彼女はそうして男を殺す
黒猫くろすけ
第1話
「ねえ、アンタ、また浮気されたのね」
地下の薄暗いスタンドバー。
カウンターに突っ伏すようにして泣いている三十女に声をかけた
のは、同じ様な三十女だった。
店には今、客がこの二人しかいないようだ。
カウンターの中のマスターは、先ほどからずっと同じグラスを磨
いている。時折グラスをオレンジ色の間接照明にかざしてニヤリと
笑っているのは、彼の関心があたかもそれにしかない事へのアピー
ルなのかもしれない。
泣いている女はその言葉に顔を上げ、その声の主を一瞥する。が、
すぐにまたカウンターに突っ伏した。
「アンタ、またよからぬ事を考えているんでしょう? ん?」
そう言って、女は泣いている女の隣に陣取った。
「今年に入って何人目の彼氏よ? まったくアンタって子は懲りな
いんだから。今度の彼も浮気するって事は、アンタも薄々気づいて
いたんでしょうに」
女はそう言うとバックの中からシガーケースを取り出し、赤い爪
で細いタバコを一本摘み出すと火を点けた。
「で? 今度も殺すんでしょう? あ、もちろん自分自身を、じゃ
なくて彼をだけど。何なら手伝うわよ?」
その言葉にカウンターに突っ伏していた女は顔を上げる。
「やっぱり、今度の彼も殺さなければダメなのかしら? 今のまま
じゃ……」
煙草の煙をフーッと吹き出した女は笑いながら
「今更何を言うの? ダメダメ、殺さなけりゃ次には進めない。ア
ンタも分ってるでしょ?」
煙草を透明な灰皿でもみ消すと、女はカウンター越しに声をかけ
る。
「ヘイ、マスター、いつものお願い。あ、私はビールでいいからね」
「はい。いつものポーランドのスピリタスね。今回もボトルで?」
「うん。あ、余計なことは言わなくていいから」
「はい」
と、マスターは神妙な顔つきで奥に消えた。
「ねえ、アンタはあれを飲んで彼を殺す準備をするのよ。いい?
わかったわね?」
「……」
マスターが店の奥から、白地にグリーンの文字が印象的なラベル
の貼られた透明なボトルと、ショットグラス、それからビールを運
んできて、彼女達の前に置いた。ショットグラスには透明な液体が
注がれる。
「ほら、飲みなさいよ。グッといっちゃって」
涙を拭きもしないで、女はショットグラスを受け取ると一息に飲
み干した。
「カァ~~~~~ア、きくぅううううううううう!」
「そうよ。その勢い! いいわね♪」
女は少し笑いながら、空になったグラスに透明な液体をまた並々
と注ぐ。
「あの、今日は程ほどにしておいてくれませんかね? 救急車を呼
ぶのはもう勘弁ですよ?」
マスターの言葉に、
「うるさいわね。女が一人の男を殺すには、程々じゃダメなのよ。
でもまあ、今回は救急車は無しってことで。ね?」
「はい」
うなずくとマスターはまた元の場所に戻ってグラスを磨き始める。
「そうよ、飲んですべて忘れるのよ。実際に殺すのも簡単だけど、
それじゃダメ。そいつに一生支配されちゃうから。この私みたいに
ね。だから……」
「実際に殺すよりも、忘れる事が真に男を殺す事になる、か。経験
者は語る、よね」
二杯目ですでに意識が朦朧となった女は、赤く濁った目で隣の女
を見て笑った。
「うるさいわね。人に言ったらアンタを殺すから」
そう言ってもう一本煙草を吸おうとした女は、あ、引火したら大
変な事になるな、と考え、煙草はやめてビールを注ぐと、今も忘れ
られない庭に埋まっている男の事をちょっぴり思いながらグラスを
煽った。
彼女はそうして男を殺す 黒猫くろすけ @kuro207
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます