p5 紺屋高尾
高尾太夫を先に述べたが、『紺屋高尾』の話からはじめよう。
神田紺屋町、染物屋の六兵衛のところの染物職人、久蔵。11の歳から親方に奉公し、26となった今でも遊び一つ知らず、まじめ一途に働く好青年だった。その久蔵が、なぜか急に患って寝込んでしまった。心配になった親方の六兵衛が尋ねてみると、「お医者様でも、草津の湯でも…」とか弱く答える。恋患いであった。
六兵衛がその事情を聞いてみると、三日ほど前に友達づきあいで吉原に行き、話の種だからと、『花魁道中』を初めて目にしたという。その時、目にした高尾太夫のこの世のものとも思えない美しさに魂を奪われ、それから染物の布を見ても高尾に見えるようになってしまった。あんな美人と一晩語り明かしてみたいが、相手は『大名道具』と言われる太夫、とても無理だ…と、寝込んでしまったのだという。
これを聞いて六兵衛、「とっても叶わぬ話だ」と思ったが、「このまじめ一徹の男に、面と向かって『駄目だ』というと変になって、何をしでかすかわからない。ここはひとつ、希望を持たせてやらなきゃ」と思い直して、「いくら太夫でも売り物買い物だろう!三年我慢だ。俺に任せておけば必ず会わせてやる」と請け負った。
高尾太夫を座敷に呼ぶのにはどう少なく見積もっても十両はかかる。久蔵の給金からから計算して三年と計算したのだが、親方、三年もしたら忘れるだろうとの思いもあった。それを聞くと希望が出たのか、久蔵、にわかに元気になり、それから三年というもの、久蔵は一心不乱に働いて、入ってくるお金はすべて貯えに回した。その結果、三年たったころには貯えは十両を通り越し、十三両近くにもなっていた。
この金を持って、遊びに行ければいいのだが、何せ相手は最高位の太夫。突然乗り込んでいっても会えるわけがない。そこで、六兵衛思案して、知り合いのお玉が池の竹内蘭石という医者を案内役に仕立てることにした。この先生、腕の方はアヤフヤだが、遊び込んでいてなかなか粋な人物。早速呼んで教えを請うと、予想通りいろいろとアドバイスをしてくれる。
「いくらお金を積んでも、紺屋職人では高尾が相手にしてくれません。そこで、久蔵さんをお大尽に仕立てて、私がその取り巻きということで一芝居打ちましょう。下手なことを口走ると紺屋がバレるから、何を言われても『藍(あい)よ、あいよ』で通してくださいな」。
帯や羽織もみな親方に揃えてもらい、すっかりにわか大尽ができあがった。先生のおかげで無事に吉原に到着し、高尾に会いたいと申し出ると、なんと高尾が空いていた!しかも、高尾から「大名のお相手ばかりで疲れるから、たまにはそんな方のお相手がしてみたい」と、返事が返って来た。
久蔵が高尾の部屋でドギマギしていると、高尾太夫がしずしずと登場。少し斜めに構えて、煙管で煙草を一服つけると、「お大尽、一服のみなんし」。太夫は初会では客に床は許さないから今日はこれで終わり。高尾が型通り「今度はいつ来てくんなます」と訊ねると、感極まった久蔵は泣き出してしまった。
「ここに来るのに三年、必死になってお金を貯めました。今度と言ったら、また三年。その間に、あなたが身請けでもされたら二度と会うことができません。ですから、これが今生の別れです…」。
大泣きした挙句、自分の素性や経緯を洗いざらいしゃべってしまった。高尾の方も、久蔵の手や指先を見てそのうそに薄々気がついていた。久蔵、怒られるかと思いきや、高尾はなぜか涙ぐんだ。
「お金で枕を交わす卑しい身を、三年も思い詰めてくれるとは、なんと情けのある人か…、自分は来年の三月十五日に年季が明けるから、その時女房にしてくんなますか」と言われ、久蔵、感激のあまり、又々、泣き出してしまった。
「夫になる人からお金を貰う訳にはまいりません」と、お金をそっくり返され、夢うつのままに帰ってきた久蔵、「来年の三月十五日…あの高尾が嫁さんにやってくる」前にも増して物凄いペースで働き出した。
***
「起請文*だって当てにはならないご時世だよ。花魁の言葉なんか信じられるか!」と、仲間はてんで信じてくれない。親方六兵衛は金が返って来ているので「もしや」とは思ったが、やはり信じられない。騙されたと知って、大川に身投げでもされたらとそちらの方が心配。久蔵だけは、あの高尾が嘘を言うはずがないと信じて、執念で働き通し、親方も認める腕となった。
いよいよ「その三月十五日」、本当に高尾がやって来た。仕事中の久蔵、「ウーン…」と唸って失神。染桶にはまって藍(あい)に染まってしまったとか。子のない親方夫婦は、久蔵と高尾を夫婦養子とし、夫婦揃って店に立った。
高尾見たさに、客が押しかける。手ぬぐい、鉢巻は無論、染められるものはなんでも持ち出して、高尾を一目見ようとする。中には女房の腰巻まで持ち出す不逞の輩もいる。
「お前さん、それはダメだよ」
「どうしてだい」
「唯一、残ってる色物だよ。見てごらん家はみな藍色だよ」
「あいがあっていいじゃないか」と洒落たとか…。
仕事熱心な夫婦が考案したのが、手拭いの『早染め*』。その速さと粋な色合いがブームとなり、夫婦の紺屋は益々繁盛したという。
いつの世も叶わぬ男の夢物語である。
*紺屋:「紺屋」は中世に「紺掻き」と言われた藍染専門の職人を呼んだものだが、ひじょうに繁盛したため江戸時代には、染物屋の代名詞となった。
*、起請文(きしょうもん):「年季が明ければお前さんと一緒になります」と神仏に誓う文。客を呼び込むため何枚も乱発する遊女もあり、あまり信用されず、そのうち客も一種の遊びと受け取った。
*早染め:「紺屋の明後日」という言葉があるぐらい、紺屋の仕事は天候に左右され、仕上がりが遅れがちで、催促されるといつも「あさって」と言い抜けるばかりであった。仕上がりの早い早染めは人気を博した。
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