p7 遊女・お玉の話


遊女の最後は投げ込み寺に無縁仏として葬られると書いたが、立派な墓を立ててもらった孝行娘の話である。


埼玉は上尾駅前から200mほど進んだ左手の路地奥にある寺・遍照院(へんじょういん)に、上尾宿の遊女であったお玉の墓がある。寺に入ってすぐ左の墓地の一角に墓はあり、傍らには『孝女お玉の墓』と記された立て札が掲げられている。

お玉は越後の貧農の子として生を受け、家の貧しさを助けるために11歳の若さで身を売ることとなった。お玉は、文政3年(1820年)、上尾宿の飯盛旅籠の一つである大村楼に入る。その後、美しく気立てよく、宿場でも評判の遊女となっていたお玉は、19歳のとき、参勤交代のお役目で上尾を訪れた加賀前田家の小姓に見初められ、めでたくも江戸行きとなった。 ところが、江戸で暮らすこと2年ばかりで病を患い、冷たくも上尾に戻されてしまう。


病身のお玉は、それでも、生家を支えるためにと懸命に働き続ける。しかし、その苦労が報われることもなく、25歳の若さでこの世を去った。大村楼の主人は、孝行な娘お玉の死を悼み哀れんで、遍照院に墓を建てて篤く弔ったという。この時代にあって、一遊女のために立派な墓が建てられた例は数えるほどでしかない。たいていの遊女は、死ねば名とてない無縁仏となって葬られる。 墓石に彫られた戒名『廊室妙顔信女』とともに、誰からも愛されたお玉の人柄が偲ばれるのである。


墓の話が出たが、永井荷風の日記「断腸亭日乗」昭和12年6月22日に『若紫塚記』

という一文がある。


〈女子姓は勝田。名はのふ子。浪華の人。若紫は遊君の号なり。明治三十一年始めて新吉原角海老楼に身を沈む。楼内一の遊妓にて其心も人も優にやさしく全盛双 ひなかりしが、不幸にして今とし八月廿四日思はぬ狂客の刃に罹り、廿二歳を一期として非業の死を遂けたるは、哀れにも亦悼ましし。そが亡骸を此地に埋む。 法名「紫雲清蓮信女」といふ。茲に有志をしてせめては幽魂を慰めはやと石に刻み若紫塚と名け永く後世を吊ふことと為死ぬ〉


非業の死の事件とは、

ある男が馴染みの店の女と無理心中を試みようと、匕首(あいくち)を持って楼に乗り込んだ。その女が別の客を取っていることに腹を立て、その女ならまだしも、誰でもいいとその楼を飛び出し、目に入ったのは大店角海楼。

ふらりと入り込むと、華やかな花魁がゆっくりと店の中を移っていく。どうやら名残の別れをしに来た客との席があるようだ。男は、引き寄せられるように花魁に近づく。ふと、禿が振り返った。若い衆が声をかけた。男が走りだし、匕首の鞘が払われた。無念にも犠牲になったのが若紫であった。

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