしていた店舗まで戻り、周辺にあったベンチに座る事にした。そして3人がここを通ってはくれないか?自分と同じ顔、同じ言葉を話す人が通り過ぎないだろうか?と、辺りを見回す。

 しかし見える顔は全て、この国の人、若しくは違う国から来た人ばかりだ。もしかして?と思える人々も通ったが、気が小さい南は、声を掛ける事が出来なかった。



 どれだけの時間が過ぎたのか分からない。

 南は、ふと思った。


(このまま3人がモールを出て行ってしまったら、それこそもう、皆と出会う事が出来ない…!)


 南は急いで席を立ち、モールの正面口、自分達が通った玄関に向った。

 南が持つ時計にして、晩の7時になろうとしていた。ただ、彼女は時差の修正をしていなかったので、正確な現地時間は夕方の5時前である。

 しかし南は、食事を始めたのが遅い午後だったとしか覚えておらず、果たしてこの場で何時間を過したのかが、正確に把握出来ていない。


(もうこんな時間!本当に帰っちゃったのかな??)


 相変わらず冷静になれない南は、更に不安に陥った。

 しかしそこで南はふと、旅行前に4人で会った時の事を思い出した。行きつけである、大学近所のファミリーレストランで、旅行の計画を立てていた時の話だ。


『もし途中で迷子になったとして、誰とも会えなかったら、ホテルの部屋に戻る事。これがその住所だから、大事に持っていてね。』


 美緒がそう言って、手書きのメモを3人に渡していた。


(不味い…。本当にどうしよう…。)


 だが、それを思い出して安心するべき南が不安に駆られた。

 雛が心配なので、旅行中はパスポートとエアチケットを、美緒が管理する事になっていた。それだけなら良かったのだが、ホテルからここに来る前に、現金までも彼女が管理する事になったのだ。南は財布から今日使う分だけ取り出し、それすらも美緒に預けていた。

 そして、ホテルの住所が書かれたメモは財布の中にしまってあり、つまりそれは今、部屋の金庫の中にあるのだ。最後の手段である、ホテルに戻ると言う事すら出来なくなっていたのだ。


 八方塞がりだった。せめてホテルの名前だけでも覚えていれば、タクシーに乗って帰れたかも知れない。ただ、お金を一銭も所持していないのでそれも叶わない。バスに乗りたくても、乗り換えをする停留所が何処だったのかを覚えておらず、何より同じくお金がない。

 南は、遂に座り込んで顔を伏せた。泣いている姿を見られるのが恥ずかしく、そして怖かった。


 更に30分が経過した。この国の日没は遅いが、空の色は昼間と違った。

 泣き止んだ南の顔色はまだ悪く、元気も失せていた。正面口で3人の姿を探し続けたが、一向に見つからないのだ。


(…このままじゃ駄目だ。…勇気を出さなきゃ!)


 そこで南は3人を諦め、とある決心をした。ここにいても何の解決にもならないし、不安は増える一方だ。勇気を出して行動に出た方が、まだましだと考えた。

 南は立ち上がって大きく息を吸うと、大声で叫び始めた。


「誰か、私の言葉を理解出来る人いませんか~!?」


 南の声に周囲の人々が、一斉に彼女の方を向いた。

 恥ずかしいが、しかし照れている場合ではない。南は振り向く人々に、言葉が分かるかを聞き直した。


 それを5回ほど続けた。人の波が新しくなる度に大声を出し、振り向く人達に声を掛けた。

 殆どの人は容姿や顔からして、違う国の人だと分かった。それでも南は、声を掛け続けた。


 更に5回、都合10回ほどの勇気を出した南だが、もう、気が折れそうな心境まで追いやられていた。とても、記念旅行の1日目に味わう事ではなかった。

 最後の勇気まで振り絞り切った南は、自暴自棄になりかけた。人通りが多い正面口の真ん中で、もう1度座り込んでしまったのだ。


 しかしその時、顔を伏せていた南の耳に、聞き覚えがある言葉が聞こえた。


「あの…どうかしましたか?」


 鼻が詰まったような、少し高めの声だったが男性の声だ。

 南は顔を上げ、その声の主を見上げた。

 少し…いや、かなり安めなビジネススーツに、耳まで掛からない程度の、だが、整髪料もつけていない髪形の、パッとしない顔つきの男が立っていた。

 南はその容姿を見て、最初、違う国の人だと思った。だが、確かに彼は自分の国の言葉を扱い、声を掛けてくれたのだ。


「えっ…あの…私の言葉、分かりますか?」


 少し当惑した気持ちで、もう1度目の前の男に声を掛ける。そして座り込んでいた腰を、ゆっくりと上げた。

 背が低い南にとって、男は巨人だった。180センチほどの背丈をしており、体格は横にも大きかった。

 男は少し戸惑いながらも、南に返事をした。


「え…ええ、分かりますよ。あなたの話している言葉…。」

「!!!」


 言葉も発音も流暢である。決して優しく声を掛けてくれた感じではなかったが、南はその声に喜び、まるで雛のように飛び跳ねた。


「本当に分かりますか?あぁ…良かった~!分かりますよね?本当に分かりますよね?」


 戸惑う様子の男を前に、南は何度も言葉が理解出来るかを確認し、返事を貰う度に喜んだ。

 逸れる前までは知らなかった、自分の言葉を理解してくれる有難さと、ここが外国だと言う事を、南は身を持って知る事になった。




「えっ!?それじゃ、友達と逸れてしまったんですか?」


 落ち着きを取り戻した南は男と一緒に場所を変え、港にあるベンチでこれまでの経緯を説明した。


「そうなんです…。ちょっと買い物に夢中になっている間に…他の3人が見当たらなくなって…。一生懸命探したんですけど、見つからなくて…。仕方なく玄関の前で、皆が出て来るのを待ってたんです…。」


 暗い表情をする南の話を、男はからかう事なく、真剣に聞いてくれた。

 男はまだ若く、それでも南とは、10歳ほどの年の差を感じる容姿をしている。


「あの…僕は、岡田博史と言います。良かったら、一緒に友達を探しますよ?」

「えっ!本当ですか!?ありがとうございます。あ…私は、如月南と言います。」


 博史と言う男は、一緒に友人を探してくれると言う。


「とりあえず、もう1度モールに戻って、館内放送でもお願いしてみよう。」

「あっ、なるほど!そうしてもらえると有難いです。よろしくお願いします。」


 博史が賢明なのか南が足りないのか、今更のように館内放送で3人と合流する方法を取る事にした。



「いや…出来たら、彼女が直接話すようにしてもらえますか?」


 総合案内で館内放送をお願いしてみるものの、放送はこの国の言葉で行われた。

 博史も、それほど英語が流暢ではない。それは係の人間も同じであった。


 面白い事に、英語が流暢でなくとも、英語圏以外の国でなら会話が通じる事が多い。英語圏での会話よりも、スムーズに事が運ぶ事があるのだ。実力が足りない者同士の会話は基本的な単語のみで行われるので、理解も簡単なのだ。文法が間違っていても、相手を困惑させるような長い文章を話せる訳でもなく、難しい単語を使っている訳でもないので意思疎通がスムーズなのである。

 仮に、ここで博史が流暢な英語を使っていれば、むしろ案内係は理解に苦しんだのかも知れない。


 しかし困った事に、英語が堪能でない係の人間は、現地の言葉で館内放送を始めたのである。こうなると3人は、固有名詞である名前は聞き取れたとしても、何処に来いとか、何処で待ち合わせをしようなどの言葉が聞き取れず、目標が達成されない。

 それを悟った博史は南が直接で話す事で、他の3人が聞き取れると判断した。


 どうにか要望を係に伝える事が出来た博史が、南にマイクを促す。


「南です。美緒、香、ヒナ、ご免なさい。迷惑掛けてます。私は正面口で待っていますので、来てもらえますか?」


 知った顔に向けたメッセージなのに、館内放送と言う事もあってか、南は強張った口調と言葉でマイクに話した。

 それを2回繰り返すと2人は係に礼を言って、急いで正面口に向かった。



「来ないね…。誰も…。」


 3人の顔を知らない博史は、誰も南に近寄る者がいない事を確認して呟いた。


「……。」


 不安がらせる言葉だったが、それでも南は落ち着いていた。言葉を理解してくれる人と出会えて、自分を助けてくれる。また彼は年上で、海外で困った時の対処にも慣れた感じがした。


「誰か、携帯とか持っていないのかな?」

「…持ってはいますが…。」


 博史はこの国の携帯電話を所有している様子で、そこから友人に連絡を取る事を提案した。

 だが南は、今日借りたばかりの携帯電話の番号を知らない。元々は家族へ連絡する為のものなので、知る必要もないと思っていた。残念ながら、ホテルの名前も覚えていない南である。電話の番号など、知るはずもなかった。

 博史は、それでも優しく笑い、他の方法を考えようと言ってくれた。


「あっ…ひょっとしたら…」


 少し経って南は、旅行前の約束を思い出した。

 しかし同時に別の問題も思い出し、改めて困り始めた。


「…実は…もし誰かが迷子になったら、ホテルで待機する事にしたんです。他の3人はホテルに戻っているか、それともまだ買い物をしているか…どちらかかも知れません。」

「そうなんだ…。でも、買い物をしていたら多分、館内放送に気付いてくれてるはずだから…ホテルに戻ったか、他所に行ってしまったかだね。多分、ホテルに戻ってるよ。友達を残して、他の所には行かないと思う。」

「……。」


 博史の言葉に、南は口を閉ざした。

 香には自主性がない。他の2人に従っている事だろう。雛は薄情と言うよりも、自分の事しか頭に入っていない。

 美緒は…しっかり者なのだが、他の人も自分と同じだと思う性格なので、彼女は、南は今頃ホテルで待機していると思っている事だろう。しかし南は、美緒ほどしっかり者ではないのだ…。

 南は、他の3人はホテルに帰ったのではなく、別の場所へ移動してしまったと判断した。


「それじゃ、ホテルに帰って友達を待とうか?」


 博史が提案するが、そこで南は困った顔を見せた。


「あの…済みません…。私、ホテルの名前が分からないんです。」


 南は、それだけを伝えた。もっと肝心な事は言えずに終わった。


「えっ…!ホテルの名前が分からない?」


 これには博史も当惑した。

 驚く博史を見て、南は自分の足りなさを補おうとしたのか、ただただ必死だったのか、焦った声で言葉を続けた。


「あの!物凄い大きな道路の側にあるホテルなんです!道の真ん中には路面電車が通っていて…空港からバス1本で行けて、最後の停留所で降りて、そこから歩いて行けるホテルなんです!…何処か…分かりませんか?」


 南に緊張が走る。これで博史が分からないとでも答えると、また八方塞がりになってしまう。

 バスでの帰り道を説明したかったが、それはもっと複雑だ。余りにも、美緒に頼り過ぎていた。

 それでも博史は嫌がる顔をせず、一生懸命に頭を悩ませてくれた。


「空港から、バスで1本…。大きな通り…。路面電車…?」


 少し考えた博史だが、何となく手掛かりを掴めた。思い当たる場所があるのだ。


「ひょっとして、ソイ・ストリートの事かな?」


 そこはこの国で一番繁華な場所にある、一番大きなストリートだ。

 博史の予想は合っていたのだが…。


「いえ…。道の名前までは…。」


 南は、ストリートの名前も知らない。ホテルの名前も知らない者が、前にある通りを知るはずもないのだ。


「空港からバス1本で行ける大きな通りと言えば、ソイ・ストリートなんだけど…。路面電車も通っているし…。でも、最後の停留所の近所に…ホテルなんてあったかな…?」

「ホテルは大通りにあって、でも入り口はそこからじゃなくて、細道に入ったところにあるんです!大体…20メートルぐらい入った所に…。ホテルは、建物全体が鏡みたいになっていて、ホテルを囲む壁は白くて、高い塀になってたんです!」


 南は最後の綱である、博史の記憶にしがみ付いた。


「あっ!思い出した!」


 頭を捻る博史を必死な形相で見守る南だったが、思い当たるホテルの名前を耳に出来た。


「そう!そのホテルです!そこ!思い出しました!そのホテルに泊まっているんです!」

「えっ!?あのホテル?あのホテルなら、もう1つ手前の停留所で降りなきゃ…。多分、降りる場所を間違えたんだね。」


 美緒の嘘がばれてしまった。


「あそこには…確かバスで行けたはずなんだけど…。路線までは把握していないな…。申し訳ないけど、タクシーで帰るしかないかもね。地下鉄はここにはないから、一番近い駅までタクシーに乗って、そこから地下鉄に乗れば良いよ。あっ、それともモールの案内所で、バスの路線を教えてもらおうか?」

「…あの…。」


 ホテルが分かった博史は帰り道を教えようとしたのだが…南はもう1つ、博史に言わなければならない事が…頼まなければならない事があった。


「私…お金がないんです。一円も持ってないんです…。だから…」


 南はカバンを開け、財布がない事をアピールした。

 表情は必死だった。初めて会う人に、見知らぬ海外でこんなお願いをする事が恥かしく、そして申し訳がない。だから南は、核心的な言葉を濁してしまった。


「そうか…。それじゃ、僕が一緒にホテルまで付いて行ってあげる。」


 博史もその言葉を聞く前に察し、南の面子を保つ為にも核心的な言葉を口にする事を遠慮した。




「本当に…良いんですか?」


 2人はタクシーの中、南が宿泊するホテルに向っていた。


「うん。僕が宿泊するホテルは、君のホテルからそう遠く離れていないから。送って行くよ。」

「済みません…。ありがとうございます。」


 心の中では爆発しそうなくらい嬉しい南だったが、初対面の人にタクシー代まで出させた事が気まずく、暗く、申し訳ない表情を崩さなかった。



 タクシーが目的地まで到着し、南は見た事がある建物の前で安堵の溜め息をついた。

 博史はタクシー代を払い、南と一緒にホテルのフロントまで付いて来てくれた。


 タクシーの中では元気がなかった南だが、ホテルに戻ると口数が多くなった。


「ありがとうございます!本当に助かりました。あの…タクシー代は、直ぐにお返し出来ますんで…。」


 さっき言い出せなかった言葉も素直に言えた。


「あっ、それは構わないよ。僕も、自分のホテルまでタクシーで帰ろうとしていたから。君のホテルが近くにあって良かった。気を使わないで。」

「それは駄目です。せめて、自分の分は払わせて下さい。後、南って呼んで下さい。君って言われると、何か…変な感じがします。」

「あ、ご免ご免。それじゃ…南ちゃん。」

「南で大丈夫です。」

「はは、そうか。」


 南は、無事にホテルに戻った安心もあってか、もう少し博史と打ち解けたい気持ちになっていた。

 博史は少し照れ、また、急に元気になった南に戸惑いもした。


 フロントで3人の帰りを確認したが、残念ながら南の予想通り、彼女達は戻って来ていない。時間は既に、午後9時を過ぎていた。おそらく3人は、夕食を済ませて戻って来るのだろう。

 レストランは、ガイドブックに載っていない店で、美緒が独自に調べたものだった。南はそこに向うのを諦め、皆の帰りを待つ事にした。


『グウゥゥ…。』


 気持ちは待つつもりでいるのに、胃は、耐えられないと叫ぶ。お腹が鳴ってしまった。隣の博史にも、そして向かいにいるフロント係にも聞こえるぐらいの勢いで…。

 南は顔を赤くし、博史は隣で微笑んでくれた。


「皆、帰って来るのが遅いのかな?」

「……。」


 恥ずかしさの余り、南は返事が出来なかった。


「もし良かったら、近所にお勧めのお店があるんだけど、そこで一緒にご飯を食べない?」


 恥ずかしがる南に必要以上の気配りはせず、博之は彼女を食事に誘った。

 最初は断ろうとした南だが、他の3人は当分帰って来ない。それを考えると寂しさと空腹が、博史の誘いを受けろと五月蝿くなった。


「どう?無理にとは言わないけれど。」

「分かりました。そうしましょう!」


 自然体な博史の態度に、南は了解を返した。


「それじゃ私、部屋に、お財布を取りに行って来ます。」


 夕食代は払いたいと思った皆見は、急いでフロントにスペアキーを貰おうとした。自分では何も出来ない訳ではないのだが、美緒が側にいると、ついつい頼ってしまう。南はパスポートやエアチケット、財布だけでなく、ルームキーも美緒に預けていた。


 フロント係が、パスポートの提示を求める。南が宿泊者かどうかを確認したいのだ。

 行き届いたサービスが仇になった。パスポートも同じく、部屋の金庫にしまっているのだ。

 仕方がないので2人はセキュリティー係と一緒に部屋に向かい、鍵を開けてもらってから金庫にあるパスポートを見せ、確認を取ってもらう事にした。


 部屋に向かい、無事に扉を開けてもらう。


(!?)


 ほっとする南が係に見せたパスポートを、博史は曇った顔で見ていた。


「あの…これ…。」


 エレベーターの中で、南が財布からタクシー代の半分を取り出す。


「……?あっ、良いよ、本当に。僕はタクシーで帰って来るつもりだったから、本当に気にしないで。」

「えっ…。でも…。」

「本当に構わない。………。」

「済みません…。ありがとうございます。」

「………。」


 呆然としていた博史が、差し出されたお金に気付いて我に戻り、それを遠慮した。


「…大丈夫かな?僕の、お勧めのお店で…。」

「構いません。すごく楽しみです!」


 お金を手にして、ホテルにも無事到着。部屋にも無事に入れた南はすっかり安心しきっており、気持ちも高ぶっていた。そのせいか、お腹は先ほどよりも空いていた。


「歩いて行ける距離だから…。それじゃ、行こうか?」

「はい!」

「……。」


 目的の場所までの道中、南とは違って、今度は博史の口数が少なくなっていた。

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