第27話 話題の電脳barへ行く
最近流行りのVRFD(バーチャルリアリティフルダイブ)でここ最近ようやく居場所らしきものを手に入れたかもしれない。
仕事が終わり帰宅。疲れたオレは食事を早々に済ませ、フルダイブスキャナを装着しVRの世界へ落ちる。
画質は荒かろうがどうでもいい、暗い道の先にbarがある。そこへ足を進め扉を開ける。
猫の鈴のような軽いドアベルが鳴り、マスターが出迎えてくれた。
「いらっしゃい」
物静かなbarに流れるジャズとマスターのこの声を聴いただけで安心する。
オレは黙って席に着き、カウンターに両肘を乗せて組んだ手の上に頭を乗せた。ふぅと一息出る。ここは空気すら美味い。澄み切った森の夜のように都会の濁りが無い。この雰囲気がたまらなく好きだ。
「お疲れのようですね」
VRだけあって、客は表示オフに設定できる。相互表示もオフにしてあるので、誰かを見る事もオレを見つけることもできない。barの管理人であるマスターを除いては。
「いつものことさ……マイティバロックを」
「かしこまりました」
手早くマスターがカクテルを作る。実に無駄がなく、的確に小気味良いシェイク音を立てて出来上がる。
無言で出されたマイティバロックはマスターオリジナルカクテルだ。
格式高いバロック調をさらに強めた味わい。という表現しか当てはまらないほど、どこにもない味わい。甘くもなく苦くもない。舌にしみ込む強烈な印象。アルコールの風味も冷たさでしか感じられず、もう一口飲んでも味がわからない。
乳臭さの無い牛乳のような、ココナッツ臭くないココナッツミルクのような、
コーヒーのように味わい深いが、それよりも固く確実に鼻孔を抜ける香り。
「何度飲んでも不思議な味だね」
「どうも」
それだけ言うとマスターは手作業に戻る。
しばらくの間、ジャズだけが流れる時間が過ぎた。
オレはタバコも葉巻も吸わない。ただここに疲れを溶かしに来ているだけ。
誰かと何かを話すわけじゃなく、マスターのマイティバロックを飲む。
それだけでオレは幸福を感じた。
今日の疲れと明日への不安と過去の失敗もすべて、ここにはない。
「……ふぅ」
ため息を落とすのすらここには似合わないと思う。
だがこのカウンターで泥のように疲れて座るのが何よりも幸福なんだ。
時間は30分。それ以上も以下も無い。何も考えない時間。誰にも邪魔されない……VRFDならではの至福。
これがオレが見つけた少しの楽園だ。
「マスター、お代置いておく」
「ご利用ありがとうございました」
オレはここに立ち寄る前よりもしっかりした足取りでこの店を出る。
明日も仕事頑張ろう。そしてまたここに来よう。
barを出てそう思う。猫の看板にはセリヌンティウスとネオンが光っている。
そういえばここの店の名前知らなかったな。セリヌンティウスっていうのか。
マスターはオッドアイの黒猫アバターで看板の黒猫もオッドアイだ。
「……あれ?」
ふと、オレは根本的な大問題に気付いた。
オレはいつVRFDなんて始めたんだ? そもそも、……そんな技術は夢物語のはず。
いつ、そんな技術が公表されて、一般販売からの、端末を買う経緯につながったんだ?
万年金欠のオレがどうやって高価な最先端技術なんて手に入れた……?
「……」
まあ、いいや。
そんなことより、仕事行って、帰りにマスターのマイティーバロックが飲みたいんだ。
ログオフの端末まで足を運び、現実に帰ってくる。
とくに考えるでもなく、布団の中で丸くなった。
酒の心地よさは揺り加護の中のように柔らかく優しい。
――END――
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