第9話
た「ゆいか……結婚してくれないか?」
ゆ「…たけちゃん……」
しばしの沈黙が、二人を包む。
数分後、ゆいかがゆっくりと口を開く。
ゆ「たけちゃん…気持ちはすごく嬉しいわ、ただ…今すぐに返事はできない。ごめんなさい」
た「……」
ゆ「少し、考えさせてくれないかな?」
た「…うん、ゆっくりでいいから、答えを教えてくれないか?」
ゆいかがたけひこのプロポーズをすぐに受けられなかったわけ、今の仕事、独身の自由な時間、どれも今すぐには捨てがたかった…
ただ、いちばんの理由は…あきらの存在だ。
それから1ヶ月が経ち
青葉薫る皐月の昼下がり、ゆいかはあきらと水戸駅前の喫茶店で語り合っている。
あ「ゆいか…何か浮かない表情だね?」
ゆ「う〜ん、あのね、あきらさん」
あ「なに?」
ゆ「…こないだ私、たけちゃんから、プロポーズを受けたの」
あ「おお!よかったじゃないか! OKの返事したの?」
ゆ(首を横に振る)
あ「どうしてー?」
ゆ「私、わからないの、あきらさんとたけちゃん、どっちのほうが好きなのか?2人とも同じくらい好き、2人の中から1人なんて選べない。だから、たけちゃんに即答できなかったの」
あ「ゆいか…おれらの関係は所詮プラトニックだ。だから…」
ゆ「所詮って何、所詮って! あきらさん、私のことそんな軽い存在としてしか見てなかったのね‼︎」
あ「ゆいか、違う、ちょ」
ゆ「もう、あきらさんのことなんて知らない!帰るわ!」
あ「ゆいか!」
ゆいかは喫茶店を飛び出した。
ゆ「あきらさんなんて、嫌い!泣」
翌日夜、あきらの下にゆいかからラインが届いた。
「昨日はごめんなさい。あんなに取り乱して、私本当にバカだった。でも、私あきらさんのことが本当に好きなの。それだけは忘れないで」
あきらはゆいかに電話をかけた。
あ「ああ、ゆいか。ライン、見たよ」
ゆ「あきらさん…今、会える?」
あ「少しなら大丈夫だよ」
ゆ「水戸まで行くわ、また連絡する」
5月下旬、水戸駅前
そぼ降る雨に打たれ、ゆいかとあきらが並ぶ
ゆ「あきらさん、こんな雨の夜に呼び出してごめんなさい」
あ「いや、いいんだ。もう大丈夫か?」
ゆ「うん、気持ち落ち着いた。昨日は本当にごめんなさい」
あ「いや、もう気にするな、おれも言い方が悪かった」
二人は水戸駅前をそぞろ歩く。
ゆ「あきらさんは、奥さんのこと好き?」
あ「ああ、好きさ」
ゆ「私と奥さん選べって言われたら?」
あ「それは選べないさ、ゆいかはゆいか、さよはさよ。だから、君とこうして会うのはやめられないんだ」
ゆ「私も同じ気持ち。でも…今の日本だと、結論を出さないといけないのよね…たけちゃんと一緒には、なりたい気もするし、なりたくないような気もする」
あ「ゆいか、おれからは何も言えないよ。よくよく考えて決めたらいいよ。おれも話は聴くからさ」
ゆ「ありがとう……ところで、今日奥さんに何て言って家出てきたの?」
あ「急に呼び出されて、って」
ゆ「夜中の呼び出しって、しょっちゅうあるの?」
あ「いや、全くない」
ゆ「大丈夫なの?」
あ「まあ、なんとか…あ、もう11時20分だ、終電大丈夫?」
ゆ「あら、もう行かないと」
あ「駅まで送るよ」
ゆ「うん」
しとしとと小糠雨は降り続く。ゆいかはその中を歩き、改札の中に消えていった。
6月中旬、京都龍安寺。
ゆいかは雨降る中、境内を散策する。
ゆ「紫陽花が見頃ね」
一人つぶやく。それに応える人は隣にいない。
ゆいかは休みを利用し、京都へ一人旅に来ていた。あきらかたけひこ、どちらを選ぼうか心を落ち着けて考える時間がほしかった。いや、あきらを選ぶことは許されていないのだから、まったくの悔いなくたけひこを選べるように、心を落ち着けたかった。
「そう言えば、あきらさんと遠出することは無かったわね。もし京都に一緒に来たら、ガイドみたいに先導しながら、いろいろ案内してくれるだろうなあ〜」
心の中で、そうつぶやく。
一人旅にもかかわらず、あきらのことが頭を何度もよぎる。
ああ、私やっぱりあきらさんのことが好きなんだわ。そうなのよね、無理に忘れる必要はないわ。そうよ、そう…。
言い聞かせるように、ゆいかは自分の心に語りかける。
ゆいかは、コツコツとヒールの音を立てながら、祇園を歩く。
雨に濡れた石畳、柳の木、その真ん中を紺のワンピース姿のゆいかがすくっと立つ。すれ違う人は立ち止まり、ゆいかの絵になる姿に見とれる。
鴨川を渡り、四条河原町の交差点に差し掛かったところ。
若者「お姉さん」
ゆ「はい」
振り向いたら、松坂桃李に似た好青年がいる。
若者「よかったら、一緒にお茶でもいかがですか?」
ゆ「…いえ、けっこうです」
コツコツコツコツ…ゆいかは足早にその場を後にする。
ゆ「ナンパなんて久しぶりだわ、もう」
東京にいた頃は、よくナンパされていたゆいかだったが、茨城に来てからはナンパされたことは無かった。都会の人間はやはり、ゆいかの美貌を放ってはおかないのだろう。
ゆ「でも、けっこういい男だったわね」
結局、ゆいかは心があまり落ち着かないまま、京都をあとにした。こうして現実から一時的に逃げても何も始まらない…
改めてそう感じた。
ただ、京都での滞在のおかげで、ゆいかの心には少しの覚悟ができた。
決断することで失うものはある、それはかけがえの無いもので、失ったあとで心に大きな喪失感が生まれるかもしれない。
ただ、それを失ったことを後悔することは絶対にない。なぜなら、私自身が下した決断だから。
つづく
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