技術者への軌跡
三由 民樹(みよし たみき)
技術者への軌跡
私は、小学校卒業の時、先生から「将来どのような職業に就くか」と尋ねられた。「電気技術者になりたい」と答えた。その通りになった。今は、定年退職から10年以上が過ぎ去ってしまった。
私は、仕事に就くまでどのように育ったかを書いてみたかった。そのようなエッセイはあまりお目にかからない。フェイスブックのノートに書き溜めたものがあった。しかし、気が付いたら締め切りの日だった。せっかくなので、一気にアップすることにした。
私は単純な人間で、電気が好きだから技術者になりましたが、こうあるべきと言っているわけではありません。人それぞれです。むしろ、勉強も遊びもうまくこなした人のほうが高い地位につく場合が多いかもしれません。しかし、多数をしめるごく普通の技術者がしっかりしないと、よい商品やシステムが成り立ちません。後付けでもかまいませんが、好きであるからこそ頑張ることができると思います。
また、今回は触れませんでしたが、大学在学中の学長丹羽保次郎先生が「技術は人なり」と言われました。簡単に言うと「商品にはそれを設計した技術者の人柄があらわれる」という意味です。したがってよい商品を作るためには、よい技術者にならねばならず、そのためには修養が必要であるということでした。卒業の際全員が「卒業生に贈る」という小冊子をいただき、その中にその他も含め慈愛にみちた言葉で書かれておりました。私は、システム設計の担当を始めた30歳中頃から何度読み返したかわかりません。興味があるかたは、検索していただけば概要を見ることができます。どんな職業にも言えると思いますが、人間的に成長する努力が必要ということでしょう。
それでは、以下に物語を始めることにします。
「技術者への軌跡」
これまでを支えてくれた妻に捧げる
はじめに
「現在、過去、未来」。私が生まれてから現在までの体験や行動がもとになっているはずである。
技術者への軌跡0
1 おぼろげな時代
私は、昭和17年6月に浅草観音様のすぐ北側にある浅草寺病院で生まれた。太平洋戦争のさなかだった。病院から少し北寄りにある祖父母の家に父母は同居していた。その場所は、古い戸籍によると東京市浅草区千束町1丁目となっている。
借地の上に建つ小さな家の割には多少の資産があり、初孫であったためか祖父母からもずいぶん可愛がられて育ったようである。少年時代によく眺めていた家族の写真集から当時の様子を偲ぶことができた。この頃のはっきりとした記憶は、当然のことながらない。しかし、薄暗い天井に裸電球がぽつりと浮かび見上げたこと、母が歌っていたのか心地よい江戸子守歌の調べ。なだらかに弧をえがくとんがり屋根のメリーゴーランドが回転していた。誰かに抱かれて私が木馬に乗り、周りの木馬がゆっくり上下に動いていた。その情景が夢のようにおぼろげに思いだされるのである。
住んでいた家は空襲で焼けてしまった。終戦後、祖父母が引き続いて住んでいたので、子供の頃は泊り掛けでよく遊びに行った。私は、数年前から、毎月のように用事でその場所にでかけるようになった。その度に、懐かしい思いが呼び出されてくる。
父は、私が生まれた後、間もなくビルマへ出征した。帰国後しばらくして、父母と私の3人で世田谷の下北沢へ転居した。昭和20年3月10日の東京大空襲の時分には父の郷里へ疎開したので、住んでいたのは僅かな期間だった。
人は何歳からのことを記憶しているのだろうか。私のおぼろげながら確かな記憶は、この下北沢にいた3歳にもならない頃から始まっている。古い記憶は、写真のように静止した瞬間であったり、駒落としの画像のようにぱらぱらといくつかの連続した場面であったりする。住んでいた家は崖の上に建っていた。窓のすぐ近くから向う側に地面が低くなっていた。その窓のある部屋が居間兼食事室になっていて、ちゃぶ台の前に私が両親と窓に向かって食事のために座っていた。その瞬間と自分の左手とが二枚セットの写真のように記憶されている。私は左利きである。箸と筆だけは右手で持つ。後に矯正したと親から聞かされた。食事の時に左手に持った箸を右に持ち替えるよう親から注意を受けていたのだろう。その時代はどこの家庭でもそうだったらしい。戦後になり、無理に矯正しない時代になったようである。縁側の下に小さな防空壕が掘ってあったようだった。暗い穴の中で茶筒からとりだした豆粒を親からもらっている瞬間が記憶にのこっている。向かえの家のおばさんからトマトをもらったことがあった。戦時中の厳しい時期だった。「その頃、よくお前を肩車して坂を登った、お腹が減ってとても辛かった。」と後に父から聞いた。
2 疎開時代
世田谷から父の郷里である富山県魚津市へ疎開し、5歳位までをそこで過ごした。新金屋町という魚津駅より10分ほどの所だった。その家は父の生家であるが、当時は父の両親と長兄の家族が住んでいた。鄙びた幹線沿いにある町屋風の造りの家だった。北側道路の家で、北東の角部屋が仮住まいの部屋だった。道路向きの窓には縦格子がつけられていて、西側には引き戸があり、その外は濡れ縁だった。北西の角に玄関があった。北陸の冬は厳しい、雪の降る日は遊びに出ることが許されない。薄暗い玄関で、引き戸の桟越しにちらちらと止めもなく降る雪を、じっと長い間眺めていたことを覚えている。家は、後に魚津大火で焼けてしまった。
いたずらが好きな子供だった。それが過ぎて、何度も倉に引っ張っていかれた。電熱器のニクロム線を取り外し、伯父からこつんと頭を小突かれたこともあった。その割には、恥ずかしがり屋で頑固なところがあった。近くのお寺に開設された保育所に通うことになったが、何度連れて行かれても帰ってきてしまった。結局行かなくなってしまった。このことは後に母から度々こぼされた。最近、妻と魚津の街を散策する機会があった。大通りから路地越しに見えた景色が一度見たことがあるように思えた。路地を入り、お寺の建物を観ているうちに懐かしさがこみあげてきて、体中が熱くなってしまった。華王寺というお寺に「川原保育園」が現在でも併設されていた。数回しか通っていないのに、眼に焼きついていたのだった。
その女性は、家の前にある神社の鳥居をくぐり、まっすぐに進んだ右手の屋敷に住んでいた。その神社の境内は格好な遊び場になっていたので、よく前を通り抜けていた。境内に面した部屋は、中がよく見えるほど開放されていた。その若い女性は結核にかかり療養していたようだった。何度か話をした記憶がかすかに残っている。その女性は間もなく亡くなった。火葬場の骨拾いの場に私はいた。尖った白い鼻骨が強烈な印象として残った。人が死ぬということを初めて知った瞬間だった。神社に入って左手には、鍛冶屋があった。その作業場は外からもよく見ることができた。内部は煤けて暗かった。鍛治工がふいごを操作したり、真っ赤に焼けた鉄を「トンカン トンカン・・・」と火花を散らし打ちつけながら、段々蹄鉄などの形が作られていく、そのような作業の過程をじっと見つめるのが好きだった。物が作られる様子が、とても興味深く感じられたのだろう。後に自分がものづくりの世界に入ったことが、この時の光景を長く保存しているのだろうか。
近くの友達と連れ合って、街の中心街へ遊びに行った。その少年は、ちょっと待って、といい或る商店の店先に歩み寄った。人の気配がなかった。商品ケースのガラス戸を開け何かを盜って戻ってきた。私にその一つをくれた、鬢止めだった。私は着物の袖の隙間にねじ込んだ。家に戻るあいだ心臓が激しく騒いでいた。母にいきさつを話し、鬢止めを渡した。母は驚いた様子で黙っていた。万引きの事件が報じられると、私はいつもその時のことを思いだす。
昭和20年8月2日は、富山大空襲の日で、174機のB29爆撃機が、富山市を襲い、死者2千7百人以上、負傷者約8千人だったという。父方の伯母がその時に亡くなったと聞いた。その日、お宮の鳥居の前に人が集まり、空を見上げていた。私も見上げた。「ぶるんぶるん・・・」という大きなプロペラ音とともに、B29の大編隊がトンボの群れのように飛んでいた。母に手をひかれ走りながら片貝川の河原に逃げた。おおぜいの人が集まっていた。闇の中で富山市のあたりが真っ赤に焼けているのが富山湾越しに見えた。私は20歳台の終り頃まで、巨大な飛行機が寝ている自分をめがけて迫ってくる夢をよく見た。飛行機の太い胴体の裏側が目前にきたところで、いつも夢から覚めた。空襲の恐怖心が原因ではないかと長い間思っていた。終戦の日だったのだろう。家の人達がラジオの前に集まりラジオ放送を聴いていた。大人たちは、うつむき加減に立ちつくしているようだった。こうして戦争が終った。
私は富山大空襲で破壊された焼け跡の中にいた。ゴロゴロとした瓦礫があたり一面に広がっていた。向こうから、弟を身ごもり大きくなったお腹を揺すりながら母が急いで近づいてくる。私の夜尿症の治療のために母に連れられ、はるばる富山市の医院にきたのだ。2度目の治療だった。初回は背骨に太い注射をされ、それからしばらく老人のように腰がまがって大変不自由な思いをした。行き先を知らずに2度目の治療に来たのだが、医院に近づいたとたんに「また注射を打たれる」と前回を思いだして焼け跡の中を逃げたのだった。しばらく逃げてから、瓦礫の影に隠れた。そっと覗くと、向こうから母が大きなお腹を揺すりながら追いかけてくる。母が気の毒だと思った。私は観念して物陰から母のほうに飛び出していった。そうして、またしばらく腰がまがることになった。その後、夜尿症はけろっと直ってしまった。
疎開していた家に、古い地図帳があった。私はそれを眺めるのが大好きだった。亜細亜の地図を開くと、日本の国土は赤く塗られていた。周辺の南樺太、朝鮮、台湾なども赤で塗られていた。「なんで周りにも赤いところがあるの?」「昔は、日本の領土だったんだよ。」などと、まわりのものと言葉をかわしたような気がする。のちに学校に行ってからも「地理」の教科が好きだった。現在でも、今まで住んだところ、仕事や旅行で行ったところなどの地図を見ながら思いにふけるのが楽しみである。
疎開生活が終り、いよいよ帰京することが決まった。父の勤務先の家族寮に入ることになった。汽車に乗り、家族5人で東京に向かった。夜行列車だったのだろう。信越線の軽井沢付近だろうか、私は4人掛の座席の窓側に座っていた。朝明けだった。汽車はゆっくり走っており、沿線の木の枝が窓越しに迫っていた。木の葉から露の滴がぶらさがり、日の光をすかしてきらきらと輝いていた。期待と不安を抱えていた私は、その時、これからの希望がかすかながらみえてきたように思えた。
3 小学校時代
吉祥寺家族寮は、現在の武蔵野市吉祥寺南町にあった。鉄筋2階建の少し古びた建物だった。住んでいた部屋は2階にあり、ドアを開けて入るとほんのわずかばかりの踏み込みがあり、和室1間に流しがついただけの造りだった。それでも不自由したという思い出はない。この頃はまだ食料不足で配給も行われていたし、大抵の人はギリギリの生活で精一杯暮らしていたのだ。しばらくして、武蔵野市立第三小学校に入学した。昭和24年4月のことだった。教室が足りず2部授業が行われていた。新入生となった1学期の間、晴れている日は校庭での外遊びが中心だった。学校から帰ると、寮の餓鬼大将につき従って寮の中や周りで遊んでいた。井の頭公園へ遊びに行くことが楽しみだった。池に落ちてずぶ濡れになり泣きながら帰ったこともあった。みんな一度は経験することだった。
中野への転居
2学年になる前に中野区新井町へ転居した。六畳と四畳半の和室に台所がつき、トタン屋根のバラック造りのような家だった。両親は自分たちの城を持てた喜びが大きかったことだろう。後に、風呂場や居室が少しづつ増築されていった。私にとってもここで育ったという思い出の多い家であった。区立野方小学校の2年2組に転入することになった。この学校にいる間に、「電気技術者」になるという将来の目標を定めることになった。私にとって重要な時期であったと考えている。低学年の間は、学校から帰るとすぐ家を飛び出し、級友といくつかの遊びの拠点に集まり、遊びまわるという日常だった。鬼ごっこ、かくれんぼ、めんこ、ビー玉、缶けりなど素朴な遊びの時代だった。そのうちに軟式野球が流行りだした。近くの中野刑務所のそばにいくつかのグランドがあり、そこで暗くなり球が見えなくなるまで興じた。時には大人のチームと対戦することがあった。
当時、中野刑務所は進駐軍に接収されていた。日本に駐留している米兵の犯罪者が収容されていたようである。もちろん、施設の運営管理も進駐軍が行っていた。そのような環境なので、町中で米兵をよく見かけたし、時には米軍のジープに群がる女性たちを目撃したこともあった。原色のドレスを着たそれらの人々は、その着衣や物腰などから私には違った世界の日本人に見えた。グランドの傍らに米軍の宿舎があった。ある時、周りを巡らせてある金網越しにその光景を目にした。夕げの催しごとがあったのだろうか。米兵に婦人や子供を含めた人々が屋外で子豚の丸焼きを作っていた。子豚は口から尻まで鉄の棒でくし刺しにされ、たき火の上にセットされ手回しハンドルでグルグルと回転させられていたのだ。私は当時の日本の食文化との違いを強烈に感じた。
病気小学校4年生の時、気管支炎をこじらせて一ヶ月間学校を休んだ。身体がだるく微熱がつづいた。医師から安静を命じられていた。離れの6畳間が養生の場所だった。何もできず退屈な日々だった。私は寝ながら天井板の木目の模様を目でゆっくりとたどってみたり、杉柱の木目を手でなぞったりして過ごした。退屈しのぎに窓の欄干の上に立ち往来を眺めたりした。もともと、身体は丈夫なほうではなかった。「こんなことでは大人になるまで生きていれるんだろうか」という不安に襲われることがあった。そういえば、クラスのNさんとSさんという女の子がお見舞いに来てくれた。家にはほんのしばらくしかいなかったが嬉しかった。後に耳にしたところでは、二人とも二十歳の時にお嫁に行ったそうだ。浅草の祖父が見舞いにきた。欲しいものを買ってやるという。「鉱石ラジオ」を買ってもらった。それは模型屋にずいぶん前から飾られていたが、とても手に入る物ではなかったので大喜びだった。鉱石ラジオは、木箱の本体と両耳ヘッドセットから構成されている。アンテナは、電線をコンデンサーを介して裸電球の口金に接続する、いわゆる電灯線アンテナである。アースは、電線を庭先の地中に差し込んだアース棒につなぐというものだった。ラジオ放送は、よく聴こえた。聴くだけではものたりず、本体のネジを外し中の部品や接続の状況を調べたり、ヘッドセットを分解してまた組み立てるということを何度も繰り返し行った。しばらく後に同級のT君が鉱石ラジオのキットを購入し、組み立てのお手伝いをした際にこの経験が役に立った。このことが「ラジオ」というものに強い関心を持つきっかけとなった。
一ヶ月の療養期間が終り学校に復学した。その後半年ほど体育と外遊びが禁止された。その結果、「ラジオ工作」に傾注することになった。私は、ボータブル型の真空管ラジオを作りたかった。300円の小遣いを握り模型屋に走った。店の主人に相談して、とりあえずアルミシャーシ(基台)付のケースとバリコンを買った。引き続き抵抗、コンデンサ、ソケットなどの部品や真空管を買い足しながら組み立てていった。電池は確か1.5ボルトと45ボルトだった。1T4という真空管を使った「単球再生式ラジオ」というものだった。短いビニール線をアンテナとし、クリスタルイアホンを耳に差し込んで聴いた。U君という鉄道模型が好きなクラスの友達がいた。模型を見せてもらうためによく遊びに行った。それが縁で近くに住むSさんを知った。私達はSさんを「ラジオのお兄さん」と呼んでいた。歳は二十歳前で、米軍立川基地で通信機の保守の仕事についていた。ラジオやオーディオに大変詳しかった。毎週のように下宿先へ遊びに行った。Sさんの案内で秋葉原に初めて行った。ラジオストアやラジオデパートといった部品を売っている場所や店での買い方を教えてもらった。時々、真空管や部品を貰えるのもありがたかった。
浅草の家
秋葉原の一つ先の駅は浅草橋である。駅からバスに乗り蔵前、厩橋を経て国際通りにでて「千束1丁目」で降りると祖父母の家はすぐそこである。こうして、私は一人で泊まりがけで遊びにいくようになり、長いときは夏休みに一ヶ月ほどいたことがあった。平屋の母屋には、8畳と6畳の和室があり、小さな庭との間に廊下が走っていた。和室と廊下の間は、雪見障子で仕切られていた。廊下の先に便所があり、のちに風呂場が増築された。6畳には和箪笥が2本あるだけで、8畳は長火鉢とちいさな書棚がありその上にラジオがおいてあった。私は6畳に寝ていて、朝、祖母がパタパタとハタキをかける音で目覚めていた。和室はいつもゴミ一つなくきれいにしてあった。屑籠というものがなく、工作好きの私が紙屑などを捨てるのにたいへん困った記憶がある。食卓は、不断はどこかにしまってあり、食事のときにちゃぶ台がでてきた。ラジオからはいつも広沢虎三の浪花節が流れていて、時には私もじっと聴きいっていた。祖母が時々煙管に刻み煙草をつめ、スパスパと吸ってはトンと叩き長火鉢に灰をすてていた。中野の家にはまだ電話がなかった。たまに母が近所の電話を借りて確認の電話をしてきた。なんとものんびりした時代だった。テレビもなかった。祖父母の家は、その後テレビが入っただけで、私が成人する前に祖父が、成人した後祖母が亡くなるまでそのような暮らしが続いたようだった。
浅草の遊び
近所の遊び友達もできた。「ギャングごっこ」といって、立て込んだ家々の路地を走り廻る遊びが目新しかった。国際通りはまだ舗装されていなかったが道幅は現在の広さがあった。当然交通量はわずかだった。ときたまアメリカ製の乗用車が通過した。遊び仲間と道端にしゃがみ込み「リンカーン」、「ビュイック」という具合に車名をあてて遊んだ。このあたりから千住方面を望むとお化け煙突が見えた。4本の煙突が菱形の頂点に配置されていて、見る場所により煙突の本数が変化する。祖父宅の前の道路から遠くに小さく隅田川の花火を見ることができた。現在では想像できないほど建物が低く平らな街だった。時には数人で連れ立って松屋デパートや吾妻橋あたりまで出かけた。国際劇場の催し案内を横目で見ながら花屋敷で一遊びして、六区の映画街をとおり見せ物小屋を眺めながら観音様の境内を抜け松屋デパートに至るというのが定番のルートだった。松屋デパートのおもちゃ売り場を見るのが楽しみだった。先日5階の売り場を見に行った。昔の売り場と位置が変わっていないように思えた。建物の階段も昔のままで、懐かしさがこみあげてきた。当時の隅田川の川面は、どす黒く汚れていた。ゴミが流れ異臭を感じることもあった。時折ポンポン船が荷物を引きながら通っていった。
技術者への軌跡1
もともと工作好きな子供だった。小学校4年生の時、気管支炎をこじらせて一ヶ月間学校を休んだ。身体がだるく微熱がつづいた。医師から安静を命じられていた。離れの6畳間が養生の場所だった。何もできず退屈な日々だった。私は寝ながら天井板の木目の模様を目でゆっくりとたどってみたり、杉柱の木目を手でなぞったりして過ごした。退屈しのぎに窓の欄干の上に立ち往来を眺めたりした。もともと、身体は丈夫なほうではなかった。「こんなことでは大人になるまで生きていれるんだろうか」という不安に襲われることがあった。浅草の祖父が見舞いにきた。欲しいものを買ってやるという。「鉱石ラジオ」を買ってもらった。それは模型屋にずいぶん前から飾られていたが、とても手に入る物ではなかったので大喜びだった。鉱石ラジオは、木箱の本体と両耳ヘッドセットから構成されている。アンテナは、電線をコンデンサーを介して裸電球の口金に接続する、いわゆる電灯線アンテナである。アースは、電線を庭先の地中に差し込んだアース棒につなぐというものだった。ラジオ放送は、よく聴こえた。聴くだけではものたりず、本体のネジを外し中の部品や接続の状況を調べたり、ヘッドセットを分解してまた組み立てるということを何度も繰り返し行った。しばらく後に同級のT君が鉱石ラジオのキットを購入し、組み立てのお手伝いをした際にこの経験が役に立った。このことが「ラジオ」というものに強い関心を持つきっかけとなった。
一ヶ月の療養期間が終り学校に復学した。その後半年ほど体育と外遊びが禁止された。その結果、「ラジオ工作」に熱中することになっていった。私は、ボータブル型の真空管ラジオを作りたかった。300円の小遣いを握り模型屋に走った。店の主人に相談して、とりあえずアルミシャーシ(基台)付のケースとバリコンを買った。引き続き抵抗、コンデンサ、ソケットなどの部品や真空管を買い足しながら組み立てていった。電池は確か1.5ボルトと45ボルトだった。1T4という真空管を使った「単球再生式ラジオ」というものだった。短いビニール線をアンテナとし、クリスタルイアホンを耳に差し込んで聴いた。U君という鉄道模型が好きなクラスの友達がいた。模型を見せてもらうためによく遊びに行った。それが縁で近くに住むSさんを知った。私達はSさんを「ラジオのお兄さん」と呼んでいた。歳は二十歳前で、米軍立川基地で通信機の保守の仕事についていた。ラジオやオーディオに大変詳しかった。毎週のように下宿先へ遊びに行った。Sさんの案内で秋葉原に初めて行った。ラジオストアやラジオデパートといった部品を売っている場所や店での買い方を教えてもらった。時々、真空管や部品を貰えるのもありがたかった。ラジオ関係の本や雑誌を読み、徐々に知識が増えていった。ラジオの同調コイルの巻数を少なくするほど受信周波数が高くなることを知った。私はコイルを少しずつほどきながら受信することを繰り返した。すると外国語の放送だけではなく、英語のような日本語のような音声が聴こえてきた。これが「アマチュア無線」との出会いだった。
小学校を卒業する直前、担任のO先生が一人一人に尋ねた。「将来どのような職業につきたいか」と。私は「電気技術者になりたい」と答えた。
技術者への軌跡2
昭和30年4月に中野区立第六中学校に入学した。卒業した野方小学校から更に5分ほど北に行ったところにあった。入学式の帰り、小学校前の坂下まできたとき人だかりがしていて、そこには潰れた三輪車があった。私はいやな予感がしてその場所を離れたかった。坂を登り切った小学校の正門の前で顔なじみと出会った。「たんちゃん(弟の愛称)だよ」と言った。私は足早に家に向かった。悶々として待った。父がタクシーから弟の亡骸を手に抱えおりた。硬直してまっすぐになった身体に、白い布がかぶされていた。このようなとても悲しい出来事とともに、中学生生活が始まった。
まもなくクラスのS君と仲よくなった。お兄さんが作った短波受信機を見せてくれるというので遊びに行った。AC電源の真空管再生式受信機だった。ST管の廃物利用で、真空管のベース部分をコイルボビンとして利用していることが新鮮だった。いくつかの巻き数の異なるコイルを着脱することにより、受信周波数帯を変えるというものだった。S君との交遊は卒業まで続き、彼の自転車の後ろに乗せてもらい二人の家の間を何度往復したことだろう。
クラブ活動は新設された放送部に入部した。アナウンスと技術のグループがあり、技術グループに所属した。毎週の朝礼、構内放送、運動会などの際音量調整やレコード掛け、音源切り換えを行うのが主な役割だった。放課後、アナウンス室に籠り、ラジオ工作談義に花を咲かせるのが楽しかった。また、放送部に東京通信工業:東通工(後のソニー)のテープレコーダーが導入され、いち早く触れることができた。Y先生が放送部の担当教員だった。柔和なかたで指導もたいへん行き届いていた。Y先生のお兄さんがアマチュア無線家だということで、技術グループの有志でお宅を訪問したことがあった。世田谷区の小田急線祖師谷大蔵の近くにあり、当時は周りに畑が多いのどかな地域だった。送信機の真空管は見たことのない大きなもので、50m先の畑の中に電柱が立っていて、そこからワイヤーで引いたもの(ロングワイヤー)をアンテナとし、電信を主に運用していた。コールサインは、JA1AS。JAは日本、1は関東地方を表し、そのあとはAA、AB~ZZとふられるので、戦後のアマチュア無線再開後の早い免許取得である。このことが大きな刺激となった。
その頃、ゲルマニュームダイオードやトランジスターが安価になってきた。私は父のために、米国製のゲルマニュームを使った小型ラジオを作った。また、東通工の2T54というトランジスターを用いてラジオ回路を組んだ。部品を調達するために近間の店を見つけ、足繁く通ったものだった。
このころからオーディオ機器に関する興味も湧いてきた。家の5球スーパーヘテロダインラジオの回路を調べ、出力段にオーディオ雑誌で知ったNFB(ネガティブフィードバック)回路を組み込み込んだりした。さらにNHKが第一と第二放送を使ったステレオ実験を行っていた。私は2台のラジオを並べステレオ放送を受信した。とても臨場感がある音だった。
私は電気技術者として、一刻も速く職業に就きたかった。そのために蔵前工業高校に進学したかった。祖父宅が近いことと秋葉原ごしに通学できるという魂胆もあった。ところが父の「お前は大学に行かないのか」という一言で吹っ飛んでしまった。都立高校は、普通科も職業科も九科目で同じ試験内容だった。私は担任の先生の薦めもあり、通学にも便利な都立武蔵丘高校学校を志望することにした。
技術者への軌跡3(その1)
東京・中野区の北外れの、畑に囲まれたのどかな環境にあった。昭和33年4月に東京都立武蔵丘高等学校に入学した。西武新宿線の鷺ノ宮駅の先を北に進みすぐ左に入り、住宅街をとおり新青梅街道を渡ると、前方は一面の畑が広がっていた。畑の一本道をまっすぐに進んだ所に学校があった。校門は武家屋敷の様な門構えだった。校舎は木造の平屋建てが幾つかと木造モルタル建てが1棟あった。モルタルのそばには櫟林があり、銀杏並木と併せて学校のシンボルとなっていた。校章は2枚の銀杏の葉を組み合わせたデザインだった。試験前に級友と下調べに行ったとき、「木造の校舎は、多分物置だろうね」と言っていたが、入学したのは何とその校舎だった。しかし、内部は中学の延長のようで全く違和感はなかった。
クラブ活動は、物理部無線班に入部した。先輩達もラジオ工作が好きな人ばかりで、ほとんどがアマチュア無線に興味があった。私は同級のT君と仲良くなった。当時、学校では全員がクラブ活動に入る決まりがあった。これを俗に強制入部制といったが、私には同じ趣味をもつ居心地のよい場所だった。活動の一番のイベントは文化祭。1学年のときは、アマチュア無線の公開実演を行った。部員には免許を持つものがなく、卒業した先輩のお出ましを願って行った。2学年は、極超短波を用いた八木アンテナの実験がメインだった。真空管式極超短波発信機を作り、それにアンテナの輻射器を接続する。輻射器の寸法は約30㎝程度である。その先に電波強度計(メーター付)を設置し、輻射器だけで適宜にメーターが振れるように調整する。輻射器の寸法より少し短い導波器の中央を持ち、輻射器の電波強度計側の位置に置き、前後に動かしメーターのより大きく振れる最大点を探る、というものだった。導波器があることによりメーターが余計に振れる、つまり利得(ゲイン)が高いということであり、それを可視化するという仕掛けだった。なお、輻射器の中央は、乗っている電波の電圧最小点(零点)であるので、手で持っても影響が出ない。余談になるが、輻射器の寸法より少し長い反射器を導波器と反対側に置いても利得が高くなる。また、導波器は数が多いほど利得が高い。以上がテレビアンテナで用いられる「八木アンテナ(厳密には八木・宇田アンテナ)」の基本原理である。魚の骨をイメージしてアンテナの構造を理解していただきたい。後に、大学祭の時にこの実験システムを再現することになった。
2学年の終わり頃、部活の上級生YさんがT君と私に「今度、電話級というアマチュア無線技士の資格が新設されるんだけど、二人で受けたらどう」と持ちかけた。相談の上、受験することにした。それは3学年の前の春休みに実施され二人は合格し、無線従事者免許を得た。早速、無線局免許を申請し機器の製作に入った。運用周波数は3.5MC(メガサイクル:現在のMHz)と7MC、変調方式は、A3(電話、振幅変調)とした。私は、送信機は、終段2E24、6L6ハイシング変調。受信機は、家庭用の5級スーパー受信機を短波帯にした構成を考えた。受信機の製作を初め、シャーシ(アルミ基台)の穴あけをはじめたころ、T君から受信機ができたから見に来ないかという誘いがきた。私は杉並区の北端のお宅を訪問した。私はたまげてしまった。受信機がコリンズタイプダブルスーパーというプロ用に使われる高度な方式を採用していた。フロントパネルも塗装仕上げであった。私は自分のものが情けなくなった。ラジオ雑誌を手当たり次第に調べ、突貫で構想を練った。コリンズタイプは、第一局部発信周波数が固定、第2局部発信周波数が可変型である。私は、第一局部発信周波数が可変、第2局部発信周波数が固定である標準的なダブルスーパー方式を採用した。父から当時のお金で2万円を工面してもらった。やればできるものである。夏休みの終わりには完成し、まもなく予備免許がおり、試験電波の送信ができるようになった。本免許までが長かった。これらの製作過程や無線局運用のことはここでは触れない。この経験が、私の本格的な「ものづくり」の原点になったことは間違いない。今さらながら、技術力を余すことなく見せてくれたT君と、資金援助をしてくれた両親に心から感謝せざるを得ない。
そうこうする内に、気がついたら年の暮れになっていた。大学受験の勉強がほとんど進んでいなかった。
技術者への軌跡3(その2)
武蔵丘高等学校は、東京都の第3学区に属していた。普通高校は10校あり、中野区、杉並区、練馬区がその進学範囲だった。大学入試実績では、西高校を筆頭に豊多摩高校と続き、その次のグループに入っていたようである。おとなしくのんびりとした生徒が多かった。身長の平均が東京都で一、二と言うことで私は中学のときに背丈が後ろから三番目程度だったが、高校では前から三分の二ほどになってしまった。3学年になる前の修学旅行で奈良・京都に行ったとき、バスガイドさんが目を丸くして「こんなにおとなしく静かな生徒さんは初めてす」と言った。その修学旅行の直前、我が家でテレビを買うことになった。私は秋葉原で半組み立てキットのテレビを頼んできた。配線を終えたのは修学旅行の前日の深夜だった。放送は終了していた。修学旅行の日の朝、電源スイッチを入れた。画面の垂直方向が縮んでいたので、ボリュームで調整し広げた。ちょうどラジオ体操を放映していた。私は、ほっとして修学旅行へ出発した。
文武両道の学校だった。旧制中学の最後の頃、軟式野球全国大会で優勝したりその後も陸上、卓球などが大会に出場したと聞いた。私が3学年の時、発足して3年目の硬式野球部が東京都のベスト16まで進んだ。東京は、まだ西、東に分かれていない時代だった。級友と連れ立って応援に行った。シード校で途中出場し、第一戦は勝利した、が第二戦で破れてしまった。学校の躾けは厳しかった。詰め襟、制帽、靴下やコートは黒・紺が原則だった。しかし、チェックすることはなく、堅苦しいと感じたことはなかった。
授業は私語などはなく静かに進んだし、先生はみな真剣に教えた。しかし、成績劣等の私はそれなりに睨まれていたようだった。数学の時間に計算尺を用いた授業があった。私は先生から回答を求められた。答えが間違っていた。その瞬間教室がどっと沸いた。先生が「こっちに来い」と言ったと思った。教壇の前に出て行った。すぐに「戻りなさい」と言われた。後で級友に聞いたら「顔を洗ってこい」と言ったそうである。3学年の国語は「枕草子」を学んだ。若くはない女性の先生だった。卒業が近い国語の最後の授業だった。授業の終わりの直前に指名され、現代語訳を命じられた。私はアンチョコで下調べをしていて何とか答えた。先生は微笑んだ。しかし、私は冷や汗をかいていた。
前章でアマチュア無線に熱中し、気がついたら大学受験が迫っていたと書いた。高校に入学した時点で、私は東京工業大学を志望した。創設時の東京職工学校が東京市浅草区蔵前にあったし、強い単科大学志向があった。武蔵丘高校では、浪人してでも国立か早慶に進学するという風潮があつた。事実、毎年国立が50名、早稲田100名越え、慶応が80名程度合格したと記憶している。私は1年でも余計に費やしたくなかった。しかし、受験時期は迫っていた。当然国立はあきらめ、早慶は理科が2科目であることと学力の点から除外。当時は東京でも工学部を持つ私立大学は少なく10指に余っていた。秋葉原が近い条件からお茶の水から通学できる大学に絞った。3校に加え東京電機大学に絞られた。
幸いにも東京電機大学に合格した。この大学は1907年創設の電機学校が前身で、実学の府として技術者の養成を目的としていた。しかも、電気通信工学科があった。私は電気技術者への展望が開けてきたことで、目の前が明るくなった。
そうして、高校を卒業した。卒業式で思いがけない「皆勤賞」をいただいた。名前を読み上げられた時、小さく咳払いをする声が聴こえた。それは紛れもなく母のものだった。
技術者への軌跡4(その1)
昭和36年4月に東京電機大学に入学した。校舎は、千代田区神田錦町にあった。中央線お茶の水駅の聖橋口を出て南に進み、靖国道りを渡った先にあった。そこには本館があり2学年まで授業を受けることになった。オリエンテーションの際、隣席にA君が座った。言葉を交わす内にすっかり打ち解けた。彼は宮城県石巻市の出身で、最初は東北訛りを気にしたようだった。授業も並んで受けるようになった。トイレに行くのも同期して「いつもの所に行こうか」が合い言葉になった。そのくらい卒業まで一緒に行動した。授業は一般教養はもちろん、実学の学校らしく1学年から電気磁気学や実験などが組み込まれていた。入学した年は、60年安保闘争の翌年であったが、闘争時も授業は整然と行われたと聞いた。東京大学が地理的に近いので兼務や幹部となった教授も多く、授業の質は高かった。中には電機学校の先輩で教授になったかたも何人かおられた。
A君は王子の叔父宅に下宿していたのだが、まもなく渋谷区笹塚に越してきて、以来学校の帰りにしばしば寄るようになった。彼の実家は村一、二の農家で、八人兄弟の下から二番目、他は皆女性とのこと。すぐ上の姉が大のクラシック音楽好きでその影響を受けていた。FMラジオやレコードプレイヤーを持っていて、遊びに行くたびに聴かせてもらった。彼に誘われて初めて正式な演奏会に行った。上野文化会館、ジャンマルティノン指揮、NHK交響楽団だった。曲目はブラームス交響曲第4番とチャイコフスキー交響曲第6番「悲愴」だった。生演奏の素晴しさに魅了された。これを機会にFMチューナーやプリアンプ、メインアンプをを自作しオーディオの道に踏み込んだ。
秋葉原が近くなった。学校ではお茶の水と神田を通学定期の指定駅にしていたので、定期券は4年間を通じ中野から秋葉原経由神田までを購入した。授業が終ると万世橋経由で秋葉原まで歩いて行き、帰りは秋葉原から乗車した。これは級友の入れ知恵だったと思う。週に一度は通った。
また、アマチュア無線の関心がよみがえってきた。高校時代に知ったあのコリンズタイプの受信機を作りたくなった。新たな筐体を購入し、前の部品を再利用して作り上げた。秋葉原で米軍放出品の水晶振動子を数個買ってきて中間周波数のクリスタルフィルタを組み込んだ。切れのよい素晴しい選択度だった。50MC受信用のコンバータをつけ、受信してみた。その周波数帯では自動車のイグニッションノイズを受けやすく、ノイズリミッタでノイズを軽減していたが、増幅型AGCの効果もあり高感度で受信できた。それに気をよくして、ミリワットクラスの送信機を一日で作り、キュビカルクワッドというアンテナを即席で作り上げ早速運用した。この程度のものでも中野区から埼玉県まで飛ばすことができた。
1学年の夏休みだった。A君が石巻の家に一週間泊まりに来ないかという話があった。好意に甘え行くことになった。松島、仙台七夕、網地島、気仙沼、平泉などその地域の観光を堪能することができた。
2学年の終盤になり一つだけ心配事があった。必須科目を5科目以上落とすと留年する決まりがあった。私たちの前年は三分の一が留年したと聞いた。中には他の文系大学に転入した人もいたらしい。これはプレシャーだった。本館の屋上に行くと3学年から授業を受ける5号館が見えた。あそこに行けるだろうかと心配した。後期の試験が終わり、私は応用数学を落とし、追試験を受けた。2問出題された。もうだめかと思ったその時キラッと閃いた。1問が完璧に解くことができた。その結果、全科目をクリアできた。
そうして、進級することになった。その最も気楽な春休みに、私は最初で最後の長いアルバイトをした。飯田橋のH電子という会社で大学の先輩が経営する小さな会社だった。そこで得たお金の全部をはたき、ステレオ用の高級レコードプレーヤーを買った。しかし、卒業するまでステレオにはできずモノーラルで聴いた。その時は充分だと感じていた。
技術者への軌跡4(その2)
3学年になると講義は専門科目ばかりになり、そのうちに輪講があった。輪講は自分で適宜なテーマの英文の資料文を探し、授業の中で発表するというものだった。当時は衛星通信が始まったころで、その受信機の初段の増幅器に低雑音の「パラメトリック増幅器」が使用されていた。私は強い関心を持ち後の特別研究(卒論)へ結び着くことになった。A君と国会図書館へ初めて出向き、女性の相談員に関連資料の検索を依頼した。それと思われる英文資料が見つかりコピーをとり持ち帰った。タイトルは「HOW TO DESIGN Solid-State Microwave Generaters」とあった。よく見るとパラメトリック増幅器ではなく「バラクタ逓倍器」だった。バラクタダイオードを用いて周波数を2倍や3倍に上げるための機器であった。輪講はその資料で行ったが、驚いたことに後に仕事の上で「バラクタ逓倍器」を担当する時期があった。逓倍器を3ないし4段重ねマイクロ波まで逓倍するものだった。
大学の一年を通じた大きなイベントに「大学祭」があった。所在地である神田錦町からとり「錦祭」と称していた。その際の電気通信工学科の「学科展」の展示は、3年生が主体となって行うことになっていた。有志十数人が集い「テーマ」を考えた。私には私案があった。具体案が出ないので口火を切った。「私たちは電気通信工学を学んでいるわけですが、無線通信に限ると入りも出もアンテナになります。身近な八木アンテナについての展示はいかがでしょう」と。賛同を得た。この時代は無線が優位であった。何度かの打ち合わせを経て、煮詰まっていった。高校時代の超短波による八木アンテナ原理実験を再現する。何種かのテレビアンテナとその電気的特性を展示する。電気的特性は自分たちで実測する。アンテナをテレビ受像機に接続し、テレビ画像を放映する。という骨子だった。そこへ思いがけない話が飛び込んできた。メンバーが知っている2学年の学生の父親がA工業というアンテナ専業メーカーに勤務していることだった。私たちはそのルートでお願いに行った。その結果、アンテナの借用だけではなく、会社の設備を使って計測させて頂けるということになった。準備が整い錦祭は開催され、無事展示することができた。その展示中、我々はテレビで思わぬ光景を見た。それは1963年11月22日(昭和38年)だった。その日は、通信衛星による初めての日米間テレビ放送中継の日だった。私たちはテレビの前で中継開始を待ち構えていた。突如ニュースが流れた。ケネディ大統領暗殺の現地ニュースだった。
就職を控えて大学が用意したイベントとして「見学会」があった。それぞれバスを仕立てて「国際電信電話公社 小山送信所」と「東芝 小向工場」に行った。送信所では、巨大アンテナや通信機器を見学した。東芝では、テレビ放送局で使用する大きな送信装置が調整中で強く印象に残った。学生の自主見学として「テレビ放送局」の見学があった。NHK、日本テレビ、TBSなどの参加希望を募った。私とA君は、日本テレビの幹事となり、その見学申し込みに行った。見学の日、テレビスタジオなどの一般コースを巡回した後、担当者のかたが大学の先輩を紹介してくれた。そのかたは主調整室(マスター)に勤務していた。最終的に送信される映像と音声をたくさんの画像モニターを見ながら、スイッチャーで切り換え操作するところだった。当時はまだ番組やCMのコンピュータコントロールがなく、すべて人が切り換えていた。先輩のリレーで最後に行ったのは、送信監視室だった。二人のかたが在室していた。放送している画像のモニターテレビや画像の詳細が見れるマスターモニターで監視するのが役割だった。そこでテレビ局の技術職の仕事の内容を知ることができた。これらの結果から就職先として見えてきたのは、「テレビの放送装置の製造会社」だった。
4学年は、就職と特別研究に注力する必要があるので、3学年までに全卒業単位を取得する方針で望んだ。
技術者への軌跡4(その3)
4学年になった。私は、夏休みの前までに就職を決め、オーバーラップして特別研究(卒論)に取り組むことを考えた。3学年で就職先を「テレビ放送装置の製造会社」とする目標を定めていた。就職のためには、就職課の推薦を受けることから始まるが、それは企業ごとの希望者の成績順で決められた。わかりやすく言うと「優」の数順というになる。私は中位の成績だった。大手企業は望めなかった。東証第二部の会社からI通信機を志望し、内定までこぎ着けることができた。社員約800名、NHKの売り上げが6割の会社だった。
5月頃、大学主催の「NHK技術研究所一般公開」の見学会が行われた。そこでもパラメトリック増幅器が展示されているのが目を引いた。特別研究は、研究室単位で教授、助教授がテーマを定め、学生が応募するのが一般的だった。私とA君は、「435MC帯パラメトリック増幅器の実験」をテーマに定め、適当と思われる助教授に頼みに行った。きっぱり断られた。現在のテーマに割り込ませてフォローする余裕がないという理由だった。当然の結果だった。そうこうするうちに、級友から河野政治教授が受けてくれるという情報を聞きつけた。早速頼みに行った。細かくは見れないがという条件で受諾された。このように心の広い先生がいることはありがたかった。
資料の収集をはじめた。アマチュア無線雑誌やラジオ雑誌を手始めに、電気通信学会誌などを集めた。また、パラメトリック増幅器のハンドブックが刊行されていることを知り、A君と神田の古本屋街を半日探し回り、半値で購入した。それと並行して手始めに無線雑誌に掲載されていた「7MC帯パラメトリック増幅器」を試作実験することにした。本命の「435MC帯パラメトリック増幅器の実験」の構成を考える必要があった。私は、アマチュア無線の関係で知り合い親友となっていたK君がNECに勤務していたので相談してみた。すると身近に、大学で「パラメトリック増幅器」を卒論のテーマにしたNさんという人がいるとわかった。新宿区西落合にお宅があり、訪問して基礎的な知識を得た。NさんはK君とともに、私の青春時代の親友となっていった。K君は、その後、パラメトリックダイオードや真空管などの供給元になってくれ、大変助かった。
最大の関門は、パラメトリック増幅器を構成する「サーキュレータ」をいかに入手するかにあった。この増幅器は2端子網なので、入力と出力が分かれた4端子網に変換する必要があった。それがサーキュレータだった。私たちは最終的に電子工学科学科長の中野道夫教授(後の学長)に相談した。主旨をきくといとも簡単に、教授の名刺の裏にすらすらと依頼文を書き、「これをNHK技術研究所のKさんに持っていきなさい」と言われた。技術研究所を訪問した。K氏は主任研究員で自分の研究室を束ねていた。以前、一般公開で目にしたパラメトリック増幅器は、UHF放送用(700MC)のもので、そこで使われていたサーキュレータは、研究室で新規研究開発した「集中定数Yサーキュレーター」だった。私たちの話をきくと「435MCは、興味深い周波数なので、今日中に作って貸して上げます」というありがたいことになった。おまけにパラメトリック増幅器の開発者であるKB氏を紹介して頂いた。
この年は東京オリンピックが開催された昭和39年であった。しかし、私たちは機器製作に没頭した。特別研究の期限は翌年2月1日だった。実験結果は、間に合わなかった。やむを得ずA君と相談し、理論編と7MC帯パラメトリック増幅器実験の部分を提出することにした。正直、実用になる代物ではなかった。主要部を共通にし、それぞれまとめに入った。私は欲が出て細部にこだわり、提出前の3日間は一睡もしなかった。A君も同様だった。締め切りの日に提出を終え、家で夕食後床に着いた。目が覚めたのは24時間後だった。両親に大変心配をかけた。
そのあとも製作、データ計測が続いた。435MC帯パラメトリック増幅器の特性は満足のいくものだった。NHK技術研究所KB氏の協力で雑音指数を計測した。しかし、その時サーキュレータが故障した。2度目だった。これ以上の手直しは依頼できなかった。コネクタの着脱が激し過ぎた。計算値の雑音指数は約2dbであった。この結果は、写真付9ページの論文に仕上げた。10部作成しお世話になった方々に配布を終えたのは、卒業式の寸前だった。
今でも主要部の機器は手元にある。しかし、A君は、私が会社を定年退職する直前、赴任先のヨーロッパで逝去してしまった。卒業後に会えたのは数回であった。この思い出の機器を手にし、二人で語り合いたかった。
(了)
技術者への軌跡 あとがき
1984年7月(昭和59年)の初めのことでした。私は当時、あるシステムの拡販のため、名古屋に派遣されていました。ここを拠点に大阪駐在者と連携をとり西日本エリアの展示会対応、商談対応を行っていました。私はその日、寮の居室で6月のカレンダーの裏側に「生まれてから覚えていること」を書き出してみました。それを基に2年ほどの間に書いたのが「技術者への軌跡0」にあたります。完成したのは3年ほど前です。多少推敲してあリますし、比較的読みやすい部分だと思います。それ以外は、アップした日かその前日からそれぞれ一気に書きました。推敲もほとんどしていませんし、技術的なことが多く読みにくくなっていると思います。それで、途中にアクセントとして「技術者への軌跡0」を挿入しました(アップの時系列上)。
当初は会社時代も含め、「技術者の軌跡(自分史)」として書きたかったのですが、もともと遅筆であることと、さすがに会社時代は仮名で書くとしても支障があるので、大学卒業までを区切りとしました。文章力も気力もないので、今後は書くとしても断片的なエッセイ風になると思います。
東日本大震災より2年目の日に記す
技術者への軌跡 三由 民樹(みよし たみき) @miyosiA
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